木精(こだま)の歌 ─木下利玄の世界─
(その4)
written and illustrated by 銀の星 (2005/07/12Up)
【その4・目次】
(1)故郷のきのこ狩り
(2)ささやかな挿話
(3)利公(としきみ)のために
(4)あいつぐ別れ
(5)くけ戸(ど)へ
(6)不吉な一致
※この文章における木下利玄のテキストの引用は、『定本 木下利玄全集』歌集篇・散文篇(臨川書店 1977年)および雑誌『白樺』に依っています。但し、旧漢字は、適宜常用漢字にかえて表記しています。
明治44年(1911)5月15日、木下利玄、結婚。 物心ついて以来、ずっと〈家族〉に恵まれなかった利玄にとって、自分の妻を迎えたという事は、どんなにか嬉しかったのでしょう。彼はさっそく、この年10月に新妻の照子と帰郷した時の様子を、「山遊び」という小品にまとめ、『白樺』(11月号)に寄稿しました。 蕈は松の根の、こぼれ松葉の下の灰色の土を擡げて、茶色の頭を揃へてしら/\"しくも黙つて居る。隠れん坊をして此処なら大丈夫と隠れて居る子供が、捜し出されたやうな顔をして居る。一処(ひとつところ)にあると其の近所に方々にあって、嬉しい愉快さうな声が口々から洩れた。 (※山番の小屋で) 妙見山での松茸狩りを終えたのち、龍王山まで戻り、その山頂付近で、皆でお弁当を広げました。利玄が、龍王山の懐かしの松を思い出したのもこの時です。 足守の町へ入るのは何だかその懐に入るやうな気持がする。此の頂の松は此の平和な谷の番人であるやうな気がする。自分が生れてから五歳で此の故郷の町を後にした時迄、此の龍王山の松は始終自分を見下して居て呉れた。さうしてその後十八歳の時迄故郷に帰らなかつた長い間にも、うすれて行く故郷の思ひ出の中に、此の松は残つて居た。それから四度の帰国にも毎(いつ)も自分はなつかしく見上げて居たのである。 其の松の根に腰をかけて、妻と弟と妹と他の人たちと下男の肩から下した弁当を開いた。胡麻塩の握飯、椎茸、高野豆腐、海老、竹輪、菎蒻(こんにゃく)の煮しめが皆の前へ配られた。何れもうまい。土瓶の茶は枯枝を焚いて暖められた。瓢箪の酒が盃につがれた。遊山と云ふ気分を殆んど始めて充分に味ふ事が出来たのを悦んだ。(中略) 昔ながらの、素朴で滋味深いお弁当をお腹一杯食べた後は、少し下りたところで一休みです。さっきの松茸のように、人間たちも柔らかな草に埋もれながら……。 此の辺雑木や草の紅葉に交つて、赤い小さい実のなつて居る木が生えて居る。妻や妹はその枝を折つた。下男は松の小枝を截つて、その青い葉で香を放つ蕈を上から蔽つた。さうして此処で皆草の中に埋つて休んだ。午後の日は斜に森の中にさし込んで、自分たちの上にそゝいだ。頭から顔から背から、暖かいものが身體(からだ)の中へ染み込んで行くのが感ぜられた。 叢(くさむら)に蟲(むし)が鳴いて居る。遠くで鵯(ひよどり)のやうな鋭い声の鳥が鳴いて居る。更に遠くで小児の遊ぶ声が途断れて聞える。もう自分たちは大分下つて来た、里が近いなと思ふ。かく思ひつゝ自分たちはいつ迄も草の中に坐して、静かさと日光とを思ふ儘に貪(むさぼ)つた。「寿命が延びて行くのがわかるやうだ」と自分は云つて猶其処に居た。 それはまるで、森の樹々や草と、いのちがひとつに溶け合うようなひとときでした。深い静けさと安らぎのなかでは、人は、ふと、“永遠”に触れたような心地になる時があります。利玄にとっては、まさにこの時が、そうした瞬間だったのかも知れません。 |
