〈白樺派〉On The Street, around 1910's

written by 銀の星 (2003/04/12 up)

序章
1.ローラースケートを履いた里見 弓享?
2.〈六号掲示板〉は大にぎわい──初期『白樺』六号活字欄

 

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序章

 それでは、最初に迷い込む小径は…。
 それは、明治四十年代前後の東京。まだ、広さも、15区の範囲までしかなかった頃のことです。

 明治四十年代…三十八年に漱石が「我輩は猫である」でデビューしたばかりで、世は岩野泡鳴・正宗白鳥など、自然主義全盛期。与謝野晶子が人気歌人で、女学生はハカマにリボン…。国産初のガソリン車が完成し…、けれども、まだまだ、人力車と電車が同居していた時代。
 

 そう、〈大正〉といえば〈モダニズム〉なのに比べて、〈明治〉の末頃は、ハイカラ風と和風のどっちつかずのイメージ。街並みも、まだ、江戸時代風の瓦葺きの家々の間に、洋風建築が点在しているといった感じでした。言わば、〈和〉から〈洋〉への、中途半端なモーフィング(morphing)の時代のように思われがちです。

 でも、そんな時代に、ほら…。もうすでに、ローラースケートにのって駆け回っている青年がいます。しかも、当時最新の〈遊園地〉の中を…。
 青年の名前は山内英夫。“電話帳をめくって、自分で適当にこしらえた”というペンネームは〈里見 弓享(とん)〉です。
 時は明治四十五年(1912)の二月。というと、その頃は、白樺社主催〈ロダン展〉の真っ最中だったはずなのですが…。


1.ローラースケートを履いた里見 弓享?

○伊吾事(こと)里見はルナパークのローラー・スケートへ早起きして出掛けながら、遂に「起き番」は一度も仕なかった。若い者にあるまぢき事なり不感服々々々。(志)
○ローラー・スケートは中々面白い。まだやったことのない方へ御勧めします。(伊)

(『白樺』第三巻第三号「編輯室にて」)

 ここで〈伊吾(いご)〉というのは、白樺同人の間での里見 弓享(とん)の愛称。そして(志)とは、その親友の志賀直哉です。

 明治四十五年のローラースケート…?
 多分、現代の人々にとっては、〈ローラースケート〉といえば、どんなに古くとも第二次大戦後、日本がアメリカナイズされてからの風俗だ、というイメージが強いでしょう。それが、今から90年ほども前にすでに日本に伝わっていたというのも意外なら、わざわざそれを滑りに出かけたのが里見 弓享というのも、もっと意外ではないでしょうか。
 現在、里見 弓享と言えば、残念ながら忘れられかけた小説家となってしまっています。たとえ多少は思い出されることがあるとしても、代表作は『多情仏心』など、タイトル的にクラシック。明治から昭和の半ばまでの長きにわたって活躍し、〈小説家の小さん〉と称された矍鑠(かくしゃく)たる老作家…。となれば、そうした〈里見 弓享〉のイメージに、ローラースケートで颯爽と駆けまわる若者の姿を重ねるのは、かなり難しいかも知れません。

 でも、この当時、里見はまだ二十三、四歳。それに、彼が生まれ育った有島家も、とりわけ欧化教育には積極的な資産家でした。
 父親の武(たけし)は横浜税関長を経て日本郵船監査役・日本鉄道会社専務も務めた人で、もとはと言えば、幕末に薩摩藩から単身上京して(十七歳)、刻苦勉励の末、立身した努力の人。横浜税関長以前の、若き大蔵省官吏だった時期には、遣欧使節の随員にもなりました。その経験から洋学の必要性を痛感したのでしょう、横浜在住中には、幼い息子や娘たちを山手の外国人宅に通わせ、特別に英語を習わせたりしました。長男の武郎(たけお)、次男の壬生馬(みぶま・のちの生馬(いくま))を相次いで海外留学させたことも、よく知られた話です。
 そうした雰囲気の家庭の中で、里見は生い立ちました。それも、五男二女の中の四男坊という、比較的呑気な立場で。となれば、そんな青年が、ローラースケートのために早起きするほど新しもの好きだったとしても、特に不思議はないわけです。

 それでは、いっぽう、〈ルナパーク〉とは?
 それは、明治四十三年(1910)に浅草に創設された〈浅草ルナパーク〉を前身とする遊園地でした。浅草六区の〈花やしき〉近く、日本パノラマ館の跡地に、アメリカの遊園地・コニーアイランドの中の同名の施設(1903年開園)を模して作られた、日本初のアーバンリゾート型遊園地だったのです(注1)
(左 図1・明治四十年の浅草公園。右上部分が浅草寺。左下の赤丸で囲んだ所がパノラマ館、のちにルナパークとなる場所)

