〈白樺派〉on the street, around 1910's (2003/04/12 up)
第2章 街をゆく白樺派
1.1911年のウィンドウショッピング
2.打ち寄せる時代の波ぎわで

1.1911年のウインドウショッピング

 〈歩く〉ということ。中でも、街(ストリート)を歩くことは、白樺同人たちを強く結びつけました。それは街の発見であり、また同時に、街を歩く自分たちの身体の新しい発見でもあったのです。

 外国には「散歩に出やう」といふ言葉のやうに「見世を見に行かう」といふ言葉があるさうです。買物に行くのとも、唯(ただ)の散歩とも、異(ちが)ふのださうです。一軒々々ショーヰンドウに額をくっつけて鼻息で硝子を曇らせて歩く。品物と正札を見くらべながら或る日無車と高尾と私と銀座から日本橋の裏通りを歩いて日本橋まで、それをして行った事がある。日本橋へ来た時分には大変な贅沢をしたやうな気分になって了(しま)った。私が大島紬の相場を知つたのは此時だつた。(後略)
(『白樺』第二巻第五号 明治四十四年五月)
※無車=武者小路、高尾=正親町公和、私=志賀

 〈見世を見に行く〉──それも、物を買うという目的なしで。いわゆるウインドウショッピングの事ですが、そんな概念は、当時の日本では、まだ目新しいものでした。外国の雑誌からか、それとも洋行した友人からの手紙で知ったのか、ともあれ志賀・武者小路・正親町公和(おおぎまち・きんかず)の三人は、ある日、それがどういう感じのものなのかを確かめるため、銀座へ行ってみることにしたのです。

 〈見世を見に行く〉──例えば、19世紀のパリ市街。「大いなる商品の歌が、色彩にあふれたその詩節を、マドレーヌからサン・ドニ門まで歌いつづける」とは、ワルター・ベンヤミンがパサージュ論の冒頭で引用した、バルザックの文章です(「パリ─十九世紀の首都」・注21。世界の主人公は、王様などではない。市民と〈消費〉そのものなのだ、と、人々が自信を持ち始めた時代のことでした。
 そして、それとほぼ同様の変化が、明治四十四年(1911年)頃のこの時期、東京の銀座や日本橋の商店街にも起こっていたのです。
 パリに路地(パサージュ)が成立したのは、1822年から15年の間。つまり、変化が日本に到達するまでには、約70〜80年ほどかかったということになります。

 銀座から日本橋辺までの賑わいについては、『白樺』とも縁(ゆかり)深い画家・岸田劉生の随想に詳しく語られています。

 私の家の隣には勧工場(かんこうば)があって私たち兄弟は毎日のようにそこへ行った。(中略)勧工場も日露戦争後、デパートメント・ストーアの流行とともにだんだんとすたれて、今は殆(ほとん)どなくなったようだが、当時は少し人出の多い盛り場には必ず一つや二つはあったものだ。(中略)

 誠にこの勧工場というものは、明治時代の感じをあらわす一つの尤(ゆう)なるもので、私どもにとっては忘れられない懐かしいものの一つである。細い一間半(いっけんはん)位の通路の両がわに、玩具(がんぐ)、絵草紙(えぞうし)、文房具、はては箪笥(たんす)、鏡台、漆器類、いろいろのものを売る店があって、品物をならべた「みせだな」の一角に畳一畳位の処(ところ)に店番の人が小さな火鉢(ひばち)や行火(あんか)をかかえてちんまりと座(すわ)って、時分時(じぶんどき)にささやかな箱弁当でも食べていようという光景はとても大正昭和の時代にはふさわない。
(「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」おもいで(一)・注22

 劉生の実家は、西洋目薬〈精キ水(せいきすい)(“キ”は金へんに奇)で有名な、銀座二丁目の〈楽善堂(がくぜんどう)〉という薬屋でした。
 劉生の父・岸田吟香(ぎんこう)は、幕末にジョセフ・ヒコ(アメリカ彦蔵)と協力して日本初の民間新聞を発行したり、外国人医師・ヘボンから目薬の製法を教わるなど、維新期のオールラウンド型文化人でした。ですから、〈楽善堂〉自体、文明開化の象徴のような場所なのですが、またそのそばにあったのが、明治を代表する買い物スポット・〈勧工場〉だったのです。

