〈白樺派〉on the street, around 1910's (2003/04/12 up)
第1章 造りかえられた身体
4.運動オンチの二人
5.歩く男・武者小路

4.運動オンチの二人

 さて、白樺同人中で、先の三人などとは全く対極にいたのが、武者小路実篤と木下利玄です。初等科入学の頃からの幼なじみで、何となく気が合ったこの二人は、運動オンチに関しても、まったくの双璧でした。

 (武者小路)は角力をとってもあまり強くなく、馳けっこではびりから一二番だったが、木下は僕よりもうはてに弱く、馳けるのにもおそかった。(中略)
 水泳に行っても、少し泳いでくたびれて浜に上ると、僕よりさきに上ってゐる人はいつでも一人切りなかった。その一人は木下だ。

 器械体操でも木下と僕とは一番まづい仲間として一緒にゐたが、木下は僕よりうはてだった。さう云ふ点で木下が居てくれるのは心丈夫なことだった。
(「白樺を出すまで」『白樺』第八巻十二号 大正六年十二月)

 さらには、こんな思い出も。

 僕はかけっこでもメタルをとったことはなく、撃剣の紅白試合に出れば、自分よりも四つも五つも下の小さい奴にすぐうたれた。しかし一度撃剣で勝ってメタルをもらったことがある。皆、おどろいたが相手が木下だと云ふと、皆笑つた。
 二人は勝負に出てたゞたゝきあった。勝負あったと云ふので二人打ちあうのをやめて外へ出てくると木下は『一たいどっちが勝ったのだ』ときいた。どうも僕の方が勝ったらしくもあったが、はっ切りわからないので『どっちかね』と僕も云って二人で笑った。木下が聞きに行って始めて僕の方が勝ったことが正確にわかって、二人で大笑ひした。

(同上)

 学習院は、撃剣から柔道、軍事教練など、格闘技にも力を入れていた学校。でも反面、こんな“おっとりさん”たちが笑いあっていられるようなのどかさも、当時はあったのですね。
 武者小路は言うまでもなく公家華族の子息。そして木下利玄も、養子ではありますが、幼くして、旧大名家(岡山県・足守藩)・木下家の当主となった人。そういう点では、彼らの運動下手も、仕方がないことのように思われます。(とはいえ、公家華族の子弟でも、園池公致のようなスポーツ得意少年もいたわけですから、一概には言えませんが。)

 でも、木下の方には、一つだけ得意なものがありました。それは〈馬術〉です。

 木下は僕(武者小路)よりもうはて(上手)に弱く、馳けるのにもおそかった。たゞ馬にのることは僕よりずっとうまかった。僕は馬がこわかったが、木下は馬がすきだった。柄(がら)にないことに思ってゐた。
(同上)

 おとなしく物静かな性格の木下でしたが、それだけに、もの言わぬ動物と心を通わせるのが上手だったのでしょう。また、別な面から見れば、それは、彼も紛れもなく武士階級、一大名家の末裔だという事の証左だったようにも思えます。

 なお、学習院に導入されていたのは、流鏑馬を競うような伝統馬術ではなく、最初から西洋馬術でした。 特にブリティッシュ式西洋馬術は、操馬の巧みさを重視する馬術です。今でも時々、オリンピックや国際大会の馬術競技というと、イギリスの王族・貴族たちが選手として活躍することがあるのは、そうした歴史的な背景があるためです。
 学習院の馬術教育が始まったのは明治十二年からと、全国的にも早く、明治二十年代にはすでに、学生の一部が行軍演習に〈騎兵〉として参加していたということです。

 ところで、馬術競技では、木下に水をあけられた観のある武者小路。これでは、白樺派の中では、彼が一番運動オンチだったような印象となってしまいます。

 ただ、武者小路の場合、あまり運動になじまなかった理由には、生まれた階級や生来の素質ばかりではなく、家の経済の問題も大きかったように思われます。
 彼はある時、〈六号〉欄で、こんな風にからかわれてしまっています。

○無車といふ男は明治十八年に東京は麹町区に生れた、十九世紀の空気は十五六年しか吸はないであとは二十世紀の空気で生きてゐる男なのですが、どうです、生れて未だボートと云ふ物に乗った事がないんださうです、(中略)
現在東京で飛行機が飛ぶと云ふ今日、ロダンを云々し、メーテルリンクを云々する人間でボートに乗った事がないとは実によく/\な人間ではありませんか。浅草公園で見世物にして、木戸銭を取つてもいゝ位のものです。
此事を彼が自白した時に、近頃同人になつた平沢(此男は学習院のボートのチャンピヨンです)が、呆れたやうな顔をして「そんなら蒸汽船は?」と聴きましたっけ流石(さすが)に此(この)未開人も汽船には度々乗った事があるさうです。(後略)