翌・明治45(大正元・1912)年は、利玄にとって、輝ける転機の年となるかに見えました。 まず、照子の妊娠がわかりました。子供の誕生は、9月末頃の予定となるはずでした。 夕方に子供の遊ぶ頃となり町にも下る蒼きうす靄(もや) を特に批評会で取り上げて、高く評価してくれたそうです。かねてから新井洸に〈推服〉していた利玄にとっては、その言葉は、ことに嬉しいものでした。(木下利玄「道」) また、『白樺』への寄稿にも熱を込め、5月号に「夕方に」(17首)、6月号に「花壇と室内」(12首)、7月号には「草」(26首)など、矢継ぎ早に新作を発表していました。少年時の細やかな心の揺れを描いた「すかされて泣く目をやりし夕空に…」等々の歌を詠んだのもこの頃です。 さらに、この『白樺』誌上においても、利玄を喜ばせる出来事がもう一つ起きました。同人で友人の有島生馬(ありしま・いくま 有島武郎・里見 弓享の兄弟)が、〈六号雑記〉欄で、利玄の短歌を皆に推奨してくれたのです。「有島生馬君が白樺六号で自分の作を推奨してくれたので、私は愈〃(いよいよ)作歌に心を寄せるようになりました」(「道」)と、利玄は述懐しています。 この〈有島評〉とはどのような内容だったのか。この内容を紹介している資料は見あたらず、どうも、これまでは特定されていなかったように思われます。そこで、この年前半の『白樺』をあたってみますと、1本、それらしい記事にぶつかりました。6月号の〈六号〉欄です。ただし、署名は〈有島生馬〉ではなく〈梅の子〉となっています。 ○手前味噌の嫌はあるが僕は木下の歌の愛読者の一人だ、もっと詳しく云へば、ファインな感触と技巧の微妙を仏蘭西の詩にでもある同じ様な意味で尊敬して読む。理屈と無理のない処が大変にいゝ昌子さん(※与謝野晶子の誤植か)の歌も上手だが近頃は少々理屈ぽくなって搾り出す様な処が見える。(吉井)勇さんや(北原)白秋さんの歌よりも旧いと人は云ふかもしれないが確かにファインな処と無邪気を装はないで無邪気な処、此の二つの相反したものがよく調和されて居る。木下の歌は毎号出して貰ひたいものだ。(梅の子) 匿名はコミカルですが、有島生馬(当時は壬生馬・みぶま)は、白樺同人の中では唯一の〈仏蘭西〉帰り。話題の中に、自然にさらりと〈仏蘭西〉が出て来るとなれば、生馬の文章と特定してほぼ間違いないでしょう。なお、彼は、絵画史の中では、堂々、当時新進の〈新帰朝者の画家〉の1人に数えられています。 それにしても、歌人でもない生馬の評が、なぜ、利玄をそれほど感激させたのでしょうか? その生馬が、木下の歌の〈愛読者〉だという。しかも、単に、日本の古い定型詩として善し悪しをいっているのではなく、「仏蘭西の詩にでもある同じ様な意味で尊敬して読」んでいるというのです。つまりは、〈詩〉として個性がはっきりしていて自分は好きだ、と表明してくれたのですから、新しい詩情を切り拓こうとしていた利玄にとって、それは最大限の賛辞です。 しかし、それから2ヶ月たつかたたぬかの内に、利玄を、大きな悲しみが襲いました。折角さずかった子供が、生まれてからわずか数日で、この世を去ってしまったのです。 |
お産は9月末頃のはずでしたが、8月初頭の思いがけない寒さで体調を崩した照子は、予定日より2ヶ月程も早い8月6日に出産してしまいました。 ともかく、幼子の生命が危ういのは、一目見ただけでも明らかでした。産婆の忠告で、小児科の医師がすぐに呼ばれました。といっても、医師がどう診断したところで、現代のように未熟児用の保育器があるわけでもなく、点滴する器具さえありません。さしあたって経過を見守るしか、なすすべがないのです。 生れる迄生れて来可(くべ)き子を可愛がる情は薄かつた。併(しか)し生れて寝てるのを見たら、見る度毎に可愛くなつてきた。 六日の日には未だ母の乳が出なかつたので山羊の乳に水をわつて、ガーゼで乳首を拵(こしら)へて、それに浸して飲ませた。利公は口をチユッ/\云はせて(乳を)飲んだ。乳が無くなつても未だ口を動かして居た。看護婦はわかる人に云ふやうに あくる日から母の乳が出始めた。