 〈勧工場〉とは、はじめ、東京府によって設置された、常設の商品陳列所のこと(明治十一年開設)。勧業博覧会に出した直売品や、東京府の産業振興のための産物などがずらりと出品され、しかも正札・掛け値なし。家庭用品ならば何でも一通り揃うのも魅力でした。
 それに、販売方法が、以前とはガラリと変っていました。江戸時代に主流だったのは、店員が、客の求めに応じて、品物をそのつど奥から出して来る〈座売り方式〉。それが、客が買う・買わないにかかわらず、常時品物を店頭に並べておく〈陳列方式〉へと変わったのです。現在ではごく当たり前ですが、当時は、目新しく便利な販売方法として大好評を博しました。

 そんなわけで、勧工場は、最初は皇居近くの〈辰ノ口〉にしか無かったのですが、まもなく民営化され、市内各所に開かれるようになりました。劉生の家のとなりにあったのもその一つでしたし、「一丁目のもとの読売新聞の一、二軒隣に丸十(まるじゅう)、そのすじ向いに丸吉(まるよし)、それから南谷、震災前まであった菊屋のところに小さいのが一つ(これはじきなくなった)、尾張町の今の鳩居堂(きゅうきょどう)のすじ向うあたりに一つ、一丁おいてまた一つ、それから新橋際(ぎわ)の博品館(はくひんかん)(同前)…と、銀座だけでも六、七軒の勧工場がありました。往時の賑わいが偲ばれます。

 ところが、劉生の随筆にもあるように、時は、〈勧工場〉から〈デパートメントストア〉へと移行する端境期。明治三十七年(1904年)の日本橋・三越呉服店を嚆矢として、上野や銀座に店舗を構える呉服屋の大店(おおだな)が、次々と洋風の〈百貨店〉に模様替えをはじめたのです。

 陳列販売は勧工場と同じですが、違うのは、屋台や街頭ではなく、店内で常時陳列されていること。その上、従来の呉服屋では置かなかったような日用雑貨類も一緒に見られる便利さ、プラス、ゆきとどいた接客教育を受けた店員が醸(かも)しだす高級感が支持されて、多くの客を惹きつけるようになりました。

 また、〈百貨店〉では、道側に向けたウィンドウディスプレイにも工夫をこらし、やがて、人々の願望を一歩先取りしたような、お洒落な消費生活の夢をかいま見せてくれるようになりました。
(上 図9・参考:明治四十三年開業、松坂屋・名古屋栄町店のショーウィンドウ)

 そうなると、露天風の勧工場が次々と廃れるのは、自然の勢い。劉生の随筆によると、空き地となった跡は、油絵や水彩画の常設展覧場に変わっていったとのことですが、志賀・武者小路・正親町の三人が銀座の街に繰り出したのは、ちょうど、その時期にあたるわけです。

 〈見世(店)を見に行く〉──〈買う〉という結果ではなく、〈品物を見て歩く〉という行為自体を目的として出かけること──。
 それは、志賀たちにとって、かつて、内田魯庵が『罪と罰』のラスコリニコフのせりふに、「考える事を為(し)ている」という一節を発見した時と同じくらい、斬新な発想に感じられたに違いありません。

 単に、〈商品を(“売り物”であるにもかかわらず)見ることを楽しむ〉という点だけでいえば、都市に住む人々は、そんなことは、勧工場の時代から充分に満喫していたことでしょう。そして、それは、ショーウィンドウの時代になっても同じこと。別に、自分たちのしている事に、どういう呼び名や理屈がつけられなくとも、人々は即座に、いちばん今風で楽しいスポットに集まって、ウィンドウを眺めながらの散策を楽しんでいたに違いありません。

 しかし、白樺の三人の場合は、それとはちょっと異なります。〈見世を見に行かう〉という言葉に、わざわざ自分たちを当てはめに行ったのですから。

 その当時の年齢は、武者小路が満二十六歳、志賀二十八歳。正親町などは、もうじき三十になろうかという歳です。それぞれに口ひげも生やし、明治時代としては皆充分“いい年齢(とし)”と言われる年頃の男たち。それが、おそらく着流しにステッキで──卒業して学習院の制服規則に縛られなくなった白樺同人は、洋装好きの郡虎彦以外、普段はたいてい和服だったとのことです──、「シヨーヰンドウに額をくっつけて鼻息で硝子を曇らせて」歩くというのです。

 

