HOME

〔白樺派と旅〕シリーズ・第1回

〈もうめんたリズム〉関西道中
─志賀・木下・里見 『旅中日記 寺の瓦』の旅─ (その1)

written & illustrated by 銀の星(2004/07/03 Up)

1   

【目次】

〈プロローグ〉

〈もうめんたリズム・関西道中〉
(1)旅姿・三人男
(2)旅の目的と、難しい説得
(3)『寺の瓦』と『若き日の旅』について


目次ページへ

〈プロローグ〉

 白樺派の人たちって、どうしてこんなに、旅に強いのだろう?

 最初にそう思ったのは、「白樺派 on the Street, around 1910's」を書いた時の事でした。
 武者小路実篤と志賀直哉は、親友になってからまもなく、山梨から北関東へ抜ける徒歩旅行を敢行したのですが、この時の旅程がずいぶん長距離なのです。しかもペースが速い!

 そんな彼が、志賀と親友になってから敢行したのが、二人連れ立っての徒歩旅行。
 明治三十九年四月二十四日から三十日までの間、静岡県の御殿場を振り出しに、山梨県河口湖(泊)―精進湖(泊)―甲府―御岳(泊)―甲信境の高原―長野県佐久地方馬流(泊)―岩村田―御代田―(信越線)―群馬県前橋―赤城(泊)という四県にまたがる行程を、木賃宿と野宿でつなぎながら五泊で歩き抜いたというのです。
(但し、御岳〜馬流の間は三里=12kmほど荷馬車に便乗。武者小路・満二十歳、志賀・満二十三歳)

「白樺派 on the street, around 1910's」第1章・5 「歩く男・武者小路」

 もちろん、現在、登山やトレッキングが趣味という健脚自慢の方ならば、“そんなに大した行程でもないよ”とおっしゃるのかもしれません。

 でも、防寒服もダウンジャケットも、軽く丈夫な登山靴もない時代の事です。その上、赤城山では宿の枕元の水が氷っていた(武者小路・志賀対談「秋の夜話」昭和38年)というほどまだ寒かった春の山路を、野宿までしながらこれだけのペースで歩きまわれたというのは、やっぱり、大したものという部類に入るのではないでしょうか。少なくとも、〈ひ弱なお坊っちゃん育ち〉という範疇には入りません。

 しかも、実篤と直哉だけかと思いきや、実篤の兄・公共(きんとも)も、従兄の甘露寺受長(かんろじ・おさなが)と一緒に、四国の徳島まで、五十日間の貧乏旅行にチャレンジしていた事がわかりました。この事も、すでに「白樺派 on the Street, around 1910's」の同じ章で少し触れておきましたが、改めて武者小路公共自身の文章でご紹介すると、こんな旅行だったようです。

 一番面白かつたのは、従兄の甘露寺受長と二人で、五十円で五十日間旅行した時である。廣幡伯爵の紹介状を何十通と貰つて、こじき旅行をやつたのである。それは学習院中等科六年の時で、甘露寺はボクより一つ上だつたから高等科一年であつた。
(武者小路公共「旧友たち」 『心』昭和36年11月)

 時代はおそらく、明治32年か33年頃。50円で50日ですから、この時の旅費は1日あたり1円のみという計算です。(ちなみに、当時、ごく普通のノートが30銭ほど。1円は100銭。)多分、極力乗り物には乗らないという、切りつめた徒歩旅行だったのでしょう。ただし、一応、廣幡(ひろはた)伯爵という人の紹介状を懐に用意して、宿泊だけはどこでも断られないようにという予防措置は講じておいたようです。

 この点、貧乏旅行の主旨からいえば、ちょっと反則という気がしないでもありません。それでも大抵の場合は、例えば徳島では、「徳島荘という第一流の旅館に行つて、どうせそう云う所ではボク等は好い部屋には入れないから、玄関脇の行燈部屋で寝かしてくれと言い、そこで寝た」(同上)という風な旅だったようです。讃岐の琴平神社の大宮司さんの家を訪ねた時は、たいへんな御馳走をしてくれたそうで、「ボク達は、生れて初めてのごうかな飲食に恵まれた。(中略)又これからこじき旅行に戻るので、一生懸命になって甘露寺と二人で食べた」(同上)と回想したり…。

 何にせよ、〈旅〉というものは、新鮮な印象を人にのこすもの。でも、こうした旅を、相馬藩士の子孫・志賀直哉はともかくとして、武者小路兄弟や甘露寺受長など、伝統的に遠出などほとんどしたはずのない家柄の子弟たちまでが存分に経験していたというのは、意外でした。

 いったい、彼らは、どうしてこんなに旅好きなんだろう。しかもこんな気軽な徒歩の貧乏旅行ばかり…。そう思って、『白樺』関連の資料や、学習院の『輔仁会雑誌』をめくっていましたら、なんと!旅好きだったのは『白樺』同人だけではありません。当時の学習院には、若者が旅に出たくなるという雰囲気の素地があったのです。さらに、同時代の読み物も、彼らを旅へと誘う…。何より、学生の旅行記にしるしのこされた、明治のローカルの姿が新鮮!

