〔白樺派と旅〕シリーズ
〈もうめんたリズム〉関西道中
─志賀・木下・里見 『旅中日記 寺の瓦』の旅─ (その2)
written & illustrated 銀の星 (2004/08/03 Up)
【目次】(続き)
(4)掛け合いノートの旅日記
(5)笠置山・にわか俳諧
(6)〈もうめんたリズム〉道中の由来
さて、いよいよ旅に出た、志賀・木下・里見の3人。出だしから夜汽車で子供のように大はしゃぎとは、いったいどんな旅になりますことやら…。先が思いやられる所ですが、では、そうした自分たちの経験を、彼らはどのように『寺の瓦』に綴っていったのでしょうか。 例えば、旅行第1日目の、3月27日。この日は、熱田(あつた)神宮から徒歩で名古屋行、そして列車に乗って夕方に伊賀上野着──という行動でした。 ○ヒル〔午(ひる)〕名古屋でキシメン〔棊子麺〕といふ、サナダ蟲〔條蟲〕のやうなウドン〔饂飩〕を食ふ。(志) ○大井川あたりから夜が明ける。熱田で下りて熱田神宮に詣りまする。(その前に誓願寺と云ふのにある頼朝誕生地を見る)これより白鳥御陵へ参拝して、きたない名古屋の町をぬけまする。この間大須の観音を見物する、午後一時四十分名古屋発の汽車で上野についたのは午後五時、高原の春は寒い。(木) ○寒いのは只もう不愉快だ、空腹なのは可笑しくなつたりするとたわいがなくなつて面白い、咽の渇いたのは口がねと/\して心地が悪い、睡いのは脳髄が真綿でつつまれた様になつて眼がしよぼたれてたまつたものでない。車夫が車を勧めるのが可笑しい。シヤンペンサイダーはうまかつた、「釣り燈籠のあかりに輝(てら)し」がはやつた。(山) ○マア昨晩風〔風邪〕を引かなかつたのが、恵みさ。 なお、いくつか補足しますと、(志)は志賀、(木)は木下ですが、(山)というのは、山内英夫こと、後の里見弓享の頭文字です。また、その他、文中に角カッコ〔 〕が入っていますが、こちらの内容は、『寺の瓦』刊行時に里見
弓享 が補ったものです。(※注3) * * * * * * * * さて、以上の点を踏まえたうえで、もう一度日記を見てみますと、いかがでしょう──文末表現こそ、「食ふ」「寒い」「面白い」と言い切りの形になっていますが、これはほとんど、“掛け合い”の形そのままではないでしょうか? もちろんこれは、通常の、対面的な会話とは違います。彼らが、この文章の読み手として考えていたのは、帰京後の友人たちか、未来の自分たち。ですから、共通経験を書いても、どちらかといえば説明的です。本当にこの3人が会話をする時には、むしろ、もっとダイレクトに、自分自身の感想をどんどん述べあってゆくでしょう。 でも、“読ませる文章”を意識しているつもりでも、そこは寄せ書き。それぞれの言葉ぐせや発想の癖などが、端々から、ふと、こぼれるように表れています。 まず、わかりやすいところでは、里見(山)の文章に続けて、志賀が「マア昨晩風を引かなかつたのが、恵みさ」と書いている箇所。里見が“寒いのは不愉快だ、睡いと眼がしょぼしょぼしてたまらない”と閉口している部分を受けての書き込みですが、志賀が、常日頃友だちに対して使っただろう言葉遣いが、そのままフッと出ています。 また、もっと面白いのが、木下利玄の書き方です。「熱田神宮に詣りまする」「名古屋の町をぬけまする」と、妙に擬古文的な文末表現をとっていますが、里見の〈註〉によると、それはこういう理由からなのです。 (木)は、音聲でも作文でも、とかく人真似(ひとまね)がうまく、忽ち対象の特徴を捉へては、みづから可笑がつてゐる。「詣りまする」とか、「ぬけまする」などバカ丁寧な言葉遣ひにしても、たしか某役者の某役での台詞(せりふ)がオリヂンだつたらうと思ふが、それがなんだつたかは思ひ出せない。 