〈白樺派〉on the street, around 1910's (2003/04/12 up)
第1章 造りかえられた身体
1.異装者(かぶきもの)の運動選手・志賀
2.ラケットを抱えた園池公致
1.異装者(かぶきもの)の運動選手・志賀 それでは、まずは、彼らの身体(しんたい)について──。 “どんな身体を持って”なんて、奇妙な言い方に聞こえるでしょうか? さて、白樺同人の中で、西洋式スポーツの申し子といえば、何といっても志賀直哉が筆頭です。 志賀は、自作「濁った頭」(明治四十四年)の主人公に、冒頭でこう語らせています。 また、“志賀のポール・ジャンプ(棒高跳び)”といえば、学習院では知らぬものがないほど有名でした。明治三十年代(1900年代)当時、10フィート5インチ(約3m17cm)を跳んでいたのですが(注7)、実はこの記録、時代背景を考えると、相当なレコードなのです。 当時、棒高跳びという競技は、ちょうど最初の転換期を迎えていました。 さて、話を戻しますと、志賀が学習院の中等科・高等科にいた1895〜1906年(明治二十八〜三十九年)頃は、まだ世界記録でも、ようやく4メートルに達したかどうかというところ。彼の3メートル17センチという記録も、実はそれが、学習院にあったハイジャンプで計れる最上限だったからなのだそうです。 志賀のジャンプは、スタイルこそ今の基準から見れば変則ですが、高さもあり、滞空時間も長かったのだとか。もし、国際大会並みの用具と計測条件さえ整っていたら、記録ももっと伸びていた可能性があります。 こんな風に、運動だけでも目立っていた志賀ですが、さらにその存在を際だたせていたのが、身なり風体。 明治三十年代のその頃から、時にはランニングシャツ姿、つまり今のスポーツ選手と同じスタイルだったというのです! 辰野(隆) ──志賀さんのことは学習院でポール・ジャンプをやっておられたことをよく憶えてるんだ。志賀さん、土屋兄弟というのがジャンパーでね。兄さんの土屋正直氏が東大仏文科出身で僕等の先輩ですよ。 ここで一寸説明が必要ですが、戦前の学校では、男子の体操着には特に決まりがないのが普通でした。要は体が動かしやすければ、とのことだったのですが、通学服との着回しも考慮すると、だいたいシャツは通学服兼用のカッターシャツかメリヤスシャツ、下は綿の半ズボンか長ズボンというところに落ち着いていたようです(注9)。 そんな時代でしたから、体操の時どんな服装をしようと、志賀の格好は“校則違反”ではありませんでした。先生たちに注意されたという回想が全くないのは、そのためです。 でも、まだ、テレビのように、世界の最新ファッションを始終宣伝するメディアなどない時代に、日本の学生の誰もやっていないような格好でグラウンドに出て人目にさらされるなんて、気おくれするのが普通だと思うのですが、それをサラリとやってのけるのが、志賀の志賀たる所以(ゆえん)。この点、彼は、天性の異装者(かぶきもの)だったようです。 さて、上の鼎談の続きで、志賀は「スパイクは穿かなかった。ほかの人が足袋はだしだろう?危ないと思って遠慮しちゃった…ほかの人に怪我させちゃ悪いと思ってね」と語っています。なかなかに、ニクい発言ではあります。 |
でも、ハイカラなスポーツが得意だったのは、志賀直哉だけではありません。『白樺』創刊当初からのメンバーで、いちじは編集も担当した園池公致(そのいけ・きんゆき)も、その一人でした。 この園池公致という人物、『初期白樺派文学集』(筑摩書房『明治文学全集』第76巻)をはじめ、紹介記事はすべて“幼少の頃から病弱で…”云々となっていますが、実は、決してそんなことはありません。 例えば、前章にも出ていた「ラックロス」(=ラクロス)。これは、〈クロス〉という、先に網のついた独特の形をしたスティックを使ってボールをやりとりし、ゴールに入れる球技のことです。