〔白樺派と旅〕シリーズ・第1回
〈もうめんたリズム〉関西道中
─志賀・木下・里見 『旅中日記 寺の瓦』の旅─ (その1)
written & illustrated by 銀の星(2004/07/03 Up)
【目次】
〈プロローグ〉
〈もうめんたリズム・関西道中〉
(1)旅姿・三人男
(2)旅の目的と、難しい説得
(3)『寺の瓦』と『若き日の旅』について
白樺派の人たちって、どうしてこんなに、旅に強いのだろう? 最初にそう思ったのは、「白樺派 on the Street, around 1910's」を書いた時の事でした。 そんな彼が、志賀と親友になってから敢行したのが、二人連れ立っての徒歩旅行。
もちろん、現在、登山やトレッキングが趣味という健脚自慢の方ならば、“そんなに大した行程でもないよ”とおっしゃるのかもしれません。 でも、防寒服もダウンジャケットも、軽く丈夫な登山靴もない時代の事です。その上、赤城山では宿の枕元の水が氷っていた(武者小路・志賀対談「秋の夜話」昭和38年)というほどまだ寒かった春の山路を、野宿までしながらこれだけのペースで歩きまわれたというのは、やっぱり、大したものという部類に入るのではないでしょうか。少なくとも、〈ひ弱なお坊っちゃん育ち〉という範疇には入りません。 しかも、実篤と直哉だけかと思いきや、実篤の兄・公共(きんとも)も、従兄の甘露寺受長(かんろじ・おさなが)と一緒に、四国の徳島まで、五十日間の貧乏旅行にチャレンジしていた事がわかりました。この事も、すでに「白樺派 on the Street, around 1910's」の同じ章で少し触れておきましたが、改めて武者小路公共自身の文章でご紹介すると、こんな旅行だったようです。 一番面白かつたのは、従兄の甘露寺受長と二人で、五十円で五十日間旅行した時である。廣幡伯爵の紹介状を何十通と貰つて、こじき旅行をやつたのである。それは学習院中等科六年の時で、甘露寺はボクより一つ上だつたから高等科一年であつた。
時代はおそらく、明治32年か33年頃。50円で50日ですから、この時の旅費は1日あたり1円のみという計算です。(ちなみに、当時、ごく普通のノートが30銭ほど。1円は100銭。)多分、極力乗り物には乗らないという、切りつめた徒歩旅行だったのでしょう。ただし、一応、廣幡(ひろはた)伯爵という人の紹介状を懐に用意して、宿泊だけはどこでも断られないようにという予防措置は講じておいたようです。 この点、貧乏旅行の主旨からいえば、ちょっと反則という気がしないでもありません。それでも大抵の場合は、例えば徳島では、「徳島荘という第一流の旅館に行つて、どうせそう云う所ではボク等は好い部屋には入れないから、玄関脇の行燈部屋で寝かしてくれと言い、そこで寝た」(同上)という風な旅だったようです。讃岐の琴平神社の大宮司さんの家を訪ねた時は、たいへんな御馳走をしてくれたそうで、「ボク達は、生れて初めてのごうかな飲食に恵まれた。(中略)又これからこじき旅行に戻るので、一生懸命になって甘露寺と二人で食べた」(同上)と回想したり…。 何にせよ、〈旅〉というものは、新鮮な印象を人にのこすもの。でも、こうした旅を、相馬藩士の子孫・志賀直哉はともかくとして、武者小路兄弟や甘露寺受長など、伝統的に遠出などほとんどしたはずのない家柄の子弟たちまでが存分に経験していたというのは、意外でした。 いったい、彼らは、どうしてこんなに旅好きなんだろう。しかもこんな気軽な徒歩の貧乏旅行ばかり…。そう思って、『白樺』関連の資料や、学習院の『輔仁会雑誌』をめくっていましたら、なんと!旅好きだったのは『白樺』同人だけではありません。当時の学習院には、若者が旅に出たくなるという雰囲気の素地があったのです。さらに、同時代の読み物も、彼らを旅へと誘う…。何より、学生の旅行記にしるしのこされた、明治のローカルの姿が新鮮! というわけで、今回からしばらくの間、日本全国津々浦々、丈夫な二本の脚さえあればどこにだって行ける、ボーダレスな彼らの膝栗毛ぶりをご紹介してゆく事にいたします。
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〈もうめんたリズム〉・関西道中
─志賀・木下・里見 『旅中日記 寺の瓦』の旅─ (1)旅姿・三人男 明治41年(1908)春、志賀直哉・木下利玄、そして里見 弓享(とん)の3人は、愛知・三重・京都・滋賀・奈良・和歌山・大坂(大阪)を、2週間かけてめぐる旅に出ました。