 “品物と正札を見くらべながら”というのは、実は、ウィンドウショッピング本来の楽しみからはチョット外れているような気もします。(別に、値段を確かめることが目的ではないのですから。)でも、一銭も使わずに、街を何区画か歩いただけで「日本橋へ来た時分には大変な贅沢をしたやうな気分になって了(しま)ったというのですから、彼らにとっては、まずまず満足な試みだったのでしょう。ユーモラスな表現からは、“西洋では、こんな事が楽しいのかな?”という不思議感と、物好きにもそれをわざわざやってみている自分たちに対する滑稽感とが、二重になって伝わって来ます。
図10・11・12 明治四十五年一月、新年会の写真より。街歩きの記事から約八ヶ月後の三人)

2.打ち寄せる時代の波ぎわで

 さて、こうして、若き日の白樺同人の足跡をたどって来てみると、気づくことが、一つあります。
 それは、彼らの思い出の場所や、思い出にまつわる事物が、いずれも、大きな時代の変化の波にさらされた所(または物)だったことです。

 日本の〈近代化〉あるいは〈西洋化〉という点では、維新直後から明治期半ばまでにも、街は様々に変容を遂げていました。
 例えば、読んで字の如くの植物庭園だった〈花屋敷〉が、明治十八年にイギリス風の庭園として生まれ変わり、次第に珍物の展示場としての性格を強めていったり…。運転しづらい木製の二輪車や三輪車でも、とにかく〈自転車〉というものが少しずつ開港地を走るようになったり…。江戸時代の〈お店(たな)〉が、〈勧工場〉風の形式にとって変わられるというのも、同様の変化だったといえましょう。

 そうした変化を第一波とすると、1900年前後の変化は、それよりもさらに大きな第二波でした。

 花屋敷近くのパノラマ館が、〈ルナパーク〉に。もう、珍しいものは、ただ“見るだけ”ではなくなりました。触れたり、乗ったり、その中で遊ぶことができるのです。
 異国の、ヘンな形の乗り物だった自転車は、ゴムタイヤ製で快適な乗り心地の〈安全型〉に…。ハイカラではあるし、行動半径は広がるし、持っていると人がうらやむような乗り物になりました。
 “毎日が屋台店”のようだった勧工場は、大きな店構えで、洒落た品物が各階にずらりと並ぶ〈デパートメントストア〉に、次第にとって代わられてゆき…。

 そしてまた、この時期の変化の特徴は、〈西洋化〉といっても、もうすでに都会の人々には、維新直後ほど違和感を覚えるようなものではなくなっていたという点です。
 それは、例えば、西洋でのゴムタイヤ開発と、日本での国産ゴムタイヤの実用化との間に5年ほどしかインターバルがなかった事などに、顕著に象徴されています。
 よその世界から(または、日本の都市周縁部や山村部から)客観的に見れば、それは、明らかに西洋追随型の変化かも知れない。しかし、日本の、大きな市街に住む人々の感性は、とっくに〈西洋〉を吸収していて(個人差はあったでしょうが)、それらの変化は、“自分たちの願望そのものが、自分たちの力で実現した姿なのだ”と錯覚さえしていたことでしょう。激しく変化が起こっている場所は、確かに、まだまだ都市の中でも限られたスポットに過ぎませんでしたが、それでも、その変わりようは、旧幕時代の痕跡を忘れさせるのに充分なものでした。

 そして、白樺同人の思い出にまつわる事物や、思い出の場所は、いずれも、その第二波の変化が押し寄せ、今まさに様相(すがた)を変えた/変えつつある、最前線だったのです。

 でも、変わっていったのは、街だけではありません。

 例えば、先の街歩きの三人、それぞれの背景を見てみましょう。
 志賀直哉は、相馬藩(福島県)の家令・志賀直道の孫にあたります。しかも、直道は、幕末に疲弊した相馬藩の財政建て直しのために、その経済手腕(二宮尊徳の直弟子でした)を買われて家令に取り立てられた人。本来は、一藩士という軽輩の身分に過ぎませんでした。
 また、せっかく家令に抜擢(ばってき)されても、藩が疲弊しきっていたため、俸給は月額25円と、立場からすればあまりに少額。明治十六年に直哉が生まれた頃は、まだ直道の妻が、自家製の味噌やドブロクを売って家計の足しにしていた程でした。志賀家が裕福となったのは、明治二十六年に、直道の息子・直温(なおはる ※直哉の父)が、実業家となって鉄道事業に参画してからのことです。