(右 図2・ルナパークのポスター)
 乗り物としては、メリーゴーランドや最新の模擬飛行機が備えつけられていたということです。また、夜間照明も工夫され、〈光と影〉の彩(あや)なす世界が一つの売り物でした。浅草といえば、もともと見世物小屋が盛んで、幕末・維新期にはいちはやく写真油絵が見世にかかるなど、珍物で有名な場所。でも、ルナパークは、珍しいものに実際に乗って遊べたり、最新の(電飾などの)テクノロジーを目の当たりにできたり…と、それまでとは一味ちがう、“動き”のあるスポットに仕上がっていたと言えるでしょう。
 残念ながら開園の翌年、失火で全焼してしまいましたが、そのまた翌年の明治四十五年には〈東京ルナパーク〉が開園したとのことで(注2)、里見が遊びにいったのはこちらでしょう。もしかすると、その時の新しい呼び物が、ローラースケートだったのかも知れません(注3)


 なお、スポーツとしてのローラースケートは、明治三十六年(1903)に日本体育会が導入したのがはじまりですが、一般に広まるには時間がかかり、子供たちの間でローラースケートが流行したのは大正二年(1913)とのこと(注4)。里見の記事から約一年後です。里見 弓享は、“最新系”の遊びを真っ先にキャッチした、敏感なアンテナの持ち主だったというわけです。

 これだけでも、逸話としては意外性がありますが、この記事のさらに面白いところは、それが白樺第四回展覧会、いわゆる〈ロダン展〉の最中だったという点でしょう(明治四十五年二月十六〜二十五日、於・赤坂区溜池三会堂)

 『白樺』の初期、同人たちに最もエキサイティングだった出来事は、オーギュスト・ロダンから、小さな三体のブロンズ像をプレゼントされた事でした。当時、いくら皆でロダンを熱烈に尊敬し、『白樺』のロダン特集号を郵送・贈呈したとはいえ、世界的な彫刻の巨匠から、極東の島国の名もない青年たちに、オリジナルの銅像が届くなんて思いもよらない大事件! 白樺第四回展覧会は、いわば、その像をお披露目するための美術展でした。
 そして、さきの文中の〈起き番〉とは、会期中、朝九時前に会場に行き、ロダンから贈られた大切な三体の彫刻を、夜間のしまい場所であるトランクから出して、展示台に並べる大事な役のことでした。同人たちは、交代でこれにあたったのです。

 その真っ最中に、「明日と明後日とは少し都合が悪い…朝早く起きてルナパークへスケーティングをしに行くんだ」(『白樺』・同前)なんて理由で〈起き番〉をしない同人がいるのも呑気なら、他の同人たちにしても、別に、それを非難している様子もありません。
 そもそも、先の引用部の直前では、里見の方が、“いつも寝坊の志賀が、「起き番」を二タ朝もやった。ここに大書してその労を賞す。感服感服”と、五つも年上の志賀をからかっているのです。そこで志賀は、お返しに里見のサボリをスッパ抜いて、一矢むくいたというわけです。

2.〈六号掲示板〉は大にぎわい ─初期『白樺』六号活字欄─

 こんな風に、『白樺』初期(主に創刊から四年目まで)の六号活字欄(※本文より小さい活字で組んだ欄。以降〈六号〉と略)では、同人たちの近況報告や、展覧会等のイベントにおける楽屋話などが、バラエティ豊かに繰り広げられていました。ここは、誌面の中でも、自由な別空間。同人たちが、作家としてでも、美術研究者としてでもなく、もっと自分の生地(きじ)に近いスタンスで気負わずにおしゃべりする。そんな、独立した表現コーナーだったのです。

 この〈六号〉欄の大きな特徴は、署名も、いわゆるペンネームとは違っていたことにあります。 本名や、小説を書く時の筆名も使ってはいますが、たいていは〈ム〉(武者小路)〈志〉(志賀)などの略名です。もっとに面白いのは、〈日本武夫(ひのもとたけお)の息子〉〈土耳古(トルコ)の隠居〉〈番頭朝寝坊八〉など、一回きりの滑稽な匿名も数え切れないほど用いられていること。一人が一回の〈六号〉の中で、幾つもの別名を使っていることも珍しくありません。
 こんな〈六号〉が、どんな風に書かれていたかというと…志賀直哉の回想によれば、「みんな(白樺同人)(同人の誰かの家で)茶を飲んで雑談している間に寝そべったまま、そこの原稿用紙を借りちゃあ、書いて、それを一緒に綴じるんだ」(注5)という、一種の寄せ書き方式だったようなのです。
 そういえば、実際、初期の〈六号〉には、同人の何人かが、まるで本当にその場で掛け合いをしているかのような箇所があちこちに見られます。先の引用部からも、里見が書いては適当に皆で回し読みして志賀が付け足し、それをまた読んで里見が付け足し…という、そんな情景が浮かんで来る気がします。

 というと、紙のメディアと電子メディアという違いがあるとはいえ、これはまさしく、ホームページ掲示板への〈書き込み(カキコ)〉のような賑やかさだと思いませんか?

