〈白樺派〉on the street, around 1910's (2003/04/12 up)
第1章 造りかえられた身体
3.華族と〈スポーツ〉

3.華族と〈スポーツ〉

 ヨーロッパでは、スポーツと“高貴”さとは、切っても切れない密接な関係にありました。ヨーロッパ貴族は元々〈王〉に仕える〈諸侯〉であり、そのために、理念としての騎士道(chivalry)が重んじられていたからです。
 騎士たちは、武術や繰馬術などの戦闘訓練を行って体を鍛えましたが、やがて戦乱の時代が過ぎると、その訓練は実戦と切り離されて、〈スポーツ〉競技と化しました。しかし、その後も、それらは「真正の」貴族的な肉体と人格を形成してくれる趣味として、貴族階級に奨励され続けたのです。そして、その貴族階級とは、〈王族〉を含みこんでいました。

 特に、英国貴族は、個人競技をことのほか好んだそうです。なぜなら、個人競技は自分の記録がすべてを決するので、相手が王や王族だったとしても手加減はききませんし、また仮にそんなことをしたら、すぐに審判や観客にわかってしまうからです。〈我々真正の貴族は、決して、王にへつらうためにわざと負けて見せたりはしない。正々堂々と戦うのだ〉ということが、彼らの最大の誇りでした。

 そういう〈スポーツ〉の理念を、日本の〈華族〉階級もまた、次第に理解するようになりました。

 その理由はいくつかありますが、最大の理由は、日本にも〈武士階級〉があり、その精神文化も存在したからでしょう。
 例えば、日本にも〈武士道〉がありました。武士道のストイシズムと騎士道とに共通点があることは、明治の初期からすでに指摘されていました。そして忘れてはならないのは、こうした〈武士道〉的発想は、芝居や語り物などを通じて武士以外の階級(特に庶民)にも広がっていたということです。
 また、身体能力を高める〈武芸〉も、武芸百般といわれるくらい、たくさん存在しました。ちなみに、江戸時代に〈芸術〉といえば、それは武芸・武術のことを指したぐらいです。
 こうした幾つかの接点を通して、日本人は、ヨーロッパ貴族の理念や生きざまを、自分たちの相似形として捉えることができたのでしょう。

 加えて、日本人にとって目覚ましい新知識は、〈スポーツ〉には国際大会があるという事でした。
 江戸時代には、家臣が殿様の前で御前試合、という程度のことはあったのですが、そもそも競争・受賞などという発想そのものが少なかった。しかし、スポーツの大会といえばそんな小さい規模のものではない、地域から選ばれ、国の代表となり、さらには、大会での勝利が国の名誉になる事も知ったのです。そうした現実的な認識を通じて、明治の人々は、次第にスポーツの重要性をみとめるようになりました。特に華族は、〈皇室の藩屏(はんぺい)(=皇室を守る直接の諸侯)として、国の名誉を担い、スポーツで国際的に活躍することに意義を感ずるようになったのです。

 ところが、そこで、ではスポーツを〈華族〉階級全体に奨励しようとしても、そこには、乗り越えがたい、大きな現実の壁が立ちはだかっていました。
 それは、端的に言うと、〈貴人〉の体力の問題です。

 まず、〈貴人〉には、育てられ方の違いという問題がありました。

 そもそも、もと公家の家系の人々は、自分自身が戦闘する状況なんて、普通は思い及ばぬこと(例外的に、幕末や維新期、戦いに加わった人たちが居たことは居ましたが)。戦いだけではなく、日常生活でも、肉体を使って働いたり歩き回ったりするのは下々の者のする事とされ、身分が高くなるに比例して、体を動かす機会も少なくなるのは、当然のことと考えられていました。

 また、武士階級にしても、いわゆる大名家と、それ以下の家臣や家来たちとでは、体の鍛練に対する発想が大きく違いました。
 比較的安定が続いた江戸時代とはいっても、一般の武士には、一応〈治にありて乱を忘れず〉──つまり、“いざという時には主人を守って闘う”という建前がありましたので、武術などの鍛練は広く行われていました。一つには、運が良ければ、武術指南役(つまりインストラクター)として出世する可能性もあったからです。

 ところが、同じ武士でも、〈大名〉は、「殿」と呼ばれて仕えられる身分。もし武芸が得意なら、それはそれで“結構な事”でしたが、何がなんでも体を鍛えねばならぬ、という発想にはなりません。
 それどころか、反対に、万が一非常事態になったとしても、そんな時に重鎮たる〈殿様〉が変に武術など振りまわし、血気にはやって真っ先かけるなど、決してあってはならない事だと考えられていました。王将がバタバタと動いてはいけないのです。(ですから、もし、「暴れん坊将軍」のようなタイプの将軍や大名が江戸時代に本当にいたとしたら、とっくの昔にその地位から引きずりおろされ、しかも誰一人反対しなかったでしょう!)
 こうした感覚は、“人の上に立つ士大夫(したいふ)は鷹揚(おうよう)にゆったりと構えているものだ”という儒教的価値観のゆえでしょう。儒教でなくとも、いったいに、東洋の文化圏では、身分の高い人は体を鍛えることに積極的でなかったように思われます。