 というわけで、今回からしばらくの間、日本全国津々浦々、丈夫な二本の脚さえあればどこにだって行ける、ボーダレスな彼らの膝栗毛ぶりをご紹介してゆく事にいたします。
 まずは、のちの『白樺』同人が書いた旅日記の傑作、『旅中日記 寺の瓦』を読みながら、明治41年の、関西の旅を辿ってまいりましょう。

PageTop

〈もうめんたリズム〉・関西道中
─志賀・木下・里見 『旅中日記 寺の瓦』の旅─

(1)旅姿・三人男

 明治41年(1908)春、志賀直哉・木下利玄、そして里見 弓享(とん)の3人は、愛知・三重・京都・滋賀・奈良・和歌山・大坂(大阪)を、2週間かけてめぐる旅に出ました。
 それは、『白樺』を発刊からさかのぼること2年前のことでした。志賀は25歳。木下は22歳で、東京帝大国文科在籍中。学習院在学中の里見は、19歳の若者でした(いずれも満年齢)。なお、里見はこの時、まだ〈里見 弓享〉というペンネームは持っていなかったため、旅中日記の中では本名の山内英夫(やまのうち・ひでお)から来た愛称の〈山ノ〉で通していますが、この文中では〈里見 弓享〉で統一していくことにします。 

 さて、ちょうど桜だよりが聞かれるという季節に、彼らは東京を出発したのですが、その旅姿たるや、なかなかクラシックなものでした。

 (なり)は、みんな揃つて和服、──紺絣(こんがすり)に兵児帯(へこおび)の、むろん着流し、生れて初めて、甲斐絹(かひき)のぱつち(※ももひき)といふものを穿(は)き、朴歯(ほうば)の日和下駄、雨具とては、いくらきつちり巻いても今の番傘くらゐの太さになる毛繻子の洋傘(こうもり)一本、誰もインバネス※注1などもつてはゐず、学生用の釣鐘(つりがね)マントも、季節が季節ゆゑ、私は着て行かなかつた。ぱつちは、今の、裏にフランネルを使つたりしたやつと違ひ、無双(むさう)だから、少しひやつく代り、足掻(あがき)がよかつた。
(里見『若き日の旅』昭和15年)

 絣(かすり)の着流しにぱっち穿(ば)き、足にはガラゴロと鳴る朴歯の下駄…。いかがですか?明治41年当時の、しかもハイカラなイメージを持っている学習院生(出身者)としては、意外な旅装に見えるかも知れません。でも、制服はともかく、普段に着る洋服などはあまり持っていなかったという彼らにとっては、これが一番気楽な身なりだったのでしょう。

 ただ、これだけだとちょっとだけ古風な若い衆の旅姿、という趣きですが、荷物や小物などに目をやると…。

 田舎道を歩く時などは、風呂敷包なら頸(くび)に結はへつけるとか、バスケットなら洋傘の先につッかけて担(かつ)ぐとか、それくらゐの手軽さで、鞄(かばん)は誰も提(さ)げてゐなかつた。被(かぶ)りものは、むろん制帽ではなく、めい/\好みの鳥打(ハンテイング)かなんかで、学生らしくもなければ、行商人とも見えず、当時としても、ちよつと得態(えたい)の知れない風體(ふうてい)だつた
(同上・太字は引用者)

里見・志賀・木下の旅姿 鳥打帽は、東京の街っ子が繁華街に遊びにゆく時の定番の帽子。でも、商家の小僧さんなどもよくかぶっていたので、確かに、行商人風にも見えてしまうわけです。しかしそれでいて、一人一人の荷物は小さいし、〈バスケット〉を〈洋傘〉にぶら下げて担いでいたりするのですから、妙にハイカラで、物売りとして見ると何かヘン。誰だろう、何者だろう?よく考えるとわからない…と、周りをいぶかしがらせる格好を、この時の彼らはしていたようです。  