少し位悪くても、獣類の乳の不完全さに比べれば、遥かにいゝと云ふ医者の注意で、乳母を探す事になつて居たので、此の報をきいて自分は非常に嬉しかつた。子供が生れてから、自分は非常に感動し易くなつて居た。人々が親切に種々の事をして呉れるのが、涙が出るやうに感ぜられた。 自分の子なのだ、自分は父なのだ、という感情の目覚めが、彼にひたすら赤児を見つめさせました。かすかな呼吸、まばたきのようなわずかな仕草さえ、彼の心にはしっかりと焼きつけられました。 看護婦は、閉め切つた暑い室の中に、羽蒲団や綿入にくるまれて居る利公を──子供は胎内と同じ温度を保つ為に、こんなに厚く包んだ上に、足の処へ湯タンポを一つ、両脇に湯を入れた薬罎(くすりびん)を二つ入れてあつた。──抱いて、母の所へつれて行つて乳を呑ませた。自分も一緒に行つて、母の乳房から乳を吸つて居るのを見ると、自分の子供と云ふ感じが、しみじみ湧いて、頬ずりしたいやうな、かばひたいやうな、一種特別の可愛らしさを感じた。 束の間の小康。しかし、現実はやはり残酷でした。その翌日から子供は乳を呑まなくなりました。やがて利玄は、女中の1人から、「若様の御様子が変でございますよ」と告げられました。「自分はこわ/\"見ないやうにして置いたものを、とう/\見せつけられた、何うしてそんなになるのだと憎らしくさへ思つた」(同上)。 自分はこの最愛の幼いものが、危くなつて居るのを、見す/\死の手に渡すのがたまらなかつた。それでもその晩はどうにか持ちこたへた。死ぬと極つた赤児が、パチ/\見ひらいて、自分を見上げる眼と自分の眼と逢ふ時は、可哀想でたまらなかつた。しかし未だ未だこらへる事が出来た。 翌日、最期に利公(としきみ)が痙攣を起こし危篤になった時には、その場にいたたまれず、しかし妻の部屋にも行けず、一人で思い切り涙を流していたという利玄。しかし、そのときまでは、この世から消えつつある小さな命からの無言のまなざしを正面から受けとめ、自分からもずっとまなざしを返していたのです。自分の無力さと現実の過酷さに堪え続けながら。それは、きわめて強靱な、〈父〉としての強さのように思えるのです。 木下利公は、8月10日の夕方、たった4日間の人生を終えました。 『白樺』9月号の六号雑記には、その直後の、利玄の淋しげな姿が書きとめられています。 ○木下の処では男の子が産れて一同お目出度うなどと云つて居たが三日目か四日目に亡くなった。友達が逢ふとすぐ「木の君の子供がなくなつたつてね」と誰でも噂した。お葬式のある日の朝小生がお寺を聞くつもりで電話をかけたら木下自身が電話口へ出た。その時は葬式の出たあとで「子供の葬式に昔から親は送らないものださうだから、それに母親が淋しがるからね」と云つて木下は家に残つて居た。(ゴロツキ)(※注2) 「利公のために」は、その翌年(大正2年・1913)に、利玄がその時の事をまとめた随想・短歌群です(『白樺』8月号に掲載)。 あすなろの高き梢を風渡る われは涙の目をしばたゝく しかし中には、短歌の方にのみ見られる胸中もあります。 顔のうぶ毛腕のうぶ毛の可愛さよ いく日の後も眼に残る可(べ)く おとなしき死顔を見れば 可愛さに 口きかずとも傍(そば)に置きたや 散文は、長くつづることで、一見あらゆることを書き表せるかのようにも見えます。しかし、はじめて自分の中に〈父〉を感じ、苦しいほどに子を愛(いと)しいと思ったあの時間──そうした特別な時間を結晶させるには、〈歌〉のちからしかないと、利玄は思いさだめたのかも知れません。 |