そのほか、「高原の春は寒い」という何気ない一言も、里見に言わせると、「『高原の春は寒い」は藤村調のつもりに違ひない」とのこと(※注4)。つまり、この木下利玄という人は、気軽なおしゃべり・ふとした感想・洒落やユーモア等々を表現する時には、自然、それにぴったりな他人の口調が口をついて出る、という人だったらしいのです。そう考えると、彼が無類の芝居好き、というより芝居の“声色”好きだったということもうなづけます。 こうした才能は、利玄のライフワークだった短歌の方を見ていてもあまりわかりませんし(※注5)、若い頃の短編小説にも、それほど表れているとは思われません。ですから、こうした〈素(す)〉のキャラクターがわかるのも、気軽な〈旅日記〉ならではです。 なお、おまけとして、利玄の言葉ぐせをもう一つ。声色や洒落なら口をついてスラスラ出て来たようですが、本人自身は、いたっておっとり。しゃべり方も「ソリヤアー ソノ 君 何ンだらう(木ノ)」(『寺の瓦』三月二十八日)といった、のんびりした口調だったようです。これについて、里見は、以下のように注記しています。 署名は(木ノ)となつてゐるが筆跡は(志)で、(木ノ)の言葉癖を誌し置くとの意味らしい。「可なりの言葉数を並べながら、意味をなす言葉といつたらただの一つとしてないぢやアないか」と、本気とも冗談ともつかない調子で、(志)にたしなめられても、恐らく(木)は、「ソコガ、ソレ、君、ナンヂヤーナイカ」ぐらゐに答へさうな所だ。いや、きつとさうだつたに違ひない。
|
彼らの掛け合いの妙は、名古屋の翌日、三重県の伊賀上野から笠置まで歩いた時の、俳句の連作にも見る事が出来ます。
連歌俳諧、といえば、なにか江戸の文人趣味を踏襲したようですが、そこはバリバリの明治青年。本式に短歌を学んでいた木下を交えての句の詠み合いは、はじめのうちこそ、かなりまともな線ですが…。 梅に見えぬ隣の宿や笑ひ聲(木) 一ぷくの煙ごしに見る月の瀬の梅(志) 雲を見る鶯渓や梅のはな(木) 月の瀬に月並を吐く男かな(志) 謡(うたひ)うたふ茶屋の主人も鶯花渓(木) 此の「も」も碧梧桐調(木) と、途中からあっさり、諧謔の方に脱線していってしまいます。 「この『も』はね、碧梧桐調といふやつで、たヾの『も』だと思ふとわけが違ふぜ」(『若き日の旅』)と木下。 すると、対する志賀も、「おのれもたヾの鼠ぢやあんめえ、──さうすると、あの『も』もたヾの『も』ぢァなかつたわけかな」(同上)とすぐ応酬。この「只の…ぢゃあんめえ」という言葉も、出発する日に見ていた歌舞伎の男之助(『伽羅千代萩』の登場人物)の台詞でした(『寺の瓦』 三月二十八日・註1)。洒落には洒落での、絶妙なテンポの良さです。 もちろん、続く山内こと里見弓享も、頭の回転の速さはひけをとりません。 ベランダのはり出しに出でて梅を見れば 「ベランダのはり出し」は「ビイードロの硝子(ガラス)」「テーブル 彼自身の後の文章によると、「これは、子規調だよ。『ビイドロの硝子』だの、『テーブルの足高机』だなんて、よくそんな風に使ふね、あのでんでいつた『ヴェランダの張出し』なんだから、こいつもたヾの重複ぢやないんだぜ」(『若き日の旅』)という事になります。こちらの場合も、確かに、あらためて子規の作品に目を通すと、「にひ年の朝日さしけるガラス窓のガラス透影紙鳶(たこ)上る見ゆ」(明治33年作 『竹乃里歌』収録)などという表現につきあたります。さすがに里見、よく読んでいます。 こう見てゆくと、表現をもじる事が、そうした先輩作家たちの表現を自分のものとして使いこなす事でもあり、同時にそれを批評する行為にもなっているようです。