〈白樺派〉on the street, around 1910's (2003/04/12
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第2章 街をゆく白樺派
4.カフェーなき東京の路地をゆく
5.東京15区バリアフリー
4.カフェーなき東京の路地をゆく
彼らが街をもっぱら“歩き回って”いたのには、もう一つ理由があります。 パサージュは、街路と室内の中間物である。(中略)遊民は、市民が自宅の四方の壁の中に住むように、家々の正面と正面のあいだに住む。かれにとっては、商店のきらきらと光る看板が、市民にとっての客間の油絵と同じもの、それ以上のもの、壁の装飾なのであり、家の壁が書斎の机であって、かれはかれのメモ帳をそこに押しあてる。新聞売りの屋台がかれの書庫、喫茶店のテラスがかれの出窓だ。 〈カフェー〉は、飲食店というより、ヨーロッパの市民社会においては一種の社交場。人々はコーヒー一杯で、新聞を読んだり、仲間とボードゲームに興じたり、何時間くつろいでいても追い立てられることは(まず滅多に)ありません。まさしく、誰でも自由に出入り出来る、街路に向かって開かれた書斎か客間のようなものです。現在でも、その伝統は受け継がれています。 でも、日本では、現代でさえ、そこまでくつろげる喫茶店を探すのは至難の業。まして、1800年代から1910年頃までは、東京にも〈カフェー〉はおろか、現代の〈喫茶店〉に似たものすら、ほとんどありませんでした。 記録上で最も古い本格喫茶は、明治二十一年(1888年)に上野・西黒門町に誕生した〈可否茶館〉。イギリスのコーヒーハウスにならい、ビリヤード台もクリケット場も備え、手紙を書く客のために文房室まであるという、超西洋式の店でした。でも、当時としてはあまりに高級すぎて日本人は馴染めず、わずか四年で閉店してしまいました。ちなみに、明治二十一年といえば、武者小路がやっと満三歳。未来の白樺派はまだほとんどボーヤかヨチヨチ歩きで、柳宗悦や郡虎彦などは生まれていない時期のことです。 その後、明治二十六年以降は、菓子屋・パン屋が喫茶室を併設するようになります。風月堂や、あんパンの木村屋などですが、その頃の〈コーヒー〉は、今のコーヒーとはまったく違うもの。「コーヒーというのは角砂糖の中に入れてある豆のこげたもののことだった」(岸田劉生「新古細句銀座通」)。異国風のお菓子と一緒にいただく、珍しい風味の甘苦い飲み物、といったところだったようです(あるいは、お菓子がわりに、角砂糖ごとボリボリ食べる人もいたかも?)。これでは、出されるものが違うだけで、従来の甘味処とあまり変わりはありません。 コーヒーを飲める店がサロン代わりにもなる、といえば、やはり、〈メイゾン鴻の巣〉(日本橋小網町)がその先駆けでしょう。開店は明治四十三年、これも奇しくも『白樺』創刊の年です。 『白樺』創刊前後といえば、同人らは学生か、学校を出てもまだ“部屋住み(寄食者)”。家計は、家長か家令が管理しており、小遣い銭も自由にならない時期です。パリの遊民(フラヌール)のように、街なかの書斎兼サロンにひたり込む事もままなりません。そこで、彼らが自然と編み出したのが、“しゃべり続けるためにひたすら歩く”という方法でした。 とも/\、芝居、席亭(よせ)、死物生物の買ひものなどにも出かけたが、大部分の時間は街上で過ごされた。実によく歩いた。またその頃の東京には、歩く価値(ねうち)のある町々が沢山あった。今さら挙げてみたところで、死んだ子の年で仕様もないから、京橋、日本橋両区の南部、深川、浅草、ぐらゐの大雑把(おおざっぱ)なことにして置かう。麹町は、その頃でも十何年と住みついた土地、四谷、赤坂、牛込は居周(ゐまは)り、麻布には、志賀、九里(※九里四郎・画家)、柳などがゐたからしよっちう出かけるし、本郷は学校の関係で、上野は、──と云った具合だから、十五区も格別広しとせず、それも好んで歩くのだから、道を知ってゐることにかけては俥夫(くるまや)も同然だった。 