木精(こだま)の歌 ─木下利玄の世界─
(その3-1)

written and illustrated by 銀の星 (2005/03/22 Up)

その1 その2 その3-1 その3-2 その4


【その3・目次】

(1)早熟の文章家
(2)旅は道づれ・旅日記
(3)広がる表現の幅

(その3-2へ→) (4)志賀は悪友? (5)迷いやすさと、気づかいと (6)ゆずらぬ見識 (7)〈木下の結婚を成功させよう!〉

※この文章における木下利玄のテキストの引用は、『定本 木下利玄全集』歌集篇・散文篇(臨川書店 1977年)及び『学習院輔仁会雑誌』に依っています。但し、旧漢字は、適宜常用漢字にかえて表記しています。

Index

(1)早熟の文章家

 さて、木下利玄が結婚するまでの若い頃のことと言えば、その友人たちを語らないわけにはいきません。とりわけ、回覧雑誌『望野』そして『白樺』の同人、武者小路・志賀・正親町公和との交友関係は、あまりにも有名です。
 しかし、木下利玄の文筆活動は、『望野』時代から始まったわけではありません。実は、それ以前にも、文才に優れていた利玄は、様々な表現活動を繰り広げていました。今回はまず、学習院中等科頃の彼についてお話ししましょう。
(ちなみに右の絵→は、左より、志賀・武者小路・正親町、のつもり…です。)

 明治33〜34年といえば、利玄はまだ中等科の3年生頃。年齢は14、5歳です。現在でいえば、ようやく中学校の3年生になるかならぬかの歳ですが、その頃からすでに、彼は、学習院の『輔仁会雑誌』に、常連のように文章を発表していました。ちなみに、彼が中等科を卒業するまでに発表した文章のタイトルは、以下のようなものです。

  『輔仁会雑誌』
  第52号(明治33年6月) 「落花に対して感を述ぶ」
  第54号(明治34年4月) 「雪の日に北京城中の兵を思ふ」
  第55号(明治34年6月) 「穴居の跡」
  第57号(明治35年6月) 「大島の歌」
  第59号(明治35年12月) 「木曽の山越」(前田利為・細川護立と共同執筆 ※後に詳述)

 タイトルや文章が文語なのでちょっと驚かれるかも知れませんが、これは、当時の文章教育がまだ古い文法を踏襲していたためで、利玄だけが大人びていたわけではありません。特に最初の2作品(「落花…」「雪の日…」)などは、当時の課題作文としては、むしろ典型的(ティピカル)な部類だったと言えるかもしれません。

 とはいえ、『輔仁会雑誌』は学習院“全体”の校友会雑誌。ですから実際の寄稿者は、高等科の学生がほとんどでした。実際、この時期はまだ、世代的には、武者小路実篤の兄の公共などが文章を寄せていた頃です。 それに、現代と違って、各学年やクラスから同じ数だけ平等に載せてあげる等といった、教育的な配慮がなされていたわけでもありません。
 そんな中で、利玄はこの頃から、ほぼコンスタントに『輔仁会雑誌』に文章が採用されていたのです。難しい言葉も危(あぶ)なげなく使いこなし、文章の流れもスムーズで、上級生の作品にひけはとっていませんでした。とても、現代の中・高校生レベルの読書感想文などの及ぶところではありません。

 その同じ時期といえば、志賀直哉は、まだまだ遊びたい盛り。ようやく徐々に、足尾鉱毒事件などの社会問題などにも関心を寄せるようになっていた、というぐらいの頃です。ですから、普段の生活は、落第するのもなんのその。学校で思い切りスポーツをして、帰って、たくさん食べて、寝る…というシンプルライフでした。はたから見れば、要するに、元気で運動好きな少年に過ぎなかったのです。
 また、その頃の武者小路実篤は、作文が苦手で、“でも自分は政治家になるんだから、文章なんかは誰かに書かせればいいし、語学も翻訳させればいい”と、半ば本気で思っているような少年でした。

