木精(こだま)の歌 ─木下利玄の世界─
(その2)
written and illustrated by 銀の星(2004/12/14 Up)
【その2・目次】
(1)幼ごころの歌
(2)小さなきょうだいへ
(3)植物への〈愛〉
(4)同じ生命体としてのエロス
※この文章における木下利玄のテキストの引用は、『定本 木下利玄全集』歌集篇・散文篇(臨川書店 1977年)に依っています。但し、旧漢字は、適宜常用漢字にかえて表記しています。
木下利玄には、回想記はほとんどありません。ある程度まとまった文章としては、わずかに、前回引用した「道」という短い随筆があるのみです。表現者・利玄にとって大切なのは、あくまで、わずか31文字で切り取られる、かけがえのない一瞬一瞬の情景であったようです。彼は、本来的に、自己劇化の傾向は希薄な人だったと思われます。 泣き止みて 頭のいたきたよりなさ 幼心地のふとよみがへる あまり泣いて泣き通したので、泣きやんでも変に頭の芯が痛いような気がする、あの“泣き疲れ”の感覚。これは、多くの人が、小さい時に経験していることでしょう。その意味で、これは感覚的に共感しやすい歌なのですが、重要なのは、この歌を詠んでいる時点の利玄はすでに青年であり(※注1)、しかもこうした幼心地が、その時、彼の中にふと“よみがえ”っているという点です。 すかされて 泣く目をやりし夕空に 遠くやさしき月照り居たり こちらも、幼子の視点から詠まれた歌です。〈すかされて〉とありますから、この思い出の場面には、どうやらそばに慰めてくれる人がいたらしい。 この歌を読む時、いつも思い出す絵があります。〈幼な心の詩人〉と呼ばれた昭和期の画家・谷内六郎の、「泣きながら帰った道」(1949年)という小品です。涙ににじんだ街灯の光が、子供の目に映じたそのままに、ゆらゆらと揺れてゆがんだように描き込まれた作品です。 学校に初めてわれの入りし時 廊下にかなしく自家(うち)をおもひき 少年の記憶かなしも 遊びすぎて 闇のせまりし ぬりごめのかげ ほかにも、いわゆる普遍的な幼児体験とは違いますが、少年期の彼の置かれた境遇の一側面を如実に伝える作品もあります。 眼さむれば隣の室(へや)のはなし声 そはわが上にかかはるらしも 寝床でふと眼をさますと、隣からぼそぼそと大人たちの声が聞こえてくる。切れ切れに耳に入る言葉から、ああ、あれは自分の身の上にかかわる事だと思う。また自分の事をどうかしようというのだろう。しかし、知ってみたところで、子供の自分にはどうするすべもない。また黙って眼をつぶる真っ暗な夜更け…。 利玄の歌集の中に、時おりフラッシュバックのようにあらわれるこうした歌は、ある意味では回想記よりもはるかに雄弁に、彼の横顔(プロフィール)を伝えているのです。 |
利玄は、故郷との関わりが薄い人でした。 物心がついてから、足守に帰省したのは4回ほど。しかも父親が元気な間に帰れたのは、たった2回きりでした(3回目は、父の死を看取りにいったのです)。また、いずれの帰省も、短期間のあわただしいものばかり。ですから、実際の故郷の思い出といえば、本当にわずかなものしかなかったでしょう。 足守は、自家の祖先の或人が嵐山に擬したと云ふ、松や椎などの茂つた宮路山が北に温雅な山容を以て立つてをり、頂上に赤松の茂り立つ龍王山が高く東に聳え、西と南はひらけて、足守川の清流がこの間を緩いカーブを描きつつ、遥かに海に向つてゐて、わりに景色のいい処です。殊に龍王山の松の木の間に夕陽を受ける趣などは、実に平和な人の心を抱き鎮めるやうな、魅力があります。 そして、肉親と交わる機会が極端に少なかっただけに、ごくまれな出会いのひとときは、彼の心に、かけがえのない思い出として刻み込まれました。 いもうとの 小さき歩みいそがせて 千代紙かひに行く月夜かな (『銀』) おそらくこの歌と同じ機会に撮ったのだろうと思われる写真を、今、『日本詩人全集』(新潮社)の付録に見ることができます(※注2)。利玄が妹と一緒に写っている写真です。