さて、ちょうど桜だよりが聞かれるという季節に、彼らは東京を出発したのですが、その旅姿たるや、なかなかクラシックなものでした。 装(なり)は、みんな揃つて和服、──紺絣(こんがすり)に兵児帯(へこおび)の、むろん着流し、生れて初めて、甲斐絹(かひき)のぱつち(※ももひき)といふものを穿(は)き、朴歯(ほうば)の日和下駄、雨具とては、いくらきつちり巻いても今の番傘くらゐの太さになる毛繻子の洋傘(こうもり)一本、誰もインバネス(※注1)などもつてはゐず、学生用の釣鐘(つりがね)マントも、季節が季節ゆゑ、私は着て行かなかつた。ぱつちは、今の、裏にフランネルを使つたりしたやつと違ひ、無双(むさう)だから、少しひやつく代り、足掻(あがき)がよかつた。
絣(かすり)の着流しにぱっち穿(ば)き、足にはガラゴロと鳴る朴歯の下駄…。いかがですか?明治41年当時の、しかもハイカラなイメージを持っている学習院生(出身者)としては、意外な旅装に見えるかも知れません。でも、制服はともかく、普段に着る洋服などはあまり持っていなかったという彼らにとっては、これが一番気楽な身なりだったのでしょう。 ただ、これだけだとちょっとだけ古風な若い衆の旅姿、という趣きですが、荷物や小物などに目をやると…。 田舎道を歩く時などは、風呂敷包なら頸(くび)に結はへつけるとか、バスケットなら洋傘の先につッかけて担(かつ)ぐとか、それくらゐの手軽さで、鞄(かばん)は誰も提(さ)げてゐなかつた。被(かぶ)りものは、むろん制帽ではなく、めい/\好みの鳥打(ハンテイング)かなんかで、学生らしくもなければ、行商人とも見えず、当時としても、ちよつと得態(えたい)の知れない風體(ふうてい)だつた。
鳥打帽は、東京の街っ子が繁華街に遊びにゆく時の定番の帽子。でも、商家の小僧さんなどもよくかぶっていたので、確かに、行商人風にも見えてしまうわけです。しかしそれでいて、一人一人の荷物は小さいし、〈バスケット〉を〈洋傘〉にぶら下げて担いでいたりするのですから、妙にハイカラで、物売りとして見ると何かヘン。誰だろう、何者だろう?よく考えるとわからない…と、周りをいぶかしがらせる格好を、この時の彼らはしていたようです。 これが江戸期以前ならば、人の身分や職業は、髪型や衣類のコーディネートでおおかた見当がつく、というのが当たり前でした。ちょっとした髷の結い方や帯の締め方に気をつけて見れば、およその年齢や未婚・既婚までわかるのが普通。そして、そうしたものの見方の枠組みは、明治になっても依然として、人々に受け継がれていました。 |
ところで、そんな不思議な格好をして、彼らは何を目的に、関西まで行くことにしたのでしょうか? 友だちと遠出がしたかった事、京都への憧れ、読み物からの影響…。それぞれに、理由は色々あったようですが、一つ共通したものを挙げるとすれば、それは日本古美術への憧憬でした。 瀧精一(1873〜1945)は明治の美術史家で、美術雑誌『国華』の主幹をつとめた事でもわかるように、岡倉天心を通じて、フェノロサの日本美術観から多くの影響を受けた人です。フェノロサの愛した日本の仏閣、そして仏像彫刻の数々…それらは、やはり、現地にゆかないと見られません。行ってみよう、ぜひ本物をこの目で見よう。漠然とした皆の関西への憧れにはずみがついたのは、木下の〈日本美術史〉の授業の話題が雑談にのぼった、そんな折りの事だったのではないかと思われます。 * * * * * * * * ただ、〈美術鑑賞〉という感覚そのものがまだ世間に定着していなかった時代に、自分たちの旅の目的が“美術を見にゆく事”だとは、なかなか親世代に説明しにくかったというのも、また事実のようです。 旅費は、里見の『若き日の旅』という回想記によると、丸2週間(15日間)で35円。1日あたり、2円30銭前後といったところです。 これは高い、それとも安い?先の武者小路公共・甘露寺受長の旅行は1日1円。でも、彼らは極力徒歩で通しましたし、里見たちよりも10年近く前の旅です。それに比べると、3人の関西旅行の場合は、適宜、鉄道などの乗り物も利用していまし、宿代も普通に払っていましたから、その分、旅費もかかったのでしょう。 