木精の歌 ─木下利玄の世界─
(その3-2)
written and illustrated by 銀の星(2005/03/22Up)
【その3・目次】(続き)
(4)志賀は悪友?
(5)迷いやすさと、気づかいと
(6)ゆずらぬ見識
(7)〈木下の結婚を成功させよう!〉
(←その3-1へ) (1)早熟の文章家 (2)旅は道づれ・旅日記 (3)広がる表現の幅
※この文章における木下利玄のテキストの引用は、『定本 木下利玄全集』歌集篇・散文篇(臨川書店 1977年)に依っています。但し、旧漢字は、適宜常用漢字にかえて表記しています。
さて、これまでのように、利玄の創作活動の変遷を辿ってゆきますと、やはり“志賀直哉”の登場は、エポックメイキングな出来事だったことがわかります。 それ以前には、徐々に友だちとの交流範囲は広がってきていたとはいえ、やはりどこかでそれは、前時代に彼の家系が所属していた階級の範囲内におさまりがちだったと思われます(※注3)。それは、そういう相手との方が、生活文化のベースが共通しているので、より気心が通じやすかったから、という理由もあったからでしょう。 しかし、落第した志賀直哉が、利玄のそうした交友関係の中に入ってきたことで、リレーションの範囲は一変しました。 この時、両者を結びつけたのは、細川護立の存在が大きかったと思われます。 まず、志賀直哉自身が非華族の家柄でしたし、その友人にも非華族の若者が沢山いました。志賀はスポーツマンで、色々な競技の選手だったので、その方面の知りあいも数多くいました。 さらに、志賀は、大のエンターテインメント好き。当時は、まるでアイドルのコンサートにいくように、娘義太夫の興行に出かけて行っていましたし、芝居も落語も大好きときています。 しかし、一方は、学年を代表する優等生。そしてかたやは、決してたちの悪い不良少年ではないにしても、授業中もかまわず窓からツバを吐いたり、気がのらないと平気な顔で教室を出てしまったりする、傍若無人なわがまま者です。となると、まわりから気をもむ者があらわれるのも、当然の事かもしれません。 ある日、木下が来て相談したいことがあると言うのだ。いつもより少し困っているようなので、何かと聞くと、木下のところの三太夫が学校によばれて行くと、「志賀直哉とはなるべくつきあわないように注意するように」と言われたのだそうだ。
(中略) 僕は木下からそう言われると、「さもありなん」とこっけいに思った。腹が立つよりふき出したくなった。 その頃の武者小路は、ただ、遠くから、彼らの楽しげな様子を見ているだけ。トルストイに最も傾倒していた時期でしたし、事実、小遣い銭の自由も無かったからです。 幼なじみの木下が、賑やかな友だちの輪の中に入ってゆく後ろ姿を、内心、淋しいような思いで見送った事も、きっとあったことでしょう。 しかし僕たちは、木下がそのために堕落するような人間ではないことを知っていたし、志賀は木下にとって悪友ではなく、善友であることも知っていたので、それを心配する先生のばかばかしさはこっけいに思えた。しかし木下が困っていたのは事実なので、僕は、先生にも三太夫にも言いたいことは言わして、要領よく志賀とつきあえばいいだろう、志賀は君にとって大事な益友なのだから、いままでどおりつきあうのを遠慮する理由はないと思う、というようなことをいった。 この時の武者小路の〈志賀は木下にとって善友であり益友〉という見方は、ある意味で、正鵠を得ています。利玄は、幼少期まで、ずっと“家来”意識の旧家臣たちに囲まれ、しかも、常に〈当主〉としてのふるまいを期待されていて、自分の感情を表に出す事がほとんど出来ませんでした。でも、志賀直哉という友を知ったことで、気持ちを表にはっきりあらわしたり、自分の好き嫌いをしっかり把握しておくとはどういう事なのかを、利玄は、たぶん驚きとともに理解したはずです。志賀は、利玄の生命の解放になくてはならない人物だったのです。 ただ、このお話には、若干の続きがありまして…。 僕は大いにおもしろい話を聞いた気になり、志賀に話して、ふたりで大いに笑うつもりで、その後志賀に会ったときその話をしたら、志賀は笑う前に怒り出した。 そういう話題があった、というだけなのに、本気で憤慨して怒り出すとは、さすが、当時の志賀らしいエピソードです。確かにこうした気性からいって、志賀は、先生だけでなく、友人たちにとっても、相当“扱いにくい男”ではあったでしょう。 |