(「編輯室にて」より 日本武夫のムスコ 『白樺』第二巻第五号 明治四十四年五月 改行は引用者)
※日本武夫のムスコ=志賀直哉、平沢=長与善郎

 気が向けば、友だちと連れだって気軽に遊園地にゆくことも、池の貸しボートで遊ぶ事も出来る。学校で、徒競走だ、柔道だ、選手に選ばれたなどと言えば、活動費用もユニフォーム代も親から相応に負担してもらえる。それが当然のように育ってきた志賀や長与らにしてみれば、〈いまどきボートにも乗ったことがない〉という武者小路は、珍しくも滑稽にも思われたことでしょう。

 でも、武者小路の家には、そうはできない事情がありました。実篤の父・実世(さねよ)は、実篤の満二歳の年に肺病で早逝し(明治二十年・享年三十七歳)、そのために武者小路家は、働き手のない(つまり給金のつかない)家庭になってしまったのです。
 社会保険制度などまったく無く、また新政府そのものが財政難だった時代のこと。収入は、華族が出資金を出して設立した銀行から出る公債利子だけになってしまいました。たとえ元公家の家柄華族とはいえ、あまりにも困窮して、使用人を置くなどの華族らしい体面を保つことができなくなれば、爵位そのものを返上しなければなりません。
 とかく、〈華族〉は特別に保護された特権階級のように思われがちですが、人が雇えなくなって誰からも“ご主人”“旦那様”と呼ばれないような〈華族〉は、そもそも〈華族〉として存在し得ない。宮中儀式に、所定の服装で、位に応じた人数の随員を伴って来られなくなった場合も同様です。そうなったら、別に国家がお金を出して地位を存続させてくれるわけではありません。そのくらい、実状はシビアなものだったのです。

 未亡人となった母・秋子(なるこ)(当時三十五歳)は、“とにかく長男の公共(きんとも)が成人するまで、家をつぶす事はできない”と、遺された一女二男のために、常に算盤(そろばん)を手元に置き、家計を節約すべく頑張っていたそうです。〈無駄遣い〉という事には、一文たりとも反対しました。そのかわり、娘や息子を健康に育てたい一心から、毎年鎌倉へ海水浴にゆく費用だけは、何としてでも捻出していたということですが。

 ですから、他の大半の学習院生にとっては当たり前の楽しみも、実篤にとっては、夢のまた夢のような話。なにせ、初等科のころ、水泳の試験(当時は海での遠泳訓練)で級(ランク)が上がるたびに、上がった人たちが皆に饅頭(まんじゅう)をおごるという“不文律”を知らなかったために、金の持ち合わせが無くておごれず、皆の皮肉や悪意にじっと耐えていた、というのが数少ないスポーツに関する記憶なのですから…。(「或る男」第五十五章)

 志賀たちと友だちになる以前には、まっすぐ家に帰ってひたすら本を読む生活だったのも、あながち、生真面目なせいばかりではなかったのです。運動の素質が開花しなかったのも、無理からぬことだったと言えましょう。

5.歩く男・武者小路

 でも、そんな武者小路にも、あの志賀にさえひけをとらないと自負する運動能力が、一つだけありました。それは〈歩く〉ことです。

 学習院では、学生を柔弱にしないために、繰り返し徒歩通学を奨励していたそうです。それでも、付き人と一緒に通う子も多く、勢い、自家用馬車や人力車で通う者は跡を絶ちませんでした。また、自転車が流行りはじめてからは、自転車で通う学生も少なくなかったようです。志賀なども、自転車通のうちの一人でした。
 でも、そんな雰囲気の中、武者小路は、ずっと徒歩で通い続けていました。
 もちろん、家庭の事情がそのような贅沢を許さなかったというのが、主たる理由ではありました。でも、トルストイを知ってからは、生活を質素にし、体を鍛える事の必要性を感じ、むしろ積極的に徒歩主義を貫いていたようです。