 そんな時期に、木下利玄は、古典語も使いこなして端正な作文を書き、その一方では、短歌の〈竹柏園〉にも入門していたわけです(明治32年より)。成績も、試験を受けて入ってきた能力の高い非華族子弟をおさえて、明治32年は学年トップ。それ以降もほとんど2番で通し、在校中、およそ3番以下には下ったことがないというのです。これは、無試験入学の華族子弟としては、破格の優秀さだったと言えます。(※注1)

 そんな利玄が、同級生たちから、一目おかれないわけがありません。おとなしい人柄や運動オンチも、こうなると愛嬌のようなもの。志賀直哉など、作文というと、必ず利玄に目を通してもらっていたと言います。

 僕の級は(中略)五六人おとなしい人間がゐたが、木下はその中でも温和(おとな)しい方だつた。しかし学問は出来た。作文が一番得意だつた。僕の級ではその方では一番だつたと思ふ。所謂美文がうまかつた。(中略)文章家としては学習院で有名だつた。そのかはり運動や武課は不得意だつた。高等科になつてから文法にかけては僕等の内で一番委(くわ)しかつた。志賀なぞはかいたものの仮名づかひを木下になほしてもらつてゐたやうに思ふ。試験勉強の時も木下は志賀の先生役をしてゐたやうに思ふが、委しいことは知らない。
(武者小路実篤「木下の思ひ出」 歌誌『立春』昭和14年1月 ※『定本 木下利玄全集』散文篇・764p

 志賀は、もともとは利玄より3つ年上の上級生だったうえ、実はプライドもかなり高い方。その志賀が、作文では利玄に全幅の信頼を置いていたというのですから、文章家・木下利玄の名声は、よほど全学的に鳴り響いてだったのでしょう。

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(2)旅は道づれ・旅日記

 木下利玄の、『輔仁会雑誌』時代のもう一つの特徴は、中等科上級から高等科にかけて、よく紀行文を寄せているということです。それも、友だちと組んで書いたものに、とても生き生きしたものが多いのです。

 その前に、利玄が高等科を卒業するまでに寄稿した文のタイトルを挙げておきましょう。太字になっているものが、紀行文、または旅に題材をとったものです。

  〔中等科時代〕
  第59号(明治35年12月) 「木曽の山越」(木下利玄・前田利為・細川護立)

  〔高等科時代〕
  第61号(明治36年11月) 「雑司が谷道の秋色」・「秋の歌」(短歌)・
               「行軍日誌」「銃煙」(木下利玄・正親町公和・細川護立)
  第62号(明治37年3月)   「蛇の目傘」(随筆・短歌)
  第63号(明治37年6月)   「春期行軍」・「行軍日誌」(木下利玄・立花高木・正親町公和・細川護立)
  第64号(明治37年12月) 「水仙花」(短歌)(筆名・はるさむ)
  第65号(明治38年6月)   「江戸の花」・「鼓艸」(筆名・はるさむ)
  第66号(明治38年3月)  「批評」(筆名・里杲) (その他同欄に、志賀直哉・正親町公和・細川護立ら)
  第67号(明治38年12月)  「銃烟」(筆名・木の子)(その他、志賀直哉ら)
  第68号(明治39年3月)   「南圓堂」(批評)(筆名・里杲)

 例えば、明治35年9月の「木曾の山越」。これは、夏休み、軽井沢から木曽路を越え岐阜に至る10日間の徒歩旅行の有様を、木下利玄(梨香)・前田利為(緑影)・細川護立(晴川)の3人が代わる代わる記した、短編の旅行記です(※この他、紫郊・秋陽・義山・柳洲の4名を加えた、総勢7名の旅)。 文章はいわゆる候文(そうろうぶん)なので、現代の読み手に、意味がダイレクトに解るというわけにはいきません。しかし、その擬古文を少し辛抱して読みすすめるならば、そこからは、友だち同士で初めて数日がかりの山歩きをした若者の、様々な経験に対する新鮮な驚きや心ときめきが伝わって来ます。(なお、カッコ内は拙訳)