 こんな〈六号〉から、当時の読者たちは、自分と同世代の青年たちがワイワイ言いながら、色んなことにチャレンジしている様子を、生き生きと思い描いていたことでしょう。
 雑誌は紙のメディアですから、読者は、自分の思ったことをすぐには書き込むことが出来ません。でも、彼らは、〈六号〉のおしゃべりを読む事そのものに、“ROM(ロム ※リード・オンリー・メンバー=読むだけの参加者)”の楽しみを見出していたに違いありません。

 そして、私も、いわば…はるかな時を越えて、『白樺』〈六号〉の熱心な“ROM”なのです。

 こんな多声的(ポリフォニック)なフィールド=〈六号〉を通して〈白樺派〉を見なおしてみるならば、例えば“人道主義を高らかに提唱し、云々”といった堅苦しい枠組みなんて、消し飛んでしまうことでしょう。
 なにか、もっと感覚的に私たちに近い…と言ってしまうのが〈現代(いま)〉に引きつけすぎなら、少なくとも、もっと柔軟で、生き生きとした感性を持った…そんな若者の群像が、ここからは浮かび上がってきます。
 だって、もうすでに、ここまで読んでくる間にも、彼らの意外な側面に幾つも出会えているとは思いませんか?  

 そんな〈六号〉の世界に魅せられて、私は、『白樺』〈六号〉に登場する人々とその時代を、“ことば”によって描き起こしてみたいと思うようになりました。イメージボードに描き出すように、何枚も、何枚も──。

 それでは、まずは、〈東京〉の街をゆく〈白樺派〉の姿を、素描してゆくことにしましょう。
 〈学習院〉という囲い込みの場所から解かれて、外の世界へと一歩ずつ歩み出しはじめる頃の、白樺派の姿を…。

【注記】 ※(HP)は、〈ホームページ〉の略記。

注1
 参考:株式会社 乃村工藝社(HP) ディスプレイ・デザインの歴史 「近代の遊園地-祝祭の娯楽施設」 http:// www.nomurakougei.co.jp/inpaku/dd.history/k_yuuen.html
 なお、浅草のルナパークの開園期間は大正元年ごろまでと比較的短かかった。 同名施設としては、大阪のルナパーク(明治四十五〜大正十二年)の方がのちに有名になった。
(下図 参考:大阪・通天閣とともに開業した大型遊園新世界〈ルナパーク〉 同HPより引用)

注2
 参考:花やしき(HP) 浅草花屋敷の歴史(年表)
 http://www.hanayashiki.net/lookover/history/nenpyo.html

注3
 安野彰の論文「東京近郊における遊園地の歴史から見る都市娯楽の可能性」の表3によると、明治四十三年開園の〈ルナパーク〉にローラースケートの施設はなく、そうした設備は大正元年開園の〈本牧花屋敷〉からとなっている。だが、上記本文で引用した『白樺』の記事から見て、四十五年二月の段階では、ルナパークにもすでに、一時的なものかも知れないが、ローラースケートが楽しめる施設が出来ていたのは確からしいと思われる。
 参考:株式会社ナムコ(HP)
 http://www.namco.co.jp/ntf/3rd/28yasuno.fol/28yasuno.htm

注4
 参考:名古屋経済大学短期大学部・川勝研究室(HP) 2002年度「現代子ども論」講義録(第5回)
 http://www002.upp.so-net.ne.jp/kawakatsu-labo/2002gendaikodomoron5.htm

注5
 志賀直哉・里見 弓享「対談 明治の青春」(『海』1970年2月号)171頁


【図版】(※無断複写・転載禁止)

図1
 細馬宏通・浅草十二階計画(HP) より引用 浅草六区 ※赤丸は引用者が加えた。
 http://www.12kai.com/12kai/t5mp6ku.jpg

図2
 株式会社 乃村工藝社(HP) ディスプレイ・デザインの歴史 「近代の遊園地-祝祭の娯楽施設」(注1参照)より引用