 また、正親町公和は、公家の中でも家格の高い、堂上(とうしょう)公家(※内裏の清涼殿・殿上間まで入れる資格のある家柄)の家系に生まれました。彼の曾祖父の実徳(さねあつ)・祖父の公菫(きんただ)は、共に反幕府運動に積極的に関わり、謹慎処分を受けても屈しませんでした。
 特に公菫は、戊辰戦争の時には、二十九歳で東征大総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王の参謀に抜擢、さらに奥州追討総督に任じられ、実際に各地を転戦した人物。東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)などとは少し別種ながら、やはり、公家の中ではきわめてアクティブなタイプの人であったといえましょう。

 そして、武者小路実篤の家系では、祖父の実建(さねたけ)・伯父の公香(きんか)の二人が、正親町実徳らと同じく、尊皇派の活動家でした。ただし、武者小路家は代々和歌で奉仕した家柄ですから、正親町家ほど身分は高くありません。
 しかし、階層は下の方でも、実建の息子・実世(実篤の父)が公家華族の子弟の中で屈指の秀才だったことは、周囲の誰もが認めざるを得ませんでした。事実、彼は、明治初期に、家柄華族の留学生らがあまりにも頼りなく、次々帰国させられる中で、滞在期間を延長して学ぶ事を許された、数少ない一人だったのです。それほどまでに将来を嘱望(しょくぼう)された実世でしたが、若くして肺病にたおれ、遺された家族が苦しい生活を強いられたことは、先に述べた通りです。

 このような事実のフィルターを重ねて見ると、これが四、五十年前ならば、こうした出自の者同士が、〈友だち〉として巡り会う事は、おそらく、絶対にあり得なかっただろうということに気づかされます。

 同じ公家でも、正親町家と武者小路家の間には、厳然とした身分差がありました。ですから、京都御所を中心としたヒエラルキーがそのままの形で続いていたならば、正親町家の子息と武者小路家の子息が対等の友人づきあいをすることなど、まず考えられない事です。
 公家同士でさえそうなのですから、まして、みちのく・相馬藩の一藩士など、京の公家衆とは、一生無縁の人生を送ったことでしょう。また、もし仮に、彼ら三人が幕末に(つまり彼らの祖父の時代に)生をうけ、人生が交錯していたとしたら、奥州追討総督の正親町と相馬藩の志賀は、状況如何によっては、仇敵同士として相まみえなければならなかったかも知れません。

 そんな彼らがめぐり合い、〈無車〉〈志賀〉〈正親(オーギ)〉と愛称で呼び捨てしあう同士となったのは、何といっても、明治に〈華族〉という新階級が編成され、同時に、〈学習院〉という新たな教育の場が設定されたから。しかも、そこが、新華族(勲功華族)や新興ブルジョアジーの子弟をどんどん吸収していた時期だったからです。その上、“皇族以外”は建前上すべて平等というのが、この学校の教育方針でした。

 彼らの意識には、父母・祖父母の代から受け継がれた、様々な生活習慣や過去の物語(藩史や家系史、身分序列など)が刻み込まれていたことでしょう。そして、学習院生の中でも、そうした〈過去〉にこだわりやプライドを持ち続けた者は少なくないと思われます。
 でも、そんな内心のこだわりなど、いったん、教室の中で、旧来とはまったく異なる、地方・身分“混ぜこぜ”関係の中に置かれてしまえば、表向きにはほとんど意味をなさなくなってしまいます。
 それに、とりわけ、白樺同人となった若者たちは、むしろ積極的に、“そんなものは消失してしまってもいい”という方向を選び取った者たちだったと言えるでしょう。 

 かくて、近世以前から脈々と受け継がれてきた歴史の流れは、彼らのところで、いったん消失してしまいます。彼ら自身もまた、彼らが歩いていた〈街角〉と同じように、過渡的な存在だったのです。

【注記】

注21
 ワルター・ベンヤミン「パリ──十九世紀の首都」(1935年)
 『ボードレール 新編増補』 編集解説 川村二郎・野村修(ヴァルター・ベンヤミン著作集6 晶文社 1975年)11頁

注22
 岸田劉生「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」(1927年 初出・東京日日新聞)
 『岸田劉生随筆集』酒井忠康・編 (岩波文庫31-151-1 1996年)13〜16頁

 

【図版】(※無断複写・転載禁止)

図9
 松坂屋(HP)「松坂屋「ひと・こと・もの」がたり─歴史の中の松坂屋」より引用
 http://www.matsuzakaya.co.jp/corporate/history/meiji/img/043.gif

図10・11・12
 『1910年、『白樺』創刊』(調布市武者小路実篤記念館・既出)22頁 〈白樺新年会 明治45年1月5日〉より抜粋引用…図5に同じ
 〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