友人を家に送りながらしゃべり歩き、家の手前で立ち話をし、別れかねてまた自家の方に逆戻り…を、夜更けまで延々とくり返す。時には、話を続けたいばかりに送り道からさえそれて、再び〈横町、裏通りへと切れ込み…〉、〈歩き〉そのものへとはまり込んでゆく。この時期の彼らにとって、仲間とのコミュニケーションと、ひたすら“歩く”という運動性とは、渾然一体となっていたのです。 ガラス張りの天蓋の下、色とりどりの大理石の歩廊を行き、ふと立ち寄ったカフェーで友と談笑する。そんな、パリの遊民(フラヌール)の小粋さとは無縁だったかも知れません。でも、パサージュのような、洒落た舞台装置が用意されていなかった分だけ、かえって彼らは、自分たちの行動に制限をまるで考えず、自由に歩き回ることが出来たのでしょう。 |
ここで気にかかるのが、その当時の、他の華族や上流階級のこと。彼らは、東京のどのエリアに住んでいて、どのくらい行動半径が広かったのでしょうか。 タキエ・スギヤマ・リブラ著『近代日本の上流階級─華族のエスノグラフィー─』(2000年)によると、現在の旧華族の住居は、港区・渋谷区・目黒区・世田谷区・新宿区の五区に集中しているそうです。 これらの地区の特徴は、皇居から見て、すべて南西方面に位置していること。しかも、戦前の〈東京15区〉時代には、この傾向はもっと顕著で、華族の居住区は主に港区の麻布・赤坂に集中していました。 そして、リブラ氏の聞き取り調査によりますと、戦前の華族の生活行動範囲は、ほとんど、自分たちの居住区に限定されていたそうです。 この人の両親ばかりではありません。買い物等で下町方面に用事があっても、実際に行くのは、たいてい使用人たちばかり。たまたま近所に外出する時でさえ、必ず数名のお付きが随行するか、運転手が護衛を兼ねて、馬車や自家用車で送り迎えをする。それが、一般の華族の生活でした。外界との接触は、極力制限されていたのです。 もちろん、行動範囲の広さには男女差も関係します。それに、職務によっては、外国も遠しとせずに、世界中を駆けめぐった人も少なくありません。でも、「今に至るまで、上流山の手人の中には、欧米の町には慣れ親しんでいても、下町の中心部には行ったことがないという人もある」のも事実とか。「そう、浅草はニューヨークより遠かった」というのも、決して大げさな感慨ではないようです。(前掲書75頁) ところが、なぜか、そのような生活様式は、白樺派のどの作品や回想記をとっても、かけらも見られません。白樺同人の回想と、リブラ氏の調査結果とが、あまりにもかけ離れてしまっているので、彼らが、先の“大名出身の父親”と同世代か少し上なのだという事も、にわかには信じ難いほどです。(注29) これが、白樺派独特の特徴なのか、それとも、明治二〜三十年当時には、行動面で自由度の高い上流階級がある程度いたのか。その点については、まだ詳(つまび)らかではありません。 東京市の塵埃を焼き捨てゝいる原で、四十五六の男の乞食が独りでわけの解らない踊りを踊って居た。堤防に腰かけてそれを眺めて居る私たちの他(ほか)にも、いかにも深川の住人らしい若い者が二三人立って見て居た。その一人が甚(おそろ)しく利(き)いた風な顔をして乞食をヒヤかして居た。「ウム、てエしたもんだ。どうも見受けた所が藤間のやうだネ」などゝ。その意地の悪い毒舌を、乞食の方では又、どこを風が吹くかと云ふ風に受け流して居る。で、若者は段々あせって来た。 時は明治四十三年の四〜五月頃、里見の回想に基づく一情景です。どうやら、深川の若い衆たちにとっては、すぐそばで堤防に腰かけている〈私たち〉(里見と志賀がモデル)の方は、踊る浮浪者ほどにも目をひく存在ではなかったようです。それほどに、その場所で、彼らの佇まい(たたずまい)はさり気なかったのでしょう。 また、正親町実慶(おおぎまち・さねよし)(筆名・日下 言念(くさか・しん))は、いちじ、浅草芝居のとりこになります。 