〔信州軽井沢駅 梨香 (初日 明治35年7月12日)
茶店に昼げして日やゝ斜(ななめ)なる頃より離山を攀(よ)ぢ申候草間の小径を頂上まで通するものと思ひて凡(およそ)一町許(ばかり)猛進せしに道は絶え石崩れてその凄さは身の毛よだつ許(ばかり)に候へどその上は又草許(ばかり)のやうなれば勇を鼓して互にたすけあひつゝ足をふみしめふみしめてやうやく頂上に達し夏草の上に座して豆の如き軽井沢の町を見下し耳辺にさゝやく風のやさしき調(しらべ)をきゝし時には吾等の胸には一点のけがれなかりしことを信じ申候(中略)
(茶店で昼食をとり、日が少し斜めになった頃から離山をのぼりました。
 草間の小道を、これは頂上まで通ずるものだと思っておよそ一町ばかり猛進したところ、道はとだえ、石はくずれて、その凄さは身の毛もよだつほどでしたが、その上はまた草ばかりのようだったので、勇をふるって、互いに助け合いながら、足をふみしめふみしめて、ようやく頂上に達し、夏草の上にすわって、豆のように小さな軽井沢の町を見下ろし、耳元にささやく風のやさしい調べを聴いた時には、我等の胸には一点のけがれもなかった事を信じました。)

岩よりすべりて一茎の草に踏み止りし時ふみたる岩のくづれし時拳大(こぶし大)の石が上より落ちて来りし時吾等の心のいかなりしかは御推察に任せ候 無我なること数十分の後、軽井沢の平地に出で、前に夕日うつる浅間の峯、今登りし離山を見し時、吾等は感極りて心より互に握手いたし候 かへるさの野路の草花は少からず吾等のかたき心を和げ申候
(岩からすべり落ちて一茎の草の上に踏みとどまった時、踏んだ岩の崩れた時、こぶし大の石が上から落ちて来た時など、吾等がどんな心地だったかは、ご推察におまかせします。
 無我の状態で数十分の後、軽井沢の平地に出て、目の前に夕日がうつる浅間の峰・今登ってきた離山を見た時、吾等は感極まって心から互いに握手しました。
 帰る際の野路の草花は、少なからず、吾等のかたい(かたまった)心を和らげてくれました。)

 軽井沢という場所は、明治35年頃にはすでに避暑地として有名になりつつあり、外国人の別荘や、ホテルも数を増やしていたとのことです(※注2)。しかし、周囲を取り囲む山々の道は、まだまだ険しい自然をむき出しにしていたのでしょう。
 でも、彼らはそこを何とか、自分たちだけで助け合いながら踏破したのです。岩の上で何度か足をすべらせながらも踏みこたえ、山頂に立って足下に遠く来た道を望み、くたくたになって平地に下りてきては感動して互いに握手し合う…。まるでそれは、青春映画の1シーンのようです。

 彼らはその後、汽車を用いて長野県・松本へ行き、そこから奈良井→木曽福島を通って御嶽山を踏破。そして大瀧村へと下って木曾街道を歩み、妻籠から美濃の中津川へ。最後は御嵩から岐阜駅へと、結局10日ほどかけて歩ききっています。

 梨香(りこう)こと利玄の、淡々としながらも細やかな記述。晴川こと細川護立の、「宿を出づるや、月もなく、銀河の耿々(こうこう)たるが遠く千樹の裏に見らるゝのみ…」といった、感激家らしい文章。緑影こと前田利為の、「此処の(宿の)主人の御面相、慶喜公(=徳川慶喜)に似寄りたるところよし、慶喜/\と呼び噺(は)やすに、慶喜先生『弱つちやつた』と頭を掻くなど、中々滑稽に御座候ひき」等に見られるユーモラスな視点。時にはずぶぬれになりながら山道を歩き、時には宿でお腹一杯とろろ汁をおかわりして……読んでいると、彼らが大名家の末裔だなどという事は忘れてしまうくらい、生き生きと楽しいエピソード満載の旅日記です。

 なお、一言つけ加えれば、彼らは大名の家柄だからといって、決して同格ではありませんでした。細川家は熊本54万石、そして前田家は、ご存じ加賀100万石の大(だい)大名家。ですから、明治以降も、彼ら2人の家は侯爵家でした。それに比べ木下家は、秀吉ゆかりの名家とはいえ、たった2万5千石の子爵家。家格でいえば、江戸期にせよ明治期にせよ、両者の間には問題にならないくらいのへだたりがあったのです。(注:華族の階級…上から公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵)
 そんな彼らが、一緒に山歩きをしたり、感激して握手し合ったりするのですから、一世代前の人々から見れば、文字通り肝をつぶすほどの破格・対等なつき合い方だった、という事になるでしょう。そして実際、彼らの文章は、そんな家格差の意識など、みじんも感じさせません。その点も見事です。