 そんな彼が、志賀と親友になってから敢行したのが、二人連れ立っての徒歩旅行。
 明治三十九年四月二十四日から三十日までの間、静岡県の御殿場を振り出しに、山梨県河口湖(泊)―精進湖(泊)―甲府―御岳(泊)―甲信境の高原―長野県佐久地方馬流(泊)―岩村田―御代田―(信越線)―群馬県前橋―赤城(泊)という四県にまたがる行程を、木賃宿と野宿でつなぎながら五泊で歩き抜いたというのです。
(但し、御岳〜馬流の間は三里=12kmほど荷馬車に便乗。武者小路・満二十歳、志賀・満二十三歳)

 実際の行程には土地の高低差も関わりますし、山道も現在のルートとは違っていたかと思われますので、正確なことは言えませんが、地図上で見る限り、ゆうに300km 以上はあろうかと思われる道のりです。しかも、山の宿ではまだ「枕元の水が凍っていた」ほど、肌寒い時期のことであったそうです。強い!
(左 図7・志賀と武者小路、徒歩旅行の記念写真。前橋の写真館で撮影。)

 明治人の健脚と言ってしまえば、確かにそれまでかも知れません。例えば、同時代人としては、志賀より一歳年上で岩手生まれの野村胡堂(『銭形平次』シリーズの作者)も、中学生時代には友人と一緒に、秋田県下を一夏巡りまわったといいます。それも、毎日十里(40km)以上のハイペースで…。いちいち人力車を雇ったりする事が贅沢な時代には、健康な若者ならばこの程度は歩けて当然だったのかも知れません。
 だとしても、武者小路と志賀の脚力とペースの早さが、地方で剛健に育った青年らのそれに堂々匹敵するという事実は、注目に値いします。

 付言すると、武者小路自身はいわゆる生粋の公家の血統ではありませんでした。彼には、父方の祖母(「大き祖母さん」と呼ばれた玉浦)と母方の祖母(藤島)から、農民の血が伝わっていたそうです。つまり、実篤の両親は、共に、その家の正妻の子ではないという、同じような境遇にあった人同士だったわけです。
 特に母方の祖母は、本妻となる女性が多少知力が弱いので、その女性につきそって一緒に入ったという、まさに本論前ページ(5)で紹介したケースの典型でした。実篤もその裏事情は知っていましたし、農民の血が自分に流れていることを、むしろ誇りとしていたようです。(注18)

 だからといって、実篤の、実に粘り強い〈歩く〉ことへの〈意志〉は、その血筋だけでは説明できないでしょう。

 徳川時代を通じて、天皇や公家は、原則的には、六キロ四方ほどの〈京(みやこ)〉の空間に縛られた存在でした。彼らは、将軍家に反旗をひるがえさせないための法・〈禁中並公家諸法度〉で拘束され、それに不満があるという表現さえも厳しく抑えられていました。江戸中期頃、竹内式部という人物が少壮公家たちに尊皇思想を鼓吹し、若き桃園天皇にも進講を試みたのですが、それも早速事件として取り沙汰されてしまい(宝暦事件・1757年)、以降、幕府による禁裏周辺の締めつけは、一層厳しくなってしまいました。
 当時、天皇は、例えば自分の父である上皇の病気を見舞う時も、同じ御所内でも住んでいる建物が違うため、わざわざ江戸表に連絡して許可をとらなければ、自由に見舞いにゆくことすら出来なかったといいます。
 一方、公家の生活については、まだ私も勉強不足です。ただ、この時代には、公家の領地も、一部の寺社領を除いては無いことになってしまいました。つまり、公家は、領主貴族ではなくなってしまったのです(これが武士階級や、ヨーロッパ貴族とは大きく違うところです)。ですから、普通は遠くへ出かける口実もなかったでしょうし、もし仮に旅に出る用事が出来たときには、しかるべき事由を所定の役所に届け出ることが厳しく求められたのではないか、と思われます。

 そんな状況に変化が兆したのは、維新の前哨戦、〈公武合体派クーデター・七卿都落事件〉(文久三年・1863年)の辺りからです。
 京(みやこ)に縛られてはいても、また京こそが日本で最も格の高い場所だと信じている公家衆にとって、〈都落ち〉という状況は、たいへんにショックだったはず。ところが、そんな危機を、逆に“活動の自由”というチャンスに転じてしまった人がいます。七卿の一人、東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)です。
 彼は、太宰府に幽閉されていた時期、一人〈東八郎(あずま・はちろう)〉と変名して長崎に赴き、五代友厚の世話で暫く滞在しながら、西洋知識を獲得したのです。