時は明治40年(1907年)、利玄は満21歳。寿子の歳は、利玄の年表に生年が出ていないので定かではありませんが、見たところ、6つ7つくらいでしょうか。ずいぶん歳の離れた兄妹です。利玄は、少しはにかんでいるらしい下げ髪の少女の小さな左手を、兄さんらしく、両の手で軽く包むように握っています。利玄も、少し照れているように見えますが、その顔は、優しく微笑んでいます。 ただ、利玄自身の母親は、彼が6歳の年に亡くなっています。とすると、この妹は、利玄にとっては異母妹だったはずです。また、弟としては利昌(としまさ)がいますが、こちらも別の写真(※注3)で見ると利玄と10歳は違うように見えますから、やはり異母弟でしょう。ちなみに、わずか7〜8歳で夭折したという利玄の兄・利定(としさだ)も、彼にとっては異母兄でした。利玄の実母の瀬原やすという女性は、父・利永の側室であったとのこと。利定は、おそらく正室の息子だったのでしょう。 このように、木下利玄とその身内のつながりは、知れば知るほど、細々としたものになってゆきます。むしろ、その関係のほとんどが“仮構された”ものだったと言っても過言ではないかも知れません。 「いもうとの 小さき歩みいそがせて 千代紙かひに行く月夜かな」。この歌では、〈小さき歩み〉というところに、“幼い女の子の歩みというのは、こんなにもちょこちょこと、小さかったんだ”という、彼の驚きが込められているように思われます。〈驚き〉というのが大袈裟ならば、彼の体感的な〈気づき〉と言ってもよいかも知れません。明るい月の夜、妹に夜道を急がせながらも、その歩幅に合わせて寄り添い歩む利玄の身体が彷彿として来る歌です。 なお、この歌のとなりには、おなじく妹を詠んだと思われる、 おくれては 母のあと追ふをさな児の おさげの髪に春の風ふく という歌も掲げられています。おそらく、母──利玄にとっての義母──のあとを一生懸命ついて歩く寿子の姿を描いた歌なのでしょう。彼はどのような面持ちで、幼い妹の後ろ姿を見守っていたのでしょうか。 |
利玄が、自然と向き合って幼いながらも詩想を練りはじめたのは、松浦伯爵邸に寄宿するようになった11歳頃のこと(※前回参照)。しかし、草花に対する愛情は、彼自身すら「私は性来草木花卉(そうもくかき)に愛着を持つてゐるといふ程好き」(「花」)(※注4)としか言えないほど、幼い頃からのものだったようです。 足守の町へ入るのは何だかその懐に入るやうな気持がする。此の(※龍王山の)頂の松は此の平和な谷の番人であるやうな気持がする。自分が生れてから五歳で此の故郷の町を後にした時迄、此の龍王山の松は始終自分を見下(みおろ)して居て呉れた。さうしてその後十八歳の時迄故郷に帰らなかつた長い間にも、うすれて行く故郷の思ひ出の中に、此の松は残つて居た。それから四度の帰国にも毎(いつ)も自分はなつかしく見上げて居たのである。 その感受性は、孤独で夢見がちだった生い立ちの中で、さらに細やかに育まれてゆきました。「からみあふ 花びらほどくたまゆらに ほのかに揺るゝ月見草かな」「地の上にてわが手ふれゐるこの欅は 高みの梢へ芽ぶきつゝあり」(既出)…。これらを見ても、彼が、草木それ自体の“生命の流れ”に意識をこらすようにして歌を詠んでいる有様がうかがえます。彼にとっての草木は、単なる景色の一部でもなければ、季節感を表すだけの指標でもありません。 例えば、利玄が好んで歌に詠んだ代表的な花の一つに、〈牡丹〉があります。 牡丹園のすだれをもれて 一ところ 入日があたり 牡丹黙せり 牡丹園のすだれから洩れた陽が、スポットのように園内の牡丹にあたり、しかも〈牡丹黙せり〉──まるで、その牡丹花がじっとおし黙っているようだという…。これだけでも、その牡丹の特異な存在感の印象がよくあらわされていますが、その次の歌になると、表現はさらに斬新です。 わが瞳華美にびゝしくとらへつゝ おし黙りゐる胴慾な牡丹 歌の詠み手である利玄の眼を〈とらへ〉て離さないのも〈牡丹〉ならば、そこでぐっと〈おし黙りゐる〉のも〈牡丹〉であるという。