〈白樺派〉on the street, around 1910's (2003/04/12
up)
第2章 街をゆく白樺派
6.越境する青年(ユーゲント)たち
街が変わる。 「ユーゲント様式は実は、技術に攻囲された象牙の塔に立てこもる芸術の、最後の出撃の試みなのだ」(ベンヤミン 注31)。 一方、近世までの日本には、“国(または社会)は、いかにあるべきか”といった、観念的な思想を持つ資産家階級というものは、存在しませんでした。 彼らは、おそらくは、ヨーロッパの〈遊民(フラヌール)〉よりもはるかに積極的に街に出て、変わりゆく町々の猥雑なエネルギーまでもを、貪欲に吸収してゆきました。 その大きな例といえば、やはり、〈白樺美術展〉。 そんな中で、〈白樺社〉は初めて、“自分たちの本当に見たいものを見る展覧会”という、情報発信的なコンセプトを前面に打ち出したのです。 有島壬生馬と南薫造の滞欧展覧会(於・上野竹ノ台二号館)は、仲間とその友だちの、努力の成果を公開する会でありました。と同時に、その彼らが海外から持ち帰ったヴァン・ダイクやベラスケスの模写、マネ、ルノアール、ドガの作品の写真など、珍しい生資料を、より多くの人に見てもらうための会でもありました。 この試みは成功し、特に、彼らと同世代の、新しい芸術の方向を模索する若者たちに、強烈なインパクトを与えました。〈白樺主催美術展〉は恒例となり、明治四十五年以降には、京都でもしばしば開催するようになりました。彼らは、〈東京〉というエリアの壁も越えていったのです。 街に出て、街でエネルギーをチャージし、街の新しいあり方をデザインしてゆくのがユーゲントシュティールなのだとしたら、〈白樺派〉もまさしく、その出発点においては、日本のユーゲントシュティールであったと言うことが出来るでしょう。 しかし〈世間〉は相変わらず、『白樺』同人について、〈放恣な特権階級の子弟〉というイメージを再生産し続けていました。 此の頃朝日新聞に「バーとホール」と云ふ見出しでカフェープランタンやライオンの事が出てゐた。 次に正親町公和と来ると頭に伯爵嗣子と云ふ四字を頂いて現はれてゐる。本人は之れを見て「かう云ふ風に広告に使はれるのだからやりきれない、」とこぼしてゐた。 其の終りの方には「白樺の若殿原は御小遣はあり余るし」と云ふやうな事が書いてあった、いづくんぞ知らん梅ヶ枝の手水鉢でも叩きたい位なのが多いのである。上流とか貴族とか云ふと直に金の遣い道に苦しみ、美しい女には飽き/\して居るやうな事を書く、それでないと貴族でないやうに思ってゐる人があるらしい、だから社会主義も起るのだ。 四民平等が謳われても、相変わらず“自分たちは、社会の最上層となる事からは疎外されている”と感じている“はず”の〈大衆〉層。それが、マスメディアが考える、いわゆる〈大衆〉なるものでした。その情緒にマスメディアが訴えるためには、〈白樺の若殿〉たちのイメージは、是非とも、ハイカラなレストランに腰を落ち着けて、贅沢な飲み食いにうつつを抜かしている図でなければならなかったのでしょう。その意味では、ゴシップ欄が華族子弟のスキャンダルで埋められる度ごとに、それに憤慨する(であろう)〈大衆〉なるものの像も、捏造(つく)り上げられていったのだと言えます。 先日自分が鴻の巣に行った時「文学者でどんな連中がよく来る?」と女中に聞くと「白樺の方などがよく見えます」と教えて呉れた。白樺では自分などは二番目位によく鴻の巣へ行く方だから変な気がした。 多分、その女中(ウエィトレス)さんは、目の前にいるその人が、『白樺』の志賀直哉なのだという事には一つも気づかずに応対していたのでしょう。志賀も、それで「変な気」がしたのでしょう。 この志賀の一文は、先の日下の文章の一ヶ月後に掲載されたものです。思うに、その女性も、“新聞にのっていた”から、文学の話をする紳士然とした人たちを見ると、“ああ、あの人たちがそれか”と、漠然と思いこむようになったのでしょう。 “銀のサジを持って生まれた”者たちはこうもあろうかという幻想(デリュージョン)。マスメディアによって作られる都市伝説。ジャーナリスト、研究者、そして多くの人が、いつの間にか共有してしまう、その幻想。 でも、本当のところをいうと、〈六号〉の中の彼らは、そんな事には一向に頓着していません。 浅草を歩いてゐると色々の事にぶっつかる。つい先頃三友館の前で絵看板を見てゐると「おぢさん何見てゐるの?」と突然何処の児だか可愛い娘ッ子が自分の袖にもつれて来た。「お前は何処から来たんだい」と聞いてみると「私?