 これが江戸期以前ならば、人の身分や職業は、髪型や衣類のコーディネートでおおかた見当がつく、というのが当たり前でした。ちょっとした髷の結い方や帯の締め方に気をつけて見れば、およその年齢や未婚・既婚までわかるのが普通。そして、そうしたものの見方の枠組みは、明治になっても依然として、人々に受け継がれていました。
 しかし、おそらく彼ら三人にしてみれば、せっかく気兼ねのない友だちだけでの関西旅行に、一目で他人から“あれは学習院生だ or いいとこのご子息だ”などとわかられるような格好はしたくない(だから、制帽もかぶらなかったのでしょう)。それで、質素にしようとして、かえって、当時でも若干レトロな旅装になってしまったのでしょう。
 でも、自分の日常感覚というのは、いくら気をつけても自然と出てしまうものです。旅用の持ち物を寄せ集めると、やっぱり、バスケットや洋傘などのハイカラものが交じってしまう。 というわけで、学習院の人が〈フツー〉にしようとすると、やや〈奇妙(キミョー)〉の方に傾いてしまうという一つのパターンが、ここには典型的にあらわれているように思われます。

PageTop

(2)旅の目的と、難しい説得

 ところで、そんな不思議な格好をして、彼らは何を目的に、関西まで行くことにしたのでしょうか?

 友だちと遠出がしたかった事、京都への憧れ、読み物からの影響…。それぞれに、理由は色々あったようですが、一つ共通したものを挙げるとすれば、それは日本古美術への憧憬でした。
 もともと、彼らは皆、美術・創作の方には関心の高い人たちでしたが、どうやら、その直接のきっかけになったのは、木下利玄の受講していた〈日本美術史〉の講義だったようです。
 旅日記の中に、木下が、“美術史のノートが見えない”と探し回る(あとから見つかる)くだりがありますが、この〈美術史〉とは、瀧精一(たき・せいいち)教授の〈日本美術史〉の事。木下は、このノートを見ながら、行く先々で、里見たちに日本美術の説明をしてあげていたようです。

 瀧精一(1873〜1945)は明治の美術史家で、美術雑誌『国華』の主幹をつとめた事でもわかるように、岡倉天心を通じて、フェノロサの日本美術観から多くの影響を受けた人です。フェノロサの愛した日本の仏閣、そして仏像彫刻の数々…それらは、やはり、現地にゆかないと見られません。行ってみよう、ぜひ本物をこの目で見よう。漠然とした皆の関西への憧れにはずみがついたのは、木下の〈日本美術史〉の授業の話題が雑談にのぼった、そんな折りの事だったのではないかと思われます。

* * * * * * * *

 ただ、〈美術鑑賞〉という感覚そのものがまだ世間に定着していなかった時代に、自分たちの旅の目的が“美術を見にゆく事”だとは、なかなか親世代に説明しにくかったというのも、また事実のようです。

 旅費は、里見の『若き日の旅』という回想記によると、丸2週間(15日間)で35円。1日あたり、2円30銭前後といったところです。

 これは高い、それとも安い?先の武者小路公共・甘露寺受長の旅行は1日1円。でも、彼らは極力徒歩で通しましたし、里見たちよりも10年近く前の旅です。それに比べると、3人の関西旅行の場合は、適宜、鉄道などの乗り物も利用していまし、宿代も普通に払っていましたから、その分、旅費もかかったのでしょう。
 でも、里見は、こんな風にも書いています。

 で、出来あがつた(※志賀の)日程表と同封の手紙に、「……こゝまでは馬鹿に話がうまいのだが、たゞいけないのは金がかゝる。ざつと計算してみたところ、特に貧乏旅行といふ企(くわだて)でない限り、どうしても三十五円くらゐは要る。三十五円あれば、デイッケンスの全集が買へる、なんて思つたらもう出かけられない。十日あまりの旅に三十五円はちつと贅沢すぎるやうだが、ひとつ、うんと頑張つて、無理にも御両親を説き伏せるんだね」と、激励の言葉が添へてあつた。それほど私は、僅か五つ違ひの志賀からさへ子供扱ひにされてゐたし、十日間の旅費、三十五円が、貧乏旅行の部でなく、学生の身で、物見遊山(ものみゆさん)の上方(かみがた)(ゆ)きなど、僭上(せんじょう)の沙汰と思はれるやうな、そんな時代だつたのだ。

 ── どうやら私は、母の口添(くちぞえ)で、気むづかしやの父から、不承々々(ふしょうぶしょう)な承諾をもぎ取りはしたやうなものゝ、「抜け参(めえ)りからぐれだして」と、「白波五人男」の台詞(せりふ)にもある、あの、徳川時代の若い者の間に行われた伊勢路(いせじ)、京阪への初上(はつのぼ)り、──泰平の聖代(みよ)とて、まだそんな匂ひも残つてゐないことはなかつた。
(『若き日の旅』 ※改行は引用者)