木下利玄の、よい処でもあり、同時にウィークポイントでもあったのは、その研ぎ澄まされた〈バランス感覚〉でした。自分の言動で、誰かに嫌な思いをさせてはいけない、不公平があってはいけない。そう配慮出来ることで、彼は、大抵の場合、周囲に無用の波風をたてることなく、様々な関係の輪の中に入ってゆくことが出来ました。 例えば、学習院を卒業後、回覧雑誌『白樺』(『望野』の後身)時代になって、お互いが作品の寸評をしていた時のことです。(右は、武者小路と正親町公和→) それ(武者小路作「ペルシヤ人」)は回覧雑誌にのせた。志賀の「網走まで」と同号にのつた。正親町が「ペルシヤ人」も面白いが「網走まで」とは段違いに駄目のやうに批評したが、自分でもそれは内心認めてゐたが、正親町も乱暴なことを云ふ奴だと矢張り内心で思つたことを覚えてゐる。
今から考えれば、志賀の「網走まで」は、非常に完成度の高いデビュー作として定評がありますし、武者小路の「ペルシャ人」は、やはり〈習作〉の域を出ているとは言えません。ですから、見方としては正親町公和が正しい。ただ、正親町にとっては、武者小路は心やすい友人だったらしく、他人(ひと)にはあまり言わない意見も、武者小路にならはっきり言う傾向があったのは事実のようです。それを、“そこまでむきつけに言うのは…”と気遣う利玄の優しさはわかるのですが…。
また、この優柔不断さとも関わりますが、利玄のもう一つの欠点は、〈決断力〉に欠けることでした。 万事三太夫任せで大きくなった木下と、万事兄任せで大きくなったふたりは、つまらぬことに決心がつかなかった。 当時のイエ制度の特徴は、決定権を持っている人が明確に決まっている事です。特に高位の階級の家庭は、決して現代のような、核家族的な単位ではあり得ません。むしろそれ自体が、様々な雇用者を含み込む一つの組織だったため、無用の混乱を避けるために、決定権はなるべく一元化しておくのが普通でした。 でも、もう“勤王側につくか、佐幕側につくか”といった重大事で悩むような時代でもないのに、日常のささいな事に決断のスイッチが入らないように育ってしまっているというのは、困りもの。本人たちにも悩みの種だったようです。 昼食をするのにどこでしたらいいか、夜泊まるのにどの宿屋にしたらいいか、ふたりは相談はするが決定はできない。理屈の言いっこなら、僕は大概負けない自信があるが、昼食はどこでしようか、晩はどこで泊まろうかという実際問題については、低能児のように頭が動かない。木下も決断出来ない。はがゆく思うし、どこだっていいと思うのだが、ふたりとも決心がつかず、同じ食堂の前や、宿屋の前を二、三度往復して、まだきめられないのには、われながらいやになった。 利玄と武者小路の共通点は運動オンチでしたが、決断力がない事にかけても、2人はいい勝負だったようです。それでも、最終的には、いつも何とか武者小路の方が決めていたようですから、利玄の優柔不断は相当のものだったのでしょう。
学習院時代、利玄が、志賀たちと一緒に娘義太夫に夢中になっていた時のこと。彼らのご贔屓は、その当時、大人気を博していた、昇菊と昇之助という姉妹の太夫でした。特に妹の昇之助は、その頃はまだ13〜4歳で、初々しく可憐なさかり。おまけに、当時の女性芸人としては珍しい、ショートヘアー(ザンギリ頭)の個性派だったとか(※注5)。皆のお目当ても、ほとんどはこの昇之助の方でした。一方、姉の昇菊は、芸には秀でていたらしいのですが、どことなく自分の上手(うま)さや美貌を鼻にかけている雰囲気があったようです。 ある日、やはり仲間同士で、義太夫の話題に花が咲いていた時のこと。みんなが昇之助をほめていると、中で利玄が、“僕は、昇之助と同じくらいに、昇菊にも声援を送るよ”と言ったのです。 皆は驚きました。おそらく、普段の性格や女性の好みからいって、利玄も当然、昇之助びいきのはずだと思っていたからでしょう。意外だ、という皆の反応に、利玄はこう言ったといいます。 これはほとんど、健気(けなげ)なまでの、細やかな想像力ではないでしょうか。 |
しかし、見過ごしてはならないのは、利玄が優柔不断だったり優しすぎたりするのは、〈短歌〉意外の事柄についてだった、という事です。こと、短歌に関する事となると、利玄はきっぱりとした自分の基準を持ち、決して納得もせずに意見を変える事などありませんでした。彼のポリシーや、表現に対する高い鑑賞能力は、「短歌管見」「私の冬の歌」「「氷魚」を読みて」等の歌論群にもはっきりと現れています。 姫島の松の夕日に雁鳴きて わが子恋しき秋風ぞ吹く(※加納諸平の短歌) 姫島は筑前にあるといふ。其姫島に立つてゐる松に、夕日がさして雁が啼(なき)渡る。そして薄ら冷たい海辺の秋風が吹いてゐる。此辺土の落莫たる風物に対してゐると、遠い故郷の我子が、堪らず恋しいといふのである。