(最近では、『猫の恩がえし』というアニメの中で、主人公の少女・ハルが、ラクロスのスティックで猫を助けるシーンがありましたね。) カナダの国技でもあるこのラクロス、もともと北米ネイティブ・アメリカンの格闘技から発展しただけあって、かなり激しいスポーツ。特に男子ラクロスの場合、クロスで相手にプレッシャーをかけても良いため、まるでラグビーやアイスホッケーのような趣きがあるとか。ボールまわしもスピーディで、ボールの瞬間速度が時には時速160kmにも達するため、「地上最速のスポーツ」という別名もあるくらいです。 これと同じ対談中、柳は、「運動は志賀の棒高跳、それから園池の競争。園池は早かったよ。」とも語っています。つまり、志賀と並んで連想されるほど、ランナー・園池の活躍もめざましいものだっただろうという事の、一つの証(あか)しでしょう(注11)。 では、家庭では?というと、彼の家では、明治の半ばというのに、何と、自宅の庭にテニスコートがあったらしいのです。 〈其頃〉というのは中等科二、三年頃(明治三十四〜五年)。園池十五〜六歳、里見十三〜四歳頃の思い出です。 友だちと、自宅のテニスコートで過ごす休日…なんて、今聞いても、とてもお洒落(しゃれ)に響きますね。 ただし、だからといって、今のテニスクラブのような本格コートを想像してしまっては、かえってリアリティから遠ざかってしまうでしょう。なぜなら、この当時、学校の体育を通じて広まっていたのは、ゴムボールを使ったソフトテニスだからです。 それに、園池家は、公家出身の子爵家。〈家柄華族〉のランク(公爵・侯爵・伯爵・子爵の4ランクのみ。勲功華族だと、この下に男爵が加わる)の中では一番下の方ですので、決して裕福な方とは言えません。非華族でも実業家の志賀家や有島家が、旧大名家をもしのぐような豊かな資産を持っているのと比べれば、園池家は、当時の東京の中流市民よりはまずまず余裕の感じられるお屋敷…、というくらいではなかったでしょうか。 とはいえ、ここで注目すべきなのは、何と言っても、テニスコートのために自宅(別荘などではなく)の〈庭〉のスペースを割いてしまうという、大胆な家屋のコンセプトの変更です。 これと好対照なのが、志賀直哉の草稿に残る回想(注13)。彼が運動にばかり夢中になっていた頃、父親があまりに庭を大切にする事が不満で、ある時、父が怒るのを承知の上で、無断で庭に石灰のラインをひいてテニスをした、というのです。 直哉と父・直温(なおはる)の不和は有名ですが、多分この時も、後で父親にひどく叱られたでしょうし、庭でテニスが出来たのも、この一回限りだったことでしょう。でも当時は、直温の感覚の方が、トラディショナルで、一般的だったと思われます。
園池の新しもの好きな一面を、もう一つ。 〈自転車〉という乗り物は、幕末の開港直後からすでに日本に入っていたのですが、最初は車輪が木製(スチールフレーム)でした。ガタツキがひどいため、よほどの好事家が趣味で乗るか、商店の小僧さんなどが足がわりに使うのがせいぜいでした。 その自転車のお値段、国産だと、〈安全型自転車〉が55〜110円(明治二十九年)。一方、輸入自転車はというと、〈デイトン〉という車種が160円(志賀直哉「自転車」)。また、“コロンビヤ社の新車では中古車の下取り価格80円プラス100円、ランブラー社の新車は別の店で下取り価格プラス60円”(志賀直哉「大津順吉」草稿・第三篇)だったとか。「十円あれば一人一ヶ月の生活費になった時代の話」(「自転車」)です。 つまり、今の感覚で言えば、自転車はまるで自家用車か大型オートバイのような高価な品。そういう時期に志賀直哉は、“外車”を買っていたわけです(ただし一応、彼なりに、下取り制を利用するなどしてヤリクリしていますが…)。 そして公致も、自転車を買ってもらえたのがよほど嬉しかったのでしょう。ある日、同僚の内豎(ないじゅ)の少年と示し合わせ、自転車でそっと皇居をぬけ出し、当時空き地だった皇居前を、ぐるぐる自転車競争して回ったというのです。 