〈白樺派〉on the street, around 1910's (2003/04/12 up)
第2章 街をゆく白樺派
3.行き先を見失った身体

3.行き先を見失った身体

 明治十年の創立から約三十年間、学習院が目指して来た教育目標は、大きく言えば二つでした。
 一つは〈上は王室を翼戴し、下は万民の自由を保護〉する階級を育てる事。 そしてもう一つは、〈自ら忠魂義胆に富める第二の国民を作り出す〉事だったのです。

 まず、第一の目標について。その起原は、明治七年二月の〈華族会館建設趣意書〉(注23)にあります。

 夫(それ)華族は国民中貴重の地位に居り、坐ながら爵禄を辱し無比の 聖恩を荷ふ、これ何の故を以て然るや、其(その)然る所以を知らざるべからず、

 西洋文明の諸国に於ても亦貴族あり殊に英国の如きは許多(いくた)の貴族あって諸料の学術を研窮し「パレルメント」に会同し、立法の権を分有し、上は王室を翼戴(よくさい)し下は万民の自由を保護し、国を振起する皆貴族の職務たり。此の職あるが故に帝王の寵遇を受くるも当たれりと言うべし。

 現今我国華族の如き、概して言へば皆(みな)徒手素餐(としゅすさん)(ごう)も国家に裨益あることなし。士族平民の上に位すと雖も、其平生を省るに慚汗(ざんかん)(ながるる)が如く恐悚の至に堪えず。

 我輩(わがはい)才駑識劣(さいどしきれつ)なりと雖(いえど)も、自今発奮勉励して、諸君と共に集会を催し、書籍館を建造し、博学多識実著有名の人に就き、諸科の学術其他華族の責任とすべき事を講窮し、智識を拡充せんと欲す

 維新以来毎次華族へ勅諭あり、就中(なかんづく)辛未年(※明治四年) 勅諭に云く、特に華族は国民中貴重の地位に居り、衆庶の矚目する所なれば、其履行固より(もとより)標準となり、一層勤勉の力を致し率先して之を鼓舞せざるべけんや、其責たるや重し、(後略)
(※原文はカタカナ漢字交じり文・濁点なし。段落分け・改行・太字は引用者)

 〈華族会館〉。これは、東京に集められたばかりの〈華族〉たちが、まだ“孤立散居”して何のまとまりもなかった時に、その中のほんの十数名が、はじめて、自分たちが〈華族〉であるという自覚に基づき設立した集会所のこと。〈学習院〉の母体でもあります。

 上記の文を読むとわかるように、新しい〈華族〉たちは、外国の貴族像の中に、これまでの自分たちとの共通点や、理想を探し求めようと一生懸命でした。
 …王侯たちに仕えて、特権に守られてきたという点では、自分たちは西洋貴族と一緒だ。しかし、これまでの我々は、その保護寵遇に見合うだけの〈責任〉を果たしていない。…端的にいえば、それが、この時点での、上の趣意書を奏した人々の“自己発見”でした。

 注目すべきなのは、この文章では、華族の責任は帝王(天皇)に対してだけ生ずるものではなく、“士族平民”に対しても恥ずかしいことなのだ、という認識が明らかに見られることでしょう。自分たちの究極の存在意義は皇室のためかも知れない。しかし「衆庶の矚目する所なれば、…」以下の箇所からもわかるように、彼らは、下の階級からの批判のまなざしを、むしろ、当然あるべきものとして、あらかじめ想定しています。
 それまで、公家だ、大名だ、諸藩の重臣だ、という風にバラバラに存在していた特権階級を“われわれ”として一括りに考えたのもこれが初めてならば、その“われわれ”を批判する“衆庶”のまなざしを彼らが意識したのも、まさにこの時が初めてでしょう。その意味では、この文章は画期的なものだったと言えます。