利公が亡くなった年の9月、利玄は、目白中学校に国文教師として就任し、はじめて給与取りの生活をする事になりました。この目白中学は、細川護立(ほそかわ・もりたつ)の兄・護成が校長をしており、その縁で教員として迎えられる事になったようです。 そして、利玄も、ただ悲しみにくれていたわけではありません。創作は、一時は中休み状態だったものの、まもなく作歌活動に復帰し、翌大正3年の5月には処女歌集『銀』の出版も果たしました。これは、表紙は竹の皮、見返しと函(はこ)は書名にちなんで銀箔張りの、美しい書物でした。有島生馬と、同じく旧友の三浦直介とが、装幀デザインに力を注いでくれたおかげです。歌集には「利公のために」も収録され、〈亡きわが子利公に〉という献辞も刻まれました。利玄にとって、そしてほんの一時しか生きられなかった利公にとっても、この本は、まさに記念碑な1冊となったのです。 また一方、それより2月ほど遡る3月3日、ひなまつりの日に、利玄の家では、また新たな喜びが訪れていました。次男・二郎が誕生したのです。 ただ、この時の誕生も、心から皆で喜び合えたのは、ほんのわずかな間のことだったと思われます。 あまりに汝が泣きさけび寝ねぬ夜を いかりし事し今はさびしも それでも、大正4年、やっと1歳を過ぎ、これなら何とか長らえていけそうかと思われた矢先の事。冬の寒さが訪れた12月の初頭に、この二郎もまた、1歳9カ月の短い命を終えてしまったのです。 二郎に(抄) この家に吾子(あこ)死にてありいそぎ来て門入り行かむ力なきかも 痛々しく儚(はかな)かった命を見送って、利玄も辛い思いをしましたが、さらに大きな衝撃を受けていたのは照子でした。子供を2人までも、次々と失ってしまったのですから、無理もありません。 ふたたゝび子どもうしなひしわが妻のはたらける見れば人はさびしき このままでは、照子の方が、肉体的にも精神的にも参ってしまう。そう思った利玄は、思い切って教師の職も東京の生活もなげうち、妻を連れて、心身ともに快復するまで、旅に出る決心をしました。 大正五年の六月から、奈良京都を経て、但馬の城崎(きのさき)温泉に行つて、ここに三ヶ月滞在し、それから、山陰道をだんだんに西に下つて、方々の温泉や社寺などを巡りながら、出雲の国で旧友を訪ね、十一月からは石見の国へ入つて、鉄道のない地方を妻と二人で歩きながら旅をつづけました。此頃は二人共丈夫で、妻も雨中六里(※約24km)位の道を歩いたりして、其地方の人を驚かしたものです。 華族という事は臥せ、仮名を使っての気軽な旅。そのため、旅先でかえって変に怪しまれ、地元警察から東京宅へ問い合わせされるなどの不快な出来事(※注3)もあったようですが、それはそれ。そんな事にめげず、2人は旅を続けました。「此旅行中は雑事の頭を煩はすものなく、専ら歌に心を沈潜させたためか、作歌修行の上には、大なる効果があつたと信じてゐます」(同上)。第2歌集『紅玉』に収録された名歌の多くが、この道中で詠まれました。 そして、別府に滞在していた大正6年6月、照子は3人目の子・夏子を出産。 はゝそばの母に抱かれてふとり身を日毎温泉(いでゆ)にひたせし子はも 体にいいという温泉の湯で毎日湯浴(ゆあ)みさせ、ずっしりと重くなってゆく手応えを感じながら、今度は、今度こそは大丈夫、と安心しようとしていた利玄と照子でしたが──。 夏子に(抄) 三日朝は大に快かりしに、四日午後吾も妻も家に帰りゐし時、俄によろしからずときき、吾は直に、入浴中なりし妻もすぐ後より病院に走る。 3度までも我が子の死を見とると、もはや胸つぶれる思いも極まったのでしょう。後にのこったのは、不思議にしんと静もった感情のみです。 わが妻も今は泣きやめしみ/\"と銀杏が黄なりと云ひにけるかも |