 〈美術〉には、国境を越えた価値がある。また、仏教美術には、シルクロードを越えて遥か数千年前の昔から伝わる、壮大な人類の歴史が刻まれている…。
 でも、明治時代にそうした歴史ロマンに心ときめくのは、多少なりとも、世界史的知識を子供の頃から学んでいる若者だからこそ。親たちにとっては、“神社仏閣を見て歩く?仏さま参りをする?信心もしないのに…?”と、いぶかしいばかりだったでしょう。もしやお参りにかこつけて、よからぬ道にはみだすのじゃないかと、江戸時代風に心配したとしても無理はありません。

 そして、その気持ちを一番露骨に口にした(らしい)のが、志賀直哉の父。志賀の「ある男、その姉の死」という小説は、一応フィクションの体裁はとっていますが、その中の一節にある〈父の言葉〉は、多分、この時、父が直哉に投げつけた言葉そのままだったと思われます。

 「全体おれは貴様のしようという仕事が気に入らないのだ。しかし貴様がやると言う以上それに反対はしないが、たとえば今度の旅行では京都奈良へんの寺や美術品を見て歩きたいとか、そんな暇人の年寄りの道楽旅のようなものには一文の金でも出してやるのがいやなのだ。第一そんな事を親がかりの身で平気で言い出す事から気に入らないのだ。(後略)
※注2

 結局これで、直哉と父親は例によって決裂。そして直哉は、古本屋を呼ぶと、ほとんどありったけの自分の本を売り飛ばしてから出かけたらしい。そんな事情も、この小説からうかがい知ることが出来ます。
 それに、この事について何も書き残していない木下利玄にしても、実の親も義理の親もいない孤独の身。家の財政を握っていたのは、頑固で厳しい旧家臣でした。何の反対もなく、楽に許しがもらえたとは思われません。

 ずっと後からふり返ってみれば、10日間35円の旅は、当時としてもやはり低予算の方だったでしょう。でも、そうした周囲との葛藤に彼らが払った代償は、旅費よりはるかに高いものだったに違いありません。
 何をしに行くかも良くわかってもらえず、身なりも“ちょっと得態の知れない風體”…。いずれのエピソードも、その時点における、世間の中での〈彼ら〉の拠り所のなさ・存在の不安定さを示しているようで、何やら象徴的にさえ感じられます。

* * * * * * * *

 しかし、ともあれ、何とか旅費も調達できました。わずらわしい思いをひとまず後に置きざりにして、家をあとにして来た3人は、いよいよ、歌舞伎座から出発です。というのも、その日彼らは、友だちの細川護立や米津政賢と、市川団蔵・市村羽左衛門の舞台を見てから出かけるという事にしていたからです。

 出かける彼らのはなむけに、細川護立が、歌舞伎座の窮屈な枡席の中で、ノートにこんな事を書いてくれました。

親爺から「勝手に失せやがれ」と、一喝されて、くる/\つと木挽町、スッポンにどつさりと落ちたが、
やゝあつて、人ごみの埃むら/\と立つ中から、ぬつと出でたる
三つ弾正、
「己れ三人もう行くか」
と云ふ間もあらせず、西方さして霧の如くに消失(きえう)せる。

  三月廿六日
    於歌ブキ座             男之助(※細川護立)

(『旅中日記 寺の瓦』冒頭)

 (よく見るとこの時、細川護立は、志賀と父親との確執を知って、さり気なくユーモアにしてくれている事がわかります。もちろん、他の2人の事情にしても…。)

 さあ、いやな思いはどこへやら。出かける前から、気分はちょっとしたお芝居の主人公です。見てきたばかりの羽左衛門の「ア、釣燈籠のあかりを照(てら)し…」といったセリフをてんでに口まねしては、洒落(しゃれ)三昧。大はしゃぎの汽車の旅がはじまりました。時は3月26日深夜。ハイテンションになっていた彼らにすれば、夜汽車の旅は、いつしか歌舞伎から膝栗毛(西洋道中?)の世界へと次元スリップしてゆくような、夢心地の体験だったかも知れません。でも、いくらスチームが利かず、寒くてガラ空きの最後部車両だったとはいえ、夜明けにうとうとするまで夜通し騒いでいたというのですから、車掌さんや他のお客には、さぞ、騒々しい客だと呆れられていた事でしょう。

PageTop

(3)『寺の瓦』と『若き日の旅』について

 さて、旅の本題に入る前に、今回読み進めてゆく『旅中日記 寺の瓦』(以後、『寺の瓦』と表記)と、参考とする里見作の『若き日の旅』、この二つのテキストがどのような関係にあるのか、簡単にご紹介しておきましょう。