浅草は何時行って見ても面白い、先日雨村(うそん)(=田中雨村 ※白樺同人)とあすこの芝居を見た、桜田騒動盛忠美談と云ふやうなものであった、 其の他、他の劇場では見られない程見物の感激や、奮慨や、涕泣やを見る事が出来る、 其の後又源さん(=下村元行 ※友人の一人)と二人で行った時は新派劇をやってゐた其の時は席もない程の大入だった。 源さんは私(ひそ)かに僕の袂を引いて、「八犬伝あたりがたゝってゐるのだね──と私語(ささや)いた、何が祟ってゐるにしろ、今時かう云ふ空気の中に入れるのだから愉快な事だ。だから浅草歩きはやめられない。 “八犬伝(勧善懲悪もの)あたりがたたっているのだね”とささやく下村元行、「なにが祟ってゐるにしろ、今時かう云ふ空気の中に入れるのだから愉快な事だ。だから浅草歩きはやめられない」と考える正親町実慶。彼らは、表層意識的には、この面白さは、明治人の自分たちと浅草芝居との、時代感覚のギャップから来るものだと思っているようです。 でも、多分、感性の接点は、もっと深いところにあるのでしょう。 その他、白樺の仲間うちでは、木下利玄が、噺家のものまねや歌舞伎の声色(こわいろ)を得意芸としていました。園池公致も落語好きで、三升亭小勝(みますや・こかつ)の大ファンを任じていたということですし、その点では志賀や里見も人後におちません。 東京の北東部に位置する浅草などの〈下町〉は、皇居(江戸城)から見ると、ちょうど艮(=丑寅 うしとら)の方角。いわゆる鬼門(きもん)に当たります。 天皇が江戸城に入る時も、明治新政府は、江戸の町の構造自体は、そっくりそのまま受け継ぎました。特に風水をかついだとは思われませんが、いずれにしろ、徳川家の家臣の屋敷跡や藩邸の空いたあとに、京都等の全国から移住してきた華族たちが入れるのですから、非常に好都合だったわけです。 なのに、華族以外の階級を多く加えてしまった事に、時代のちょっとした偶然も作用して、およそ、従来のどの階級のパターンにも当てはまり切らない子が育った。誰にも似ない子どもたちは、まさに鬼子よろしく、鬼門だろうと裏鬼門だろうと、平気でずかずか歩きまわるようになりました。 学習院生は、身分出自に限らず、皇族と同級になった場合には〈ご学友〉として平等に宮中に招待される慣例でした。そのような立場として育てられた者が、自分の生活文化圏の外に対する恐れを拭い去ってしまった時、彼にとって東京十五区内に心理的障壁(バリア)はまったく存在しないということになります。彼らは、どこにでもゆけるのです。 |
【注記】
注27
ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」
『ボードレール 新編増補』(既出)71頁
注29
参考のため、リブラ氏に対する情報提供者の主な〈属性〉を以下に掲げる。
回答者─101名(平均年齢63歳、最年少24歳、最高齢81歳)
○公爵5名・侯爵5名・伯爵18名・子爵32名・男爵40名・無回答1名
○先祖…皇族2名・公家19名・大名32名・勲功華族43名・その他5名
タキエ・スギヤマ・リブラ『近代日本の上流階級 ─華族のエスノグラフィー─』
竹内洋・海部優子・井上義和訳(世界思想社 2000年)40頁
(※原著は1993年発表)
注30
田中雨村(1888〜1966) 本名・田中治之助(はるのすけ)
里見・正親町実慶らと同学年の『麥』同人。非華族。『白樺』では初期のみ寄稿、まもなく実業界に入る。しかし、『白樺』同人との交友はその後も続いた。その一方で、仕事の傍ら、若い頃から愛好した歌沢などの邦楽研究も続けていた。
後に、英十三(はなぶさ・じゅうざ)のペンネームで小唄を作詞。邦楽評論家として、NHKラジオの邦楽番組でも解説を担当した。
【図版】(※無断複写・転載禁止)
図13
カフェーパウリスタ(HP)「コーヒー物語」より引用
http://www.paulista.co.jp/story/story02.html