子供の頃の利玄は、おとなしい、むしろ臆病といってもいいくらいの少年でした。悲しみにも、痛みにも、強い方ではありませんでした。その利玄が、我が子の死を3度も、それも、いずれも苦しみ抜いた挙げ句に死んで行くのを目の当たりにしたのです。彼の胸中は測り知れません。 しかし、利玄は、決して無気力になったり、自暴自棄になる事はありませんでした。彼は作歌をやめませんでした。むしろ〈歌人〉としての彼は、貪欲なほどに、我が子を亡くした悲しみをも、日々の作歌の営みの中に取り込んでゆきました。その事でのみ、彼は生き続けていました。 例えば、夏子を亡くした翌年の日記です。(※記事は、該当日の、関連部分のみを抄出) 〔大正七年〕 夏子の〈歌〉を詠い出すまでの間に約半年、さらに表現に着手してから完成までに2ヶ月以上の日々を要しています。その期間、利玄は、当日の感情を、そして目の前で起こった出来事を、幾度も幾度も追体験していたのでしょう。おそらく、その悲痛な経験を〈歌〉に形づくってゆく事を通して、彼は、亡くなった愛児たちと共に生きていたのです。 先に、利玄は散文を書かなくなったと述べましたが、実は、わが子を失ったこの6年間に、利玄は一度だけ、悼む想いを、短歌とは別の形で表現しようと試みた事があるようです。 〈潜戸〉とは、加賀港湾の突端に開いている、新・旧2つの海蝕洞窟の名です。このうち旧潜戸の方には、夜になると幼くして死んだ子供たちの霊があらわれて、小石で小さな塔を積むという言い伝えがありました。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、その伝承を、“Glimpses of Unfamiliar Japan”(邦題『知られぬ日本の面影』1894年)の中で紹介しています。若い頃から八雲の作品に心魅かれていた利玄は、2人の息子たちの面影を求めて、敢えてこの時、潜戸を訪ねたのです。(※注4) 実際にはこの時、子供たちの霊はあらわれず、利玄はただその面影を偲んで、小さな石の塔を2つ積んできただけでした。志賀直哉宛の書簡にも、ただ事実だけが淡々と記されていますし、後にこの時の事を詠んだ歌にも、超現実的な事は何も書かれていません。(※注5) 夜半頃やうやう何か音が近づく。なるたけしづかに心の中だけで二人の亡児をおもひ二人待つてゐると近づいたものがあり二人の膝にふうわりとのつた。重さが丁度二郎位の重さだ。やはらかいぷく/\の顔の頬ぺたに頬をつけた。「この頃はあのくるしい病気もなほり楽しくくらしてゐますか」ときくと首をたてにふつた。何かして貰(もら)ひ度(た)い事がありますかときいたらいや/\をした。初利公は父に 二郎は母 後かはる。(※注6)「今度は丈夫なお怜悧(りこう)な子になつて生れて、又二人であひませうね」と云つたらいくつ/\も首をたてにふつた。それから今度はかるいのが来た。利公ちやんかと云つたらさうだと云つて前のやうな事をくりかへした。 そして長くだつこしたら入口をすかしてみると(一字不明)しらむ頃きつとたつてぴちや/\/\足音が遠ざかつた。あけてみたら砂に小さな可愛い足跡があり石がつんであつた。他の子がつんだのだらう。 伝承は伝承であり、現実には、どんなに懐かしくても、霊魂があらわれてくれる事などない。それは、利玄にもよくわかっていたはずです。しかし、心の中のもう一つの世界である、文章の世界の中では、利玄は確かに、その時愛児に遭っていました。 |
夏子が亡くなったのち、利玄は大正7年秋に東京に戻り、翌年正月に鎌倉に移りました。以前の友だちとも交友が復活。特に、園池公致と長与善郎とは、住まいが近かったせいもあって、家族ぐるみでしょっちゅう行き来しては、楽しく時を過ごしたという事です。 木下は三人の子供を、つづけて、生まれるとまもなく失った。木下はこの悲しみの精神的鍛錬を受けなければならなかった。歌人としての木下にとってこの鍛錬はきびしすぎたが、彼はそれによく耐えて、ますます和歌に全力をそそいだ。僕は木下に、自分の兄や姉が五人つづけてなくなった話を、勇気づけるつもりで話したことがあった。 だがその勇気づけは、あることを忘れていた。それは子供が育つようになったら、父が死んだことである。 (続く) |