〈華美にびゝしく(美々しく)〉や〈胴欲〉ということばの響き合いからは、あたかもそこに、妖艶な女性が一人居て、利玄のまなざしをじっと見返しているような趣きがでています。ここで牡丹は、人に見られる花ではなく、人を魅入らせる悪女的な魅力(チャーム)に満ちた存在のように捉えられているのです。 あるいは人は、こう思うかも知れません。もしかするとこれは、牡丹にことよせて、誰か女性の事を詠んでいるのではないか、と。そして、そうした可能性を、全く否定することはできません。 しかし、単に“擬人法”といってしまうにしては、利玄の歌には、草花を生きているもののように詠じた歌があまりにも多いのです。利玄にとって、花は、ただ植物として咲いているのではありません。それぞれに性格も、性質も、感覚も感情もあり、盛りを謳歌するものもいれば、いままさに老い衰えてゆくものもいるという風に捉えられているのです。 愛らしき金のさかづきさし上げて 日のひかりくむ花菱草よ しほらしき野薔薇の花を雨は打つ たゝかれて散るほの白き花 花菱草や野ばらのように小さく清楚な花は、幼い少女か妖精のように、太陽の光を浴びて喜びもすれば、自然の力にはかなく翻弄されもします。また、牡丹のように圧倒的な生命感を誇る大輪の花も、時期を過ぎると 花びらをひろげ疲れしおとろへに 牡丹重たく萼をはなるゝ のように、ある余韻をのこしてそのいのちを終えます。先の牡丹の歌とあわせてみると、その表現はまさに、“或る牡丹の一生”という趣きがあります。 西洋の絵紙にて幼馴染みなる 空いろばなのみちばたに咲く 太陽は あたゝかにあたゝかに 母らしき愛を送れり 空色の花に 〈西洋の絵紙(絵本?)にて幼なじみ〉の〈空いろばな〉とはどんな花でしょうか。残念な事に利玄は、花の名を記してはいません。ただ、太陽から〈母らしき愛〉の陽ざしをおくられているという花は、きっとわすれな草のように可憐で、小さなはなびらを広げ、春のいのちを精一杯咲いている花なのだろうという気がします。 どんな小さな花も、生命を自然と呼応させています。利玄は、その、目にみえない気配のゆらぎを捉え、ことばに紡いでゆきます。 路傍から高まつてゐる山肌に生えた灌木(かんぼく)は、一陽来復、枯木のやうになつてゐた冬から目覚めて、其枝の尖々に、緑の玉の嫩芽(わかめ)をふくらませてゐる。山の空気も、彼等の、稚(おさな)い柔(やわらか)い肌にも馴染み得る陽気になつた。 彼は、木の皮・木の芽の感じるであろう陽ざしのぬくみを、確かに、あたかも自分で体感しているように感じているらしく思えます。表現のレベルで、主体であるべき利玄と、対象である草木とは、微妙に重なり合い、渾然一体となっています。 雨後(あめあと)の黒土(くろつち)にあるひゞわれは 生(お)ひ出くる種子(たね)の擡(もた)げゐるならむ 小さな植物が、大なる世界(ユニバース)と呼応する。また、それを、植物の立場に感応して表現する。それは、短歌の伝統の系譜の上だけで考えれば、きわめて異端的な方法でしょう。そのような事が、どうして利玄には可能だったのか。ある意味でそれは、“生まれつき”というより説明の仕様がないことかも知れません。 しかし、いったん世界的な表現の潮流に目を向けると、19世紀後半から20世紀初頭、利玄の生まれる少し前から成長期にかけては、西欧の芸術分野でも、〈自然の美〉が非常に象徴的に扱われていた事に気づかされます。 芸術界においては、その抵抗は、次のような対立姿勢として現れてきました。〈工場〉に対する〈工房〉。〈大量生産〉に対する〈精巧な職人芸〉。現代的な括りでいえば、万事効率的な〈ファスト〉な社会から、〈スロー〉な生活への回帰指向と言ってよいかも知れません。 言説界でいえば、エマーソンやトルストイ。美術でいえば、ユーゲントシュティールから後期印象派、ロダンの時期までぐらいが、もとは同じ根から分岐した表現思想の時代だったといえましょう。そして、白樺派に名をつらねている青年たちの多くは、明らかにこの時期の西洋思想の影響を強く受け、彼ら自身もそれを自覚しています。 そう考えると、ほとんど思想的な事は口にしなかった木下利玄の表現についても、“時代の子”としての方面から、改めて見直してみる必要がでてくるのではないでしょうか。 |