二人とも遊び度い盛りでともに自転車に夢中であった時分で、ある日曜の午後、その日当番のIと、明け番で退出する筈の私とは、しめし合せて自転車を連ね阪下門から外へ出てしまった。 園池は侍従詰所に戻ったところを見つかって、侍従から「昔なれば切腹だゾ」とカンカンに怒られる破目(はめ)となったのですが、彼自身は“自分の方はもう非番で責任はないのだし”と、内心ケロリと受け流していたようです。こうなると、活発で茶目なところは、里見や志賀に負けず劣らずだったといえましょう。 思春期には、悩み多き青年…だったことは間違いない園池公致ですが、生来のキャラクターを含めて、これから相当、イメージ修正が必要な人物のようです。 白樺派の少・青年期のエピソードと、様々な体育や遊具の〈はじめて〉話とが密接に絡み合っている有り様は、まるで“スポーツはじめて物語”さながらですね。 |
【注記】
注7
「お好み風流鼎談」(志賀直哉・広津和郎・辰野隆) 『世界春秋』1950年1月号 『志賀直哉対話集』(大和書房 1969年)219頁
注8
参考:読売新聞(HP) 五輪学(9)鳥人たちの天使の杖
http://www.yomiuri.co.jp/sydney/goringaku/gorin09.htm
参考:JSTバーチャル科学館(HP) いちばん高くとべる棒はなあに?
http://jvsc.jst.go.jp/find/sports/s04_gear/g1_his/h00_fr.htm
注9
参考:テイコク株式会社(トンボ学生服)(HP) Uniform Museum
http://www.fcc.co.jp/teikoku/un_rekishi_f.html
注10
「学習院時代を語る」(対談 志賀直哉・細川護立・武者小路実篤・園池公致・柳宗悦・里見弓享・長与善郎)
『心』(生成会・平凡社 1956年1月号)59頁
注11
園池自身も、明治四十五年の『驢馬(ろば)』という小品(『白樺』第3巻第1号)の冒頭部で、学校を休むようになった時のきっかけを、“自分は運動家の方だったが、秋の運動会のランニングの練習の時に体をこわし、さらに運動会後、大学の来賓競争に向けて無理をしたため、練習中に倒れてしまった”と記している。この作品は一応フィクションという形をとっているが、この冒頭部については、他の資料とあわせて見ても、園池自身の経験だったと推定される。
注12
「伊吾」に対する思ひ出」 『新潮』第27巻第1号(1917年7月)27頁
注13
草稿「死ね死ね」〔「和解」「或る男、其姉の死」に関連〕『志賀直哉全集』第2巻(岩波書店 1973年)584頁
注14
園池の役割は、侍従職の中でも、維新以前に内豎(ないじゅ)と呼ばれていた職務。主に、御内儀(奥の、皇后及び女官たちのエリア)と表御座所(執務をとり行うエリア)とをつなぐ連絡係などをうけもった。
「明治宮廷の思い出」園池公致 『世界』(1956年9月号)178頁
注15
日本自動車百年史(HP)第1章 前史 第4節 国産自転車の始まり(後編)
http://www.st.rim.or.jp/~iwat/zenshi-4/zenshi-4.html
Copyright ゥ 1995-2001 / Kikuo Iwatate
注16
「明治のお小姓 ─続明治宮廷の思い出─」園池公致 『心』(1958年6月号)60頁
【図版】(※無断複写・転載禁止)
図3
日本現代文学全集49『志賀直哉集』(講談社 1960年)巻頭写真ページより引用
〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕
図4
テイコク株式会社(トンボ学生服)(HP) Uniform Museum(注9に同じ)より引用
図5
『1910年、『白樺』創刊』(調布市武者小路実篤記念館 2000年4月)22頁 〈白樺新年会 明治45年1月5日 神田みやこにて〉より抜粋引用
〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