私は中村と云ふの」「お前の名前かえ、それは、」「なについそこの銘酒屋にゐるのよ何んか買っておくれよ」「おれ金なんか持ってゐない」、「そんなこと云はないでさあ、何んでもいゝから買っておくれよ」と益々ヅウ/\しい。 自分もフット面白くなって「ぢゃ俺について来い」といって先に立って十二階の下の方へ行く後からちょこ/\くっついて来る。そこに豆を売ってゐたからこれ買ってやろかと云ったら「あゝそれでもいゝの」と云ふから買ってやったらよろこんで其紙袋を懐にしまっておいて、すぐ筋向ふの志るこやを指さして「あそこでおだんごを食べよふ」と又袖をひいてせがむ。 「もうおあしなんか有りゃしない」と云ふと「またあんなことを云ってゐるよ」と丸るで年とった女の様なことを云ふ。
とう/\又其処で志るこを喰って門を出ると「おぢさん、さやうなら」と云ってちょこ/\花やしきの方へ行ってしまつた。何処かへ連れて行って色々のことを聞いてやらうと思ってゐたら、当がはづれてがっかりした。 書き手の〈浅草通行人〉は誰か、つまびらかではありません。ただ、言えるのは、彼らの中の誰もが、下町の子にとって、懐(なつ)っこく声をかけてみたくなる〈おぢさん〉であり得たということです。 華族のお坊っちゃまは、小綺麗な衣装に身を包み、常にゴージャスな場所に現れる。そう思いこんでいる人々にとっては、彼らはいつまでも〈見えない〉存在です。ただ、通俗的な先入観を刷り込まれ切らない子供の眼にだけは、“見知らないけれど、したしげな人”として見える、と言うと何やら童話めきますが、真相はそれに近いのです。 それに、いずれ〈庶民〉であれ〈大衆〉であれ、前の世代とまったく違う感性や身体を獲得してしまう者たちは、華族以外の人々のあいだにも、否応なく増えつつあったのです。 先にふれた、明治十四年の体操課改正(体育の西洋化)にしても、それは学習院の中だけの変革ではありませんでした。その方針は、当時の〈教育大綱〉に添う形で打ち出されたのですし、大綱を布達したのは文部省でした。 例えば、岸田劉生。銀座のまん中で、ストリートからのエネルギーを浴びて育った彼は、いつしか、勧工場跡の常設展覧所の油絵をしみじみ見入る少年から、洋画研究所へも足を運び、画家に憧れる青年へと変わってゆきました。一方で、キリスト教の伝道者になりたいという志望も断ちがたく、キリストの生涯を絵にする仕事に就ければと思うなど、模索の時期はしばらく続きました。 例えば、高村光太郎。父の光雲(こううん)は生粋の下町生まれで、仏像職人からスタートしながら、独学で創作彫刻家となった人。東京美術学校にも教師として招聘されました。そんな家庭環境から、光太郎も、ごく当然のように彫刻家を目指しました。しかし、米欧留学を契機に芸術観は一変。帰国後は、父との価値観の断絶に苦しみながら、〈パンの会〉のデカダンスに身を投じてゆきました。 また、南薫造の生まれは、広島の一村落(現・豊田郡安浦町)。たまたま実家が医業を営み、比較的ゆとりがあったため、東京の美術学校も進学できましたし、渡欧する機会にも恵まれました。 そのような者たちにとって、さまざまな〈芸術〉観を紹介してくれるだけでなく、表現形式・創作の発表方法まで大胆に試行錯誤して見せてくれる『白樺』は、まさに着想の宝庫のように感じられたことでしょう。いつしか〈白樺派〉は、彼ら自身も気づかぬうちに、〈自己〉を社会に開く突破方法を、他の若者に先んじて素描する役割を担っていたのです。その一点において、彼らは、彼らを必要とする〈読者〉たちと、いつも共に在りました。 柳「六号記事に南君がちつとも出て来ないね」 彼らは、〈南君〉の側へと、いともたやすく越境して来ます。そして、おそらくは、何度も彼らにどしかけられたであろう〈南君〉の表情が、迷惑な一方であったとは、どうしても想像することが出来ないのです。 (了) |
【注記】
注31
『ベンヤミン著作集6 ボードレール』新編増補(既出)21頁
注32
「国に居る南君から来た手紙」より
「編輯室にて」 『白樺』第二巻第二号(明治四十四年二月)154頁
【図版】(※無断複写・転載禁止)
図14
『写真に見る「実篤とその時代」─ 1 大正期まで─』(調布市武者小路実篤記念館・既出)17頁
〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕
図15
細馬宏通・浅草十二階計画(HP)「十二階と絵葉書」より引用 明治四三年二月の雑踏(2)
http://www.12kai.com/12kai/m43win-2.html