(4)同じ生命体としてのエロス 愛に酔ふ雌蘂雄蘂を取りかこむ うばらの花をつつむ昼の日 (※注7) ここで〈愛に酔う〉と詠われているのは、〈花〉の方ではありません。雌蘂(めしべ)と雄蘂(おしべ)とが、今まさに昼の陽ざしを受けて、愛の歓楽に酔っているというのです。 この花は受胎のすみしところなり 雌蘂(しずゐ)の根もとのふくらみを見よ 利玄の短歌表現の革新性は、これまでも様々に指摘されているようですが、同時代人にとっては、特にこうした表現など、まったく異風に、奇矯にすら見えたことでしょう。語の選択の仕方など、まるで博物学風です。彼にこのような歌を発想させた遠因の一つ、それは、学習院の教育にあったと思われます。 一般論的にみても、白樺派の世代は、親世代と〈知識〉の基盤がもっともかけ離れた人々だったと言えます。特に生命科学については、明治以降に流入した西洋知識を学んだ人とそうでない人の間には、認識に、埋めようもないへだたりがあったに違いありません。まだ、子供は天からの授かりもの、病いは民間療法か願掛けで直すもの、と信じている人と、ひととおりは科学の基礎を聞き知っている人とが、一つ屋根の下で同居している。そして、後者は、まだかなり少数派だったと考えられます。 しかし、学習院生の場合、新教育の影響は、さらに強烈だったと考えられます。なぜなら、学習院での教育は、良い意味でも悪い意味でも、非常に専門的だったからです。 彼らの在籍期間に最も関わる「学習院学則(明治23年発布)〉第二条〈教育の編制〉」には、次のように書かれています。 次に中等学科に於ては、国漢文課・欧文課・歴史地理課・数学課・理学課・芸術課・武課の七課に分ち、(中略)理学課にては動物学・植物学・生理学・物理学・化学・地文学・金石学・地質学を(中略)授け… ここで〈課〉というのは、学科専攻のようなものではなく、むしろ授業の科目分けに近いようです。こう見ると、特に、満12歳から満18歳までの〈中等学科〉の間に、受講する理科の分野の範囲はずいぶん広かった事がわかります。現在なら、動物学・植物学・生理学をまとめて〈生物〉、地文学・金石学・地質学をまとめて〈地学〉とする所ですが、この当時にはすべて一科目ずつ独立して立っていたようなのです。 学習院で教えている教師は、その多くが、帝国大学などで教鞭を執っている教授や講師でした。その上、おそらく講師陣にとって都合がよかったのは、近衛篤麿院長時代(明治28〜37年)の前後はまだ割合校風がのんびりしていて、それぞれの授業の内容にまでは細かく注文がつけられていなかった事です。加えて、学習院は宮内省管轄だったので、文部省の方針に左右される事もありませんでした。現代の〈授業要領〉のようなものは、現存資料を見る限り、まったく存在しなかったようです。 私自身は、残念ながら、いまだ、白樺派の在学時代に使用された教科書類を閲覧する機会に恵まれていません。 動物も、植物も、人間も、基本的にはみな〈卵子〉と〈精子〉が結ばれて発生する。姿はそれぞれ違っても、生命体としてのメカニズムは共通している。そうした知識は、利玄のような植物好きな少年にとっては、ことに新鮮だったのでしょう。そして思春期を迎えた彼は、自分の身体に起こりつつある変化を、むしろ、植物のそれになぞらえる事によって、対象化し受けとめ得ていたようにも思われるのです。 我が顔を 雨後の地面に近づけて ほしいまゝにはこべを愛す 生きものゝ 身うちの力そゝのかし 青葉の五月の太陽が照る 今、自分の内奥をつき動かしているのは、どの生命体にも共通する〈生=性(Eros)〉の力だ。草いきれをあげて伸びる草木も、自分も、同じ〈生きもの〉なのだ──そう心から感ずる事のできる共感の能力(ちから)。それこそ、デリケートな子供だった彼が、思春期を経ながら培(つちか)っていった、力強い認識でした。 (続く) |