 そして〈学習院〉は、そうした反省意識の一環として、国と民、双方の要請に応えられる人材を育てるために設立されたのでした。

 なお、この宣言(マニフェスト)を草した発起人メンバーは、
○正親町公菫(きんただ)・五条為栄・壬生基脩・平松時厚・秋月種樹・河鰭実文・山内豊誠(以上、華族通ギ社 ※ギの字は「疑」のへんの方に欠)
○中山忠能(ただやす)・松平慶永・嵯峨実愛・大原重徳・中御門経之・伊達宗城・池田慶徳(以上、麝香間同志会)
の2グループで、それを岩倉具視が一つに取りまとめたのでした。
 この中の正親町公菫は、先述したように、白樺派の正親町公和・実慶(さねよし)兄弟の祖父。さらにつけ加えれば、公菫は正親町家に養子に入った人で、実の父親は、麝香間同志会の筆頭・中山忠能でした。正親町兄弟と園池公致とは従兄弟同士なので、中山忠能は、彼らに共通の曾祖父ということになるわけです。

 さて、第二の目標がたてられたのは、第一の目標からちょうど二十年後のこと。 時は明治二十七年、日清の国交断絶が決定的となった頃で、当時の学習院長は田中光顕でした。

 同年一月田中院長は特に教官に諭告を発して時局に善処せんことを求め、この際一層勉励奮起して自ら忠魂義胆に富める第二の国民を作り出すの大任を負ひ、以て義勇奉公の実を挙ぐるを期すべきこと(中略)を告ぐ。
(注24)(※太字は引用者)

 〈第二の国民〉。田中院長にとって、この表現は、切迫した状況の中で、思わず口をついた比喩だったかも知れません。
 でも、この〈第二の国民〉こそ、実は、この時期以降の学習院のコンセプトを端的に言い表している言葉だといえます。
 上に立つ者としての自覚を持つだけではない。その階級の在り方そのものが、一般の人々に〈忠義の国民〉というイメージを浸透させてゆく際の規範となるような集団。…初めて〈国際情勢〉の中での緊迫した状況を目の当たりにして、田中光顕に限らず、国家の枢要を担う人々は、華族や有産階級の子弟たちが、そのような〈第二の国民(セカンド・ネーション)〉の役割を果たすようになってくれるよう、切に望んだのでしょう。

 ただ、この新たな目標は、〈高貴な階級の自覚〉という第一の目標を含み込みながらも、目指す方向が“皇室及び衆庶のため”から“国家安寧のために〈国民〉を教導するように”へと、微妙にシフトチェンジしてしまっています。しかし、戦争という現実を目前に控えている状態では、それもごく当然と受けとめられた事と思われます。

 かくして、日清戦争以降、学習院の学生たちは、〈第二の国民〉という目的のために特化されて育てられることとなりました。行軍の演習が盛んとなり、戦闘に耐えられる持久力が養成されるようになったのもこの頃からです。ちなみに、明治二十七年と言えば、例えば、白樺同人の年長組・志賀直哉の入学時から数えて五年後です。
 しっかり覚え込むことを“身につける”といいますが、彼らはその意味では文字通り、西洋の基礎教養からスポーツの能力、洋装での立ち居ふるまい(制服はもちろんのこと、軍服、騎馬、大礼服等を前提とした動きとマナー)まで、その身体に刻印されるように教育されました。 彼らの前の世代である父・祖父たちとは、完全に別なものに造りかえられたと言っても、過言ではありません。

 ところが、そのように造りかえられた中で、とりわけ、知力にも行動力にも優れている者たちの間から、〈王室の翼戴〉も〈忠魂義胆〉もいっさい動機として持たない……もっと言えば、意志的に持とうとしない者たちが、何人もあらわれてしまいました。
 そんな者たちの中の一グループが、『白樺』同人だったのです。

 このような、一見、奇妙な事態が生じてしまった背景には、実は、大きな偶然も一つ作用していました。

 学習院は当初から、華族の全員就学を目指していたので(これは、江戸時代、貧しい下級公家などは就学出来なかったという事情に因ります)、当然ながら、寄宿制度にも力を入れていました。教育の徹底という面からいっても、それは、重要な問題だと考えられていました。
 そして明治二十一年には、ついに、華族就学令に基づいて、中等科以上の生徒は全員寄宿舎に入舎する事に定められたのです。(注25)

 ところが、明治二十七年六月二十日の大地震で、本校舎は潰れてしまいました。学習院としては、やむなく、比較的被害の少なかった寄宿舎の方に教室を移さざるを得なくなってしまったのです。
 寄宿制度は、なしくずしに自然消滅しました。あとはわずかに、遠隔地から来た生徒のために、幾つかの個人的な寄宿舎が細々と続くのみとなりました。柳宗悦や郡虎彦が身を寄せていた〈桃園町の神田乃武(かんだ・ないぶ)邸〉などは、こうした個人寄宿舎の一つだったのでしょう。