 志賀・木下・里見の3人は、旅に出るにあたって、心に浮かんだ感想を寄せ書き風にノートに記す事にしました。出がけに、細川護立が一筆書いてくれた、あのノートです。それが『旅中日記 寺の瓦』でした。
 『寺の瓦』の〈自序〉ページには、「それは他人へ見せるよりは自分等の思ひ出の種にしようといふのが主である。だから文章でも字でも随分乱暴だ」(志賀)と書かれていますが、その通り、これは彼らにとってだけの思い出ノートでした。親しい友人は別として、他人に読ませようとか、活字にしようといった考えは、当初、誰も持っていませんでした。

 しかし、それから下る事32年。旅の友の1人・木下利玄はすでに亡く、〈過去〉も次第に、かえらぬ懐かしい〈思い出〉に変わります。52歳になっていた里見 弓享は、自分が持っていたノート・『寺の瓦』を下敷きにして、『若き日の旅』という旅行記を発表しました。昭和15年の事です(甲鳥書林・出版)
 里見はその冒頭で、これは「純粋な紀行とも云へない、多少潤色を加へた物語」だと断っていますが、しかし会話の様子や旅先のエピソードなど、主要部分はほぼ全面的に『寺の瓦』の記述に依っていました。本来『寺の瓦』自体は、文章に当事者しかわからない飛躍も多く、読みづらいものだったのですから、それが改めて、誰でも読むことのできる旅行記としてよみがえったのは、意義ある事だったと言えましょう。そこには、明治の若者が旅をゆく姿が軽快につづられています。

 ところが、お話は、ここまでで終わりませんでした。それからさらに29年も下った昭和44年、あの旅の日々から丸61年も経った後に、『寺の瓦』は翻刻・出版される運びとなったのです。 里見 弓享は81歳に、そして最年長だった志賀は、なんと86歳に達していました。

 震災や戦禍に合ひながらも、運よく、今日まで「寺の瓦」の原物を保存し得た私のもとへ、昨年(※昭和44年)初夏の頃だつたか、本書刊行の企画がもち込まれた時、大正十四年二月、病のため早世した木下には、もとより相談のしやうがなかつたけれど、老来の気不精ゆゑに、十中八九の不同意が豫想されてゐた志賀が、存外すらりと承知してしまつた、その思ひがけなさの跳(はず)みをくらつてか、即座に私が……。当意即妙でこそ面白味の湧く洒落や楽屋落ちに、……しかも半世紀以上たつてしまつた後(あと)からの種明(たねあか)しなど、およそ気の利かない限りだとは、重重(ぢゆうぢゆう)承知の上で、不精者の私が、「よーし、それぢやアひとつ、おれが註釈をつけてやらうかな。さうすりやア、ちつとはましな読物になるかも知れない」と、うつかり口を滑らせてしまつたものだ。
 そんなわけで、若気の至りの三人の相(すがた)が、こゝに、臆面もなく、日の目をみることに相成つた次第。

(里見 弓享「註釈者のあとがき」 『寺の瓦』より)

 なお、『寺の瓦』(中央公論社)が出版されたのは昭和46年1月ですが、その年の10月に志賀直哉は亡くなっています(88歳)。また、この出版に先立ち、昭和44年10月20日に、志賀と里見が『寺の瓦』をめぐる対談「明治の青春」(昭和45年2月・文芸誌『海』掲載)を行っていますが、これが志賀にとっては、文字通り、生前最後の対談となりました。

 晩年、何かにつけて“いらない、必要ない”とおっくうがっていた志賀が、意外なほど簡単にこの旅日記の刊行を承知したというのも不思議なら、あまり自分を語ることなく早逝した木下利玄の素(す)の個性が一番生き生きと記されているのもこの日記。その意味で『寺の瓦』は、ただ単に彼らの青春の証しであるだけでなく、時を越えても思い出され続け、しかも紹介される度にその持つ〈意味〉を新たにし続けた、特異な記録だったと言えます。
 それに『若き日の旅』と『寺の瓦』、どちらも、里見が作者・注釈者として〈語り部〉的な役割を果たしているというのも、何か不思議な宿縁のようなものを感じます。

(続く)

PageTop

【注】

1.インバネス……
  男子用の外套の一種。和服の上に着るのでコートのような袖はついていない。マントに似ており、羽織るように着用する。

2.「ある男、その姉の死」の引用は、岩波文庫版・1989年第19刷による。


【引用について】
『旅中日記 寺の瓦』・『若き日の旅』よりの引用は、すべて初版本に依る。


Index        Next

HOME