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(3)広がる表現の幅

 そして、このように、友だちと、苦労も自然体験も紀行文も共にしたという記憶が、その後の利玄の、“文章表現”に対する意識を大きく変えたようです。彼の散文からは、〈作文〉風な、いわばテーマチックな堅さがやわらいでゆきます。「雑司が谷道の秋色」(『輔仁会雑誌』第61号・明治36年11月)の頃からは、言文一致的な新文体も試みるようになります。

(前略)
浅い秋色は最早この平和な田舎を包んでいる。
空には白い雲がちぎれ/\に漂つて、地には十二三町も西にある鉄道の堤から東の方は目白が丘の方迄一面に稍(やや)黄ばんだ瑞穂がうなだれて居る、
田圃や、あつちこつちの杉林や、藁家なんかゞみんなあたたかな、ゆつたりとした午后の秋日を浴びて静まつて居る、(中略)
蝙蝠傘をさして小さい女の子が来る、
ラッケットをもつて学生風の青年が来る、
たまに遠くに鳴く鶏の声が気をつければ聞える、
鎮守の森の境内には木の葉が散つて、誰も御参りして居る人がない、
社の鳥居と向ひ合つた処にお寺がある、お堂には絵馬がかゝつて居て、山門──と云ふ程のものでもないが──に屑屋の爺さんが荷を下して休んで居る、その隣の田舎家では、かたばかりの門の中にお婆さんが熊手で枯草を干して居る、
その時面影橋の方から来た坊さんが、 「今日は好いお天気で御座います」 と御辞儀をしたので、婆さんこちらへ向いて熊手を片手に取つて丁寧に挨拶して別れる、
僕は婆さんの仕事を見るのを止めて、坊さんが往つた方へゆく、
(完)

 何ということもない田舎道のワンシーンです。この文章の語り手(≒利玄)は、この空間の中では偶然の散歩者であって、ここを通りぬけるだけ。たまに行き交う人々も、みんな知らない人のようです。
 しかし、語り手のまなざしは、そんな孤独な立場にあっても、周囲の物事を、澄んだ鏡が映し出すように、くまなくうつしとってゆきます。特に最後の数行では、語り手がいったん歩みを留め、田舎家の〈お婆さん〉の枯草干しの仕事を眺めていた事が明かされます。この見知らぬ〈お婆さん〉に対しても、その視線は静かで暖かです。
 全体に、“孤独ではあるが、淋しくはない”境地──この短い散歩紀行文に表されているのは、そんな、〈外界〉に対する親和的な感覚のように思われます。何より、この文章の運びには、利玄が、そうした自分のまなざしの在り方に、一種の自信を持ちはじめていることが見てとれます。簡潔で落ち着いた描写です。

 また、彼が高等科の上級生(明治37〜38年)になってからの「行軍日記」(泊まりがけの行軍演習の記録)も、こうした“共同紀行文”(とでも言うべきもの)の延長線上にあるものです。ちなみに、この「行軍日記」も『輔仁会雑誌』に掲載されていました。

 利玄は学年の優等生で、武課では隊長も務めていましたから、役割上、建前的な行軍報告も書いています。
 しかしその真骨頂は、何といっても、附属の「銃煙」というコラム欄にあります。利玄・志賀直哉・正親町公和・細川護立らが、みな勝手なペンネームをつけて、演習でのおかしなこぼれ話を、書きたい放題書くという欄です。
 皆、掲載号ごとに、けっこう気軽にペンネームを変えていますし、同じ回の中でも、どうやら複数の名前を使っているようです。こうなると、もうメンバーといい、雰囲気といい、ほとんど『白樺』六号雑記の世界を予告しているものだと言えます。
 中から一つ、これは木下のものだろうと思われる、〈木の子〉の一文をご紹介しましょう。