 加えて、婚姻と遺伝の問題も見逃すことはできません。

 身分の高い家柄同士で行う婚姻は、どうしても、対象が家格・血縁によって限られがちでした。すると、長い年月の間には、遺伝の素質も偏ってしまいがちになります。
 その上、深窓で、体力も養うことなく育てられた若様とお姫様との間で、しかも婚姻年齢も低く…と言えば、健康な子供など、本当は期待する方が無理。元気ならそれこそ、天からの授かりものでした。

 近代以前に遺伝学などはありませんでしたが、貴人に仕える人々は、経験則として、婚姻と出産にまつわる危険性を充分承知していました。
 だからこそ、例えば、虚弱な姫君の婚礼の時には、賢く健康な侍女を何人もつけ、侍女が殿様の子を産んだら、形式上は正室の子という事にして…等々、少しでも健康な世継ぎが生まれるように、あらゆる手だてをとっていたわけです。このやり方は、大名だけではなく、多少とも身分のある公家や武家の間では広く行われていました。
 また、世継ぎがいても、その子があまりにひ弱(よわ)だったり、知力に問題があったりすれば、傍系の一族から養子を迎えることも普通に行われていました。
 封建制の社会では、何がなんでも血統重視だったように誤解されていますが、皆、〈イエ〉の存続のために、ある程度はドライに割り切って、合理的な方策をとっていたのです。今の方が、その点かえって、少し異常なまでにDNA重視の世の中になりつつあるといえましょう。

 ただ、それでも、依然として〈高貴な血筋〉〈正統な家柄〉を誇る人々はいましたし、またそんな人々の方が得てして虚弱だったのも、まぎれもない事実。近代に入り、日本でも、西洋並みに“皇室のために身を挺する”ための階級=〈華族〉を作り上げようとしたのですが、そもそも〈貴人〉たちが寄りあつまって、そんな事が出来るかどうか…。
 とりわけヨーロッパと事情が異なるのは、公家と大名家が“家柄華族”となったのに対して、一般の武士は“士族”、つまり“平民”たちと同様に非華族だったことです。体力的にも、忠誠心や才覚の面でも、一番あてになるはずの層が、華族の中には入っていなかったのです。(もちろん、維新の時に功績があれば、下士族でも“勲功華族”に叙せられましたし、その後も、武功・経済の両面で、勲功華族は増えてはゆきましたが。)
 そんなわけで、当初、その前途は、まったく心もとないものでしかありませんでした。

 明治十四年九月の学習院〈高等科〉学則規定(注17)の、「兵事に志望なき、或は身體虚弱武事に堪へざる生徒を導き」云々という箇所は、そうした華族子弟に関する裏事情を、まさに、ストレートに反映したものだったのです。

 このような背景があったからこそ、学習院では、同時代の他のどの学校よりも、スポーツが重視されていたのでした。

 まず最初に本腰を入れたのが、明治十四年九月の、学則改正の時注17参照)。この時、それまでの〈陸軍体操法〉に加えて、いわゆる〈体育〉課目を大幅に取り入れました。
 普通学科(今の小学課程)には、〈遊技〉〈徒手運動〉〈器械運動〉を。
 実学科(中学〜高校にあたる士官養成課程)には〈器械体操〉を。
 そして高等科(実学科と並立)には、〈器械体操〉〈馬術〉〈撃剣〉を導入したのです。

 その後も、主に、四谷に学習院があった時期(明治二十四〜四十年)のことですが、皇太子(大正天皇)の行啓には、ほとんど必ず、〈遊泳〉〈端艇(ボート)〉〈撃剣会〉〈運動会〉等の体育行事の日が選ばれていました。これには、明治天皇の、“体育御奨励の思召”の影響もあったのだろうと思われます。
 こうした時代に、ほぼぴたりと、〈白樺派〉世代の幼少年期から卒業期までが重なっていたのです。

(上 図6・参考:明治三十三年、ボートレースの優勝写真  後列左端・志賀直哉 中等科五年の春)

 こうした観点だけから見れば、志賀や里見、園池らの回想は、まさしく学習院教育の〈成功例〉を示すものだったと言えましょう。
 また、彼らの回想からは、〈華族と非華族〉もしくは〈公家と士族平民〉の子供たちが仲良く交流する上で、スポーツが重要な役割を果たしていたという事も読みとれます。

 でも、教育の〈落とし穴〉は、良き成果が、必ずしも、育てた側にとって、都合のよい結果をもたらすわけではないところにあります。

 戦闘の能力にも、精神修養にも直接結びつかない、運動それ自体としての遊技(re-creation)性。従来の武道とはまったく質を異にした、“とんだりはねたり”する能力。当時の最先端の〈スポーツ〉に親しんだ彼らは、知らず知らずのうちに、前世代が作り上げた〈社会〉機構のどこにも組み込むことが出来ない身体を獲得してしまうこととなったのです。

 さて、次も、スポーツと白樺派のお話を、もう少し続けてゆきましょう。
 今度は、運動がニガテな方の人たちの事について…。


【注記】

注17
 『開校五十年記念 学習院史』(学習院 1928年)235頁

【図版】

図6
 日本現代文学全集49『志賀直哉集』(講談社・既出)巻頭写真ページより引用
 〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕
 なお、この時のボートレースが、行幸・行啓の際に行われたものかどうかは不詳。