しかも、友だちとポンポンやりとりしているからこそ、ますます機敏な表現能力が鍛えられるというわけ。 * * * * * * * * さて、里見自身、自分たちが“伊勢参宮の抜け参り”のようだと感じた典型的シーンが、この月ヶ瀬─笠置ルートのところで出てきます。『寺の瓦』と『若き日の旅』両方に記されている場面ですが、ここはやはり、里見弓享の、臨場感あふれるセリフ描写を堪能する事にしましょう。 笠置へ着くと、またもやうるさく勧め寄る案内者を、前の経験から、振り向きもしないことにして、さつさと山へ登る。(中略) 友だち同士の気安さもあったでしょう。家から離れた解放感もあったでしょう。でも、くだけすぎです。親が心配するはずです。それに、このしゃべり言葉といったら、芝居と、落語と、「膝栗毛」がごっちゃになった、明治人からみてもアナクロで、まわりの人たちからは、きっと(どこの人??)と思われていたに違いありません。 |
3日目の3月29日は、最大の目的地・京都に到着した日です。いくら日記とはいえ、こうして順送りに日を追って読んでゆくのも芸がないのですが、この地の記録には、彼らのモットーたる〈もうめんたリズム〉の由来が語られるシーンが出て来ます。ですからそこまでは、ひとまず見ておく事にしましょう。 その日、笠置から汽車で宇治に入った3人は、いよいよ、憧れの神社仏閣とご対面!平等院から宇治上神社へ、そして興聖寺を経て黄檗山へと廻っています。
今なら、バスかタクシーで楽々回れる範囲ですが、彼らは徒歩だけで全部まわり、黄檗山も越えていったというのですから、たいした脚力です。 翌日は朝から雨で、少し骨休めするのかと思うと、さにあらず。“京見物に春雨は却(かえ)って風情だ”と、張り切っての外出です。『忠臣蔵』で有名な一力茶屋の前を通り、建仁寺を抜け、五条坂の古道具屋ではお土産に浮世絵のお買い物。大仏殿を見、方広寺の釣鐘を見て、“これが狸め(家康)が言いがかりに使ったという鐘か”(志賀)と納得、みんなで一突きづつ突いてみたりしています。 豊国神社を抜けたら、行き先は国立博物館。仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の彫刻を目の当たりにし、空海・運慶・湛慶などの国宝級作品を食い入るように見つめます。そこでゆっくり鑑賞三昧かと思うと、近いというので、次は三十三間堂へ。びっしりと並んだ仏像を見たら、今度は養源院の“血天井”へ(※注6)。どしゃ降りになってきた雨もなんのそのです。それから清水へ向かい、坂を上がりきったあたりの安料理屋で、ようやくお昼をとったとのこと。以上が午前中の行程だったというのですから、実にせっせと歩いたものです。 しかし、この行程に不満だったのは、木下利玄でした。彼のたてたスケジュールでは、この日の午前中に、清水寺・八坂神社・南禅寺までを見る予定だったのですから。(@_@)! でも一方、そういう事に関しては呑気な点で気が揃うのが、志賀と里見の2人です。 ○木ノは御見物主義、御参詣主義なのでトカク、もうめんたリズムとは合はぬ事がある(後略)(志)
「さうまア、ぼやきなさんなよ」 お参りしているわけでもなし、予定通り窮屈に行動しなくても、アバウトでいいんだよ──。それが、志賀のいうところの〈もうめんたリズム〉でした(※注7)。「なるべく予定をたてず、よしんばほゞきまつてゐても、その場その場の気分や都合や事情次第で、どん/\変更してしまふ。流水の如くこだはらない」(『寺の瓦』 三月二十九日・註5)という姿勢。一見、いいかげんのようにも思えますが、こうしたモットーを早めに立てた事で、彼らは行く先々で、様々な人との触れ合いやミーハー的見物なども、経験の幅の中に柔軟に取り込んでゆく事が出来るようになったのでした。 