 この時の経験を土台にして、彼は、明治天皇初の外国使臣との謁見の時に伊藤博文らと並んで首席代表として立ち合い、岩倉視察団の一行にも参加して欧米を巡りました。明治二年、北海道の開拓使に二代目長官として赴いた際には、函館の写真師・田本研造の写真技術に接し、記録媒体としての写真の重要性を高く評価する一方で、自分でも趣味として、写真撮影を試みたりしていたということです。(注19)
 〈みやこびと〉にとっては、昔から、東北(みちのく)の白河の関を越えた蝦夷地といえば、恐ろしい蝦夷(えみし)のいる異境というイメージしかありませんでした。でも、東久世通禧という人は、蝦夷地どころか西洋にゆくのも遠しとせず、まして写真の迷信など何のその、だったのでしょう。

 公家社会の構造を揺るがす出来事が、逆に、公家衆の中でも、これまでどこにも活動の場を持てなかった、タフなタイプの者たちを顕在化させるきっかけとなりました。彼らは、これまで足かけ三世紀にわたり、どうしても出来なかったこと──行動半径を積極的に広げたり、自分の力を試すチャンスを、ようやくつかむことが出来たわけです。

 そうしたタイプの公家子弟にとって、他の身分階級の子弟たちと立ち混じって学べる〈学習院〉は、中々に刺激的で面白い場所だったことでしょう。何しろ、自分の父祖たちとはまったく違った大胆な行動をとっても、ちっとも不自然ではないのですから。

 例えば、武者小路実篤の兄・公共(きんとも)も、中等科六年の時には、従兄の甘露寺受長(かんろじ・おさなが)と、四国の徳島まで五十日間の〈こじき旅行〉──正確には、一日一円計画で、様々な宿に頼み込んで泊めてもらいながら歩いた徒歩旅行──を試みて、やり遂げたそうです。(注20)
(右 図8・甘露寺受長。前ページ図6で、前列左端にいた青年。)

 彼らといい、実篤たちといい、まるでバックパッカーのようですが、これもまた、長い束縛から解かれた公家層の行動エネルギーによるものだったと言えましょう。

 さて、オマケとして、武者小路と志賀のエピソードを一つ。
 二人は徒歩旅行した年の9月に東京帝国大学へ進学しましたが(当時は学習院を出れば無試験)、結局、武者小路は、一年で中退してしまいます。なお、志賀も、二年ほどで出席しなくなりました。
 この短い東大生時代にも、武者小路は、やはり徒歩通学を貫き通しました。麹町から本郷の校舎まで歩くのは50分くらいかかったそうですが、彼はどんな雨風の日でも歩き続けました。
 また、午前と午後とで授業にあいだが空くときには、いったん歩いて自宅に帰り、また歩いて往復していたそうです。
 「別に自慢にもならないが、電車の便がいゝ処を一年やり通した処がお慰みだ」
(「白樺を出す迄(二)」『白樺』第九巻一号 大正七年一月)と、のちに彼は述べています。

 こんな徒歩通に、いちじは、志賀もかぶれていました。ただし、志賀の家は麻布三河台で、武者小路の家へ来るまでに、すでに30分はかかる距離。そこから、一緒に東大まで徒歩通をしようとしたのですから…。

 志賀があんまりくるのがおそいので、待ち切れずに出るとあとから志賀が「おーい、武者」「おーい、武者」と走(か)けて来たことも二三度あった。しかし一月もつゞかなかったらう。志賀の処からでは大へんだ。(同上)

 志賀には無茶な徒歩通でしたが、それでもひと月続けたのは、徒歩旅行の経験で、歩くことの面白さにハマッたから?武者小路と一緒に歩くことが、当時の彼には、生活のはり合いとなっていたのかも知れません。

【注記】

注18
 「1.わが家〈4〉父方の血と母方の血」 武者小路実篤『思い出の人々』(講談社 1966年)30〜34頁

注19
 渋谷四郎『北海道写真史〔幕末・明治〕』 (平凡社 1983年)145〜147頁

注20
 武者小路公共「舊友たち」(『心』1961年11月号)187頁
 ちなみに、甘露寺受長は、のちに昭和天皇の養育係となり、侍従として仕えた。

 

【図版】(※無断複写・転載禁止)

図7
 『写真に見る「実篤とその時代 ─ 1 大正期まで─』(調布市武者小路実篤記念館 1999年10月)10頁より引用
 〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕

図8
 日本現代文学全集49『志賀直哉集』(講談社・既出)巻頭写真ページより抜粋引用
 〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