   心 の 夢  木の子

 武州は何とやら郡扇町屋村旅館の深夜、見縞(みしま)曹長は夢よりさめたり。
 「おい/\」
 彼は俄然叫びぬ、その声の非常に大なりし為、棟木三寸動く、室の内は真の闇にして、昼間剣を閃かせし大将どもが彼処(かしこ)に此処(ここ)に、何夢むらんムグ/\、ムニャ/\、口を動かす音陰にこもつて声(きこ)ゆるのみ、今宵も最早三更すぎと覚えたり。
 「おい/\」
 返事なきにより、見縞曹長は二度(ふたたび)叫びぬ。
 二度の大声に、寝はらばひたるまゝ目を覚ますもの二三人、何ならんと耳すます。
 「おい燈火(あかり)をもつてこい」
 返事なければ、稍(やや)怒気を帯びて、曹長見縞矢七は三度(みたび)叫びぬ、
 宿の主人、三度目の声に、夢を破られ二階に侍り、
 「召しましたのは、このお座敷でござりますか」
 見縞曹長は宿の主人が声をきいて、始めて心の夢より覚めたり、それ迄は寝ぼけ半分、半分は真暗なりし為、江戸の我が家のつもりにて、いつもつけ置く行燈の光のなきを心外に思ひ、かく大声に怒鳴りしなりしが、今更何とせん方も、内証(ないしょ)にせんと小声にて
 「今何時ですか」
さりとは出来たり見縞曹長。
(『輔仁会雑誌』第67号・明治38年12月)

 これには、あえて、全文訳をつけるまでもないでしょう。武州(埼玉県)に行軍演習に行った折り、夜中に〈見縞矢七〉なる1人の学生が寝ぼけて、自宅のつもりで“あかりを持ってこい!”と怒鳴り、宿の主人がやって来て声をかけてくれて、ようやく自分が寝ぼけていたのに気づいた、というお話です。多分、利玄は、〈見縞〉君と同室だったのでしょう。

 “あかりを持ってこい”と怒鳴るのは、家では使用人にいばっている証し。反面、夜に明かりがないと不安になるのだから、まだまだ子供ということでもあります。
 それにしても、寝ぼけて宿の主人を呼びつけてしまったし、周りのみんなも起こしてしまった…と気がついて、こそっと小声で言った言葉が、「今、何時ですか?」とは!寝ぼけ声の勢いに比べて、オチは何だか竜頭蛇尾。でも、そこに〈見縞矢七〉君の、案外な気の小ささや人の善さが、そこはかとなく感じられます。実話ながら、なかなか気の利いたシチュエーション・コメディといえましょう。木下利玄には、物事のこうした部分を面白がって切り取る“心のフレーム”が備わっていたのです。


 おそらく、友だちと体験を共有し、文章を寄せ書き・回覧するうちに、利玄には、自分自身の持ち味が、少しずつわかるようになったのでしょう。 同時に、友だちの文章からの影響で、彼らの持っている伸びやかさや、情熱や、ユーモアなどが、利玄の中にも少しずつ入って来たのだと思われます。

 利玄が散文で創作をした期間は、20代の主に前半頃と、ごく短いものです。でも、表現の幅を広げることができたのは、学習院中等・高等科時代の、同級生たちとの活発な〈体験の共有〉のおかげだったという事が出来ましょう。

 そしてまた、「旅中日記 寺の瓦」(明治41年)の、志賀・木下・里見の気楽で楽しい旅日記の世界も、このようなベースがあったからこその事だったのです。
(この旅日記の世界に興味がおありの方は、当HP「もうめんたリズム・関西道中」の方もどうぞご一読下さい。)

その3-2に続く→

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【注】

1.なお、利玄とほぼ並んで成績優秀な華族子弟に細川護立がいるが、彼は、利玄ほど早くからひんぱんに、文章を校友会雑誌に発表してはいない。

2.明治19年に宣教師A.C.ショーが避暑地としての良さを見出したのがきっかけ。その後、明治26年(1893)に信越本線が全通してからはホテルもできて避暑客が増え、大正6年(1917)に西武資本による建売別荘分譲が始められてから本格的な避暑地になった。

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