ただ、がっかりしたのは几帳面な木下です。予定の行動を諦めなくてはならない上に、連れには〈御見物・御参詣主義〉とまでけなされて、少し、しょげてしまいました。融通のきかない奴、と言われたのも同じなのですから、無理もありません。 でも、ここで無理して金閣まで強行しなかったおかげで、良い事に巡り会えたのも、この木下。清水の舞台から三年坂を下りて、高台寺・八坂神社を抜け、円山公園に来かかると、そこはもう祇園のすぐそばです。今も昔も変わらない、だらりの帯に振袖姿の舞妓さんたちのそばを、木下が通りかかった時……。 と、ここから先は、また少し長くなります。お話は、次回へと送る事にいたしましょう。 (続く) |
【注】
3. 「大抵は晩着(おそづ)き、早発(はやだち)の宿屋か、揺れ動く乗り物のなかなどでの、所謂「忽卒(こっそつ)の間に於ける執筆」とばかり、理由を転嫁するわけにもいくまいけれど、原文には、可なり多くの誤記、当字(あてじ)、脱落、仮名違ひなどが見出される。脱落の場合は、〔 〕で囲つて補つたし、訂正・説明の要ある当字の場合は、〔 〕で囲つた正字を九ポ活字で適当に挿入した。」
(里見弓享 『寺の瓦』注釈者のあと書き)
4. 島崎藤村の作中に「高原の春は寒い」という一句があったかどうか、にわかにはわからない。ただ、確かに、藤村の表現には、例えば「水内の平野は丑松の目の前にひらけた」(『破戒』第七章)・「その日は初夏らしい暑さの日であった。強い蔭日向(かげひなた)は一行の行き先にあった」(『春』八十七)のように、普通は人主語にするところをしばしばモノ主語にするという特徴があった(特に自然・気象などを描写する時)。若い頃学んだ英文に、文体が影響を受けていたからと思われる。ここで木下は、その藤村調を、それこそ“なに気(げ)”に──しかし、わかる人にはわかるように──自分の文に織り込んでいる。
5. ただし、彼の短歌には、身近な内容にもかかわらず、「つむりを打ちて泣きし吾子はも」「灯(あかり)の下(もと)をいゆきもとほる」等、万葉時代の古風な文末表現を使っているものが少なくない。これも、利玄の、上記のような言語能力の、別の形での発現と考えれば、納得のゆく節がある。
このような面からみても、こうした旅日記のような、『白樺』同人の雑談・書き込み形式ジャンルは、彼らの表現を分析する上での重要な資料となると考えられる。
6.〈血天井〉……
養源院の本堂の天井には血の染みがあり、〈血天井〉として有名である。伝説によると、それは、慶長5年(1600)、石田三成が伏見城を攻め落とした際、最後まで城を死守した鳥居元忠と家臣らが自刃した、その板の間の血痕であるという。養源院では、彼らの菩提を弔うべく、その板を天井に用いている。
なお、志賀直哉は『寺の瓦』に、「あの天井の廊下で、人の死むだといふ事実は疑はぬけれども、今残つてゐる、あの血のあと、其の死體のあとなどはアヤシイものである、疑ひもなく偽りであるといへよう」(三月三十日)と記している。
7. なお、「この言葉は、彼(志賀)の創案ではなく、どういふ連中が言ひ出したのか、もつと以前から文芸界に行はれてゐたもの」(『寺の瓦』 三月二十九日・註5)との事だが、具体的な事についてはまだ確かめていない。
【引用について】(今回の引用)
・島崎藤村
『破戒』 岩波文庫 1983年・第30刷
『春』 新潮文庫 1988年・第70刷
・河東碧梧桐
日本詩人全集30『河東碧梧桐 他』 新潮社 1969年
・正岡子規
日本詩人全集2『正岡子規・高浜虚子』 新潮社 1970年・第3刷