 一方で、肝心の新寄宿舎も、財政問題などから建築予定地が二転三転して、再建計画はかなり難航しました。結局、新寄宿舎が実際に落成したのは、明治も四十一年になってから。乃木希典が院長となった一年後のことです。(注26)
 そのようなわけで、結局、それまでの間、学習院生は、出自階級や家庭とのつながりを色濃く残したまま、院の目指す教育を施されてゆくこととなってしまいました。

 言わば、のちに〈白樺派〉を形成した十数名の学習院生たちは、学生に対する院の影響力が相対的に弱まった十四年程の間に、新教育の内容と社会からの影響を、めいめい独自勝手に吸収して自己を構築した、一種の〈鬼子(おにご)〉たちだったのです。

 ただ、彼らにとって不幸だったのは、自己構築した異能異才を〈国のため君(天皇)のため〉に捧げる事に反発する自我に目覚めた時には、すでに自分自身が、何らかの葛藤なしには、〈家(イエ)〉にも周囲の社会にも帰属し直す事の出来ない存在になってしまっていたということでしょう。
 前の章でも述べたように、彼らは、それぞれのイエが背負ってきた歴史さえ、リセットする/されるという方向性で教育されてきました。そんな彼らは、人生のモデルさえ、もう父祖の時代の偉人などでは満足できず、世界的な思想家や芸術家の中に探し求めてゆくしかありませんでした。それほどまでに、彼ら自身、精神も身体も、あらかじめ“観念化”されて育てられてしまっていたのです。

 かくて、特権階級である己れの在り方に対して初めて高度な批判精神を持ち得た者の子孫たちと、旧体制の階級の下部から高い能力をもって勃興してきた者の子孫たちとが、同じように自己イメージをいったん喪う事となりました。

 “多数派VS異分子”の孤独ではない。それぞれが皆少しずつ、しかし、いちじるしく違うことの、奇妙な孤独と賑やかさ。
 友だちが“変わってる”ことを発見する。でも同時に、自分がこんなに“変わってる”ことも、そのつど発見したことでしょう。造り変えられた存在である彼らにとっては、友だちだけでなく、まず自分自身が、どんな可能性を秘めているかわからない・周囲にモデルのいない、未知の対象だったはずです。白樺派の人たちの文中に時おり出てくる〈生長〉や〈十人十色〉等のことばには、そうした自分たちへの“不思議”な気分が込められているように思えます。

 そして、そんな彼らは、いつしか〈道〉を歩くことに時を費やすようになります。
 〈道〉は、どこかとどこかをつなぐ空間。そして、果てしなく先へとつながり、今の自分の知らない何かに出会わせてくれる空間でもあります。何処にも帰属できない、どこに行こうとしているのか、何が出来るのかわからない彼らが、そうした〈道〉の上で共に時を費やしているという姿は、ある意味では、実に象徴的な光景だったと言えましょう。

【注記】

注23
 『開校五十年記念 学習院史』(既出)31〜32頁

注24
 同前 133頁

注25
 当時の寄宿舎入舎規定に依ると、入舎し得べきものは華族生徒で、幼年舎は満十四歳以下、青年は満十四歳以上の者とされた。 ただし、華族以外の生徒でも、品行端正・学術優等で他生の模範となるべき者は、保証人の願いがあれば、特に入舎を許すこととした。 (同前 267頁)

注26
 明治四十一年からは、寄宿舎全入制がほぼ完全に復活した。それだけではなく、新院長の乃木希典自身が、〈厳父慈母の如く〉に学生と寝食を共にするようになった。
 また、その頃から、教育の目標も〈聖恩に報い奉る〉という点にほぼ一元化され、同時に、一時は華族と同数近くまで入学許可されていた士族平民も、その半数に押さえられるようになってしまった。
 つまり、それ以前の、放任主義的な院長たち(近衛篤麿など)の時代は、白樺同人のようなタイプの青年たちも野放図に育つことが出来る余地があったが、そうした一種の呑気な環境は、この時を境に失われてしまったのである。