月にうつ大城の鼓しばし待て くだちゆく夜を誰か惜しまむ の如きは、調子は高く張つてゐるが、内容が何となく空疎な、そぐはない多少空元気(からげんき)な感がある。此は彼の雄渾趣味から出てゐるのであつて、彼の内に感じたものを、素直に発表するといふやり方でないからだらう。 誰の、どんな表現に対した時でも、言葉に即して、そこに詠まれている境地を充分に感受しようとする。しかし、表現に内実がともなっていなかったり、言葉がうわすべりしていると思われる場合は、決してほめたり、ものわかりのいい顔をしない。それが、木下利玄の一貫した姿勢でした。 (前略)一途に自分の本領に進んで行く、其所に木下の性質的な強味があると私は考へる。日常生活では割りに迷ひ易い所謂(いわゆる)意志の強くない方の木下が仕事の上とか、芸術鑑賞などでは少しも他と雷同する事なく、明瞭(はっきり)した自分を持つてゐた。これは気持のいゝ事だつた。そしてこの事は木下が本統の芸術家である事を想はせる。 志賀は志賀で、利玄に出あってから、おそらくはじめて、“しなやかな強さを秘めた優しさ”というものが在ることを知ったのでしょう。その意味で、〈益友〉は、志賀の方ばかりではなかったのです。 |
このように、利玄は、様々な同世代の若者たちとの交流を繰り広げながら、彼の人生の中でも、もっとも幸福で充実した青春時代を過ごしました。それは、15歳頃から25歳頃までの、およそ10年間に及びました。 彼の人柄をよく知り、後年に至ってもこよなく懐かしんでいた人の一人に、年下の友・里見 弓享がいます。彼の回想からは、武者小路や志賀とはまた別のアスペクトから見た、利玄の人となりが端的に浮かび上がってきます。 恐らくあまり多くの人が知るまいと思うことで、君の大きな特徴の一つは好謔(こうぎゃく)であろう。一体初期『白樺』同人には好謔家が多かった。それには多少とも学習院の鷹揚な気風も働いていよう。武者小路、柳、児島(喜久雄)、それから早く文筆を捨ててしまったが田中雨村、これらの人々と一緒になったが最後、何時も腹の皮をよじらされてしまう。そういうチャンピオンの中に伍して、君の好謔はまた一種特別の光彩を放った、性格的で、少しも苦吟の跡のない点は、勿論諧謔の第一要素で、特に挙げるにも及ばない話だが、君のは、風刺的な針などない代りに、ふわりと、上品に、しかも洗練された奇智が仄(ほの)めくのである。 私が二十か二十一歳だったかの春、君と志賀と三人で畿内のあちこちを旅して歩いたことがあるが、その呑気な貧乏旅行(物価の安かった時分とはいえ、十日ばかりの旅に旅費はたった四十円くらいだった!)の間、特別また可笑(おかし)がり家の私など、君のために何辺涙を流し腹を抱えて笑いころがされたか知れない。君はまた私をつかまえて、伊吾(いご)(その頃の私の通称)はいい、可笑(おか)しみの細かな味が判ってくれるからほんとにありがたい、などと一種の「愛読者」扱いにしたものだ。 多く他を語らずともただこの好謔を通しても知れるだろうように、孤独と冷さの中に育ったようにも想像される君の心のうちには、禅家のいう日日是好日底の明るさがあるのだ。上品な奇智があるのだ。ちょっと誇張すれば弱々しいと評することも出来ないではないような、優美があるのだ。
どんなに冷えびえとした環境にあっても失わない、心(ハート)の奥の明るさと暖かさ。それはもちろん、生まれつき、利玄が胸のに秘めていたものでもあります。しかし、逆にいえば、それが大きく開花したのは、彼が人とつきあう上で、無用のこだわりをもたずに、いろんな気性や特質を持った友だちの影響を受け入れていったからと言えるでしょう。
これまでもお話してきたように、利玄は、〈女性〉とは一種隔離された状況で育って来たので、こと、恋愛に関しては、非常に奥手で空想的でした。一時期の娘義太夫熱は、当然ながら、夢の世界への憧れで終わってしまいました。 それに、最大の問題は、後見人の木下岡次郎──あの、利玄の友だち皆から“チャボ”とあだ名されていた人物──でした。 そうはさせじ、と頑張ったのは、むしろ周りの友だちの方でした。 木下がその後結婚する時も、僕は志賀たちと、木下が三太夫に負けないように、骨折ったものだ。その骨折りのかいがあったかどうか、木下は自分の結婚したい人と結婚した。それは恋愛結婚ではなかったが、僕も知っている友人がすすめて見合いしたあと、木下がのり気になっていたのは事実だった。 おせっかい、と言えば言えるでしょう。しかし、自分たちの大切な友・利玄が、その優しさのために、好きでもない女性との結婚を黙って忍ぶなど、考えただけでも、彼らの方がたまらなかったに違いありません。 一応もと郷士(ごうし)の家系とはいえ、単なる地方の一平民の娘をめとる事には、やはり木下家側からの反対があったといいます。しかし、利玄は自分の意志を貫き通しました。彼が、自分の人生に関することで、自我を前面に押し出したのは、この時が初めてだったのではないでしょうか。
(続く) |