で、出来あがつた(※志賀の)日程表と同封の手紙に、「……こゝまでは馬鹿に話がうまいのだが、たゞいけないのは金がかゝる。ざつと計算してみたところ、特に貧乏旅行といふ企(くわだて)でない限り、どうしても三十五円くらゐは要る。三十五円あれば、デイッケンスの全集が買へる、なんて思つたらもう出かけられない。十日あまりの旅に三十五円はちつと贅沢すぎるやうだが、ひとつ、うんと頑張つて、無理にも御両親を説き伏せるんだね」と、激励の言葉が添へてあつた。それほど私は、僅か五つ違ひの志賀からさへ子供扱ひにされてゐたし、十日間の旅費、三十五円が、貧乏旅行の部でなく、学生の身で、物見遊山(ものみゆさん)の上方(かみがた)行(ゆ)きなど、僭上(せんじょう)の沙汰と思はれるやうな、そんな時代だつたのだ。 ── どうやら私は、母の口添(くちぞえ)で、気むづかしやの父から、不承々々(ふしょうぶしょう)な承諾をもぎ取りはしたやうなものゝ、「抜け参(めえ)りからぐれだして」と、「白波五人男」の台詞(せりふ)にもある、あの、徳川時代の若い者の間に行われた伊勢路(いせじ)、京阪への初上(はつのぼ)り、──泰平の聖代(みよ)とて、まだそんな匂ひも残つてゐないことはなかつた。 〈美術〉には、国境を越えた価値がある。また、仏教美術には、シルクロードを越えて遥か数千年前の昔から伝わる、壮大な人類の歴史が刻まれている…。 そして、その気持ちを一番露骨に口にした(らしい)のが、志賀直哉の父。志賀の「ある男、その姉の死」という小説は、一応フィクションの体裁はとっていますが、その中の一節にある〈父の言葉〉は、多分、この時、父が直哉に投げつけた言葉そのままだったと思われます。 「全体おれは貴様のしようという仕事が気に入らないのだ。しかし貴様がやると言う以上それに反対はしないが、たとえば今度の旅行では京都奈良へんの寺や美術品を見て歩きたいとか、そんな暇人の年寄りの道楽旅のようなものには一文の金でも出してやるのがいやなのだ。第一そんな事を親がかりの身で平気で言い出す事から気に入らないのだ。(後略)」 結局これで、直哉と父親は例によって決裂。そして直哉は、古本屋を呼ぶと、ほとんどありったけの自分の本を売り飛ばしてから出かけたらしい。そんな事情も、この小説からうかがい知ることが出来ます。
ずっと後からふり返ってみれば、10日間35円の旅は、当時としてもやはり低予算の方だったでしょう。でも、そうした周囲との葛藤に彼らが払った代償は、旅費よりはるかに高いものだったに違いありません。 * * * * * * * * しかし、ともあれ、何とか旅費も調達できました。わずらわしい思いをひとまず後に置きざりにして、家をあとにして来た3人は、いよいよ、歌舞伎座から出発です。というのも、その日彼らは、友だちの細川護立や米津政賢と、市川団蔵・市村羽左衛門の舞台を見てから出かけるという事にしていたからです。 出かける彼らのはなむけに、細川護立が、歌舞伎座の窮屈な枡席の中で、ノートにこんな事を書いてくれました。 親爺から「勝手に失せやがれ」と、一喝されて、くる/\つと木挽町、スッポンにどつさりと落ちたが、
三月廿六日 (よく見るとこの時、細川護立は、志賀と父親との確執を知って、さり気なくユーモアにしてくれている事がわかります。もちろん、他の2人の事情にしても…。) さあ、いやな思いはどこへやら。出かける前から、気分はちょっとしたお芝居の主人公です。見てきたばかりの羽左衛門の「ア、釣燈籠のあかりを照(てら)し…」といったセリフをてんでに口まねしては、洒落(しゃれ)三昧。大はしゃぎの汽車の旅がはじまりました。時は3月26日深夜。ハイテンションになっていた彼らにすれば、夜汽車の旅は、いつしか歌舞伎から膝栗毛(西洋道中?)の世界へと次元スリップしてゆくような、夢心地の体験だったかも知れません。でも、いくらスチームが利かず、寒くてガラ空きの最後部車両だったとはいえ、夜明けにうとうとするまで夜通し騒いでいたというのですから、車掌さんや他のお客には、さぞ、騒々しい客だと呆れられていた事でしょう。 |
【注】
1.インバネス……
男子用の外套の一種。和服の上に着るのでコートのような袖はついていない。マントに似ており、羽織るように着用する。
2.「ある男、その姉の死」の引用は、岩波文庫版・1989年第19刷による。
【引用について】
『旅中日記 寺の瓦』・『若き日の旅』よりの引用は、すべて初版本に依る。