〔白樺派と旅〕シリーズ
〈もうめんたリズム〉・関西道中
─志賀・木下・里見 『旅中日記 寺の瓦』の旅─ (その3)
written & illustrated by 銀の星 (2004/10/25 Up)
【目次】(続き)
(7)利玄、〈舞妓さん〉との遭遇
(8)“女の子”って夢の存在?
(9)奈良・ひとときのイリュージョン
(10)猛烈!自然派婆(しぜんはばばあ)
(11)自然派作家〈山内先生〉
※『寺の瓦』(『旅中日記 寺の瓦』中央公論社 昭和46年刊)からの引用において、末尾(志)となっているのは志賀直哉、(木)は木下利玄、そして(山)は里見 弓享(本名・山内英夫)の文章です。
さて、“旅は予定になんかこだわらない方がいい、だいたい木ノ(きの)は〈御見物主義〉なんだよ”──そんな風に志賀と里見に言われて、しょげていた木下利玄。そのうえ、京の都は折からの春雨。こんな天候では、楽しみにしていた金閣・銀閣行きもおジャンになりそうだし…。多分彼は、元気な二人のあとを、足取り重くついていっていたことでしょう。 丸〔円〕山公園で木ノ君がヒキズリ相な長い袖をたらした友禅模様のに見返られたと云うてニコ/\して居られた、此奴後になり先になり可成の間出遇つた、木ノ君が「家へ帰(ケエ)るが嫌になつた」(※注8)と云はれはしまいかと心配した。
(山)(=里見) 八坂・円山・祇園──と、京都に土地勘がある人ならば、ピンと来るところでしょうが、やはり、この辺の事情の説明は、里見 弓享 の洒脱(しゃだつ)な語り口におまかせいたしましょう。 清水の舞台から、濡色の赤松の美しさに見惚(みと)れ、三年坂をおりて、高台寺(こうだいじ)、八坂神社をぬけて、円山公園にはいる頃には、雲は切れないが、どうやら降りやんでゐた。待望の舞妓が、四五人ひとつれに、手をつないだり、放したり、笑い声をあげたり、だらりの帯に横揺(よこゆ)れを見せて逃げたり、追ひさうにして急によしたり、まるでそこをわが家(や)の如くに振舞つてゐる。 いつとはなしに、一人おくれた木下が、無理にすまし込んだ顔つきで、われ/\の立ち止つて待つてゐるそばまで来ると、
舞妓さんにふり返られて「ニコ/\して居られ」る若者は、古今に珍しくはないでしょうが、それを言うのに「なんとなく僕を意識しながら、それで、表面さも無邪気らしくやつてるんだ」とは、木下もなんと虫のいいこと!そして、さらにその事を“驚いた”と自分でいってしまうのですから、さすがの志賀や里見もちょっと辟易(へきえき)。「驚くのはこつちだよ、──木ノスの、その自惚の強さにね」となるのも、無理はありません。 でも、おかげで木下は元気百倍。しょげた気分はどこへやら、「あれは、併し、どつちだらうね、祇園かしら、先斗町(ぽんとちょう)かしら」と、舞妓さんの話題に夢中。「それがわかりさへすれば、すぐにも逢ひに行きさうな顔つきをしてゐるね」とツッコまれても、「さうさ。それア無論、……僕一人ぢア、ちよつとひるむけど……」と、ひたすら素朴・まともに受け応えをしています。 |
こうした点だけ見ると、この木下利玄、いかにも単純な女の子好きといった感じです。でも彼が、女の子を一目みた(見られた?)だけで、これほどまでにハイになってしまうについては、実は深い理由(わけ)がありました。 一つは、木下自身の生い立ちです。彼は、旧大名・木下家の傍系の生れでしたが、子細あって本家にもらわれて以来、母親をはじめ母性・女性と縁の薄い、特殊な境遇で育てられました。利玄が養子に出たのは4歳の幼さでしたから、普通、乳母や腰元がつきそわないはずはないと思うのですが、彼の後見人の判断で、なぜか、そういう役割の女性は身近に置かれなかったのです。(この辺の事情に関しては、当HP掲載「木精の詩(1)」の中でもう少し詳しく説明しています。) もちろん、いくら小藩とはいえ、大名家のお屋敷に働く女性が一人もいなかったはずはありません。でも、そうした中にも、利玄が思い切り甘えたり、慕ったりすることが出来る相手は、ほとんどいなかったようです。そもそも、利玄にとっての木下本家は、“自分が生い立った家”というにはよほど殺風景な場所だったようで、この旅の数年後も、下のような短歌を詠んでいるくらいです。 冬来(きた)る 女気(おんなげ)のなき我が家の 紅きものなき室(へや)にぞ来(きた)る * * * * * * * * それに、もう一つは、〈学習院〉という所の特殊事情です。 ただし、学習院も、最初から男女別学方針をとっていたわけではありません。明治10年の開校当初は、女子も6歳から14歳までは一緒に学ぶ規則で、科目が、多少男子と違うだけでした。 ところが、明治18年、時の昭憲皇后が、“女子には女子独自の教育を施す”という方針を打ち出しました。そのため、改めて〈華族女学校〉が別に設立される事となり、〈学習院〉の中から女の子はいなくなってしまいました。 その直接の動機は、もしかすると、〈男女七歳不同席(男女七歳にして席を同じうせず)〉という古風な倫理観だったかもしれません。しかし一方、この頃には、当時の西欧で進められていたセクソロジー(性科学)のはしりが、次第に日本にも影響を与えるようになってきていました(※注9)。その学問の枠組みからすれば、〈男〉と〈女〉は自然性。性差は当然のものと考えられていました。そして、その発想自体は、日本でもほとんど変わりませんでした。 かくして、皇后様がヨケーな……もとい、新方針を打ち出したために、明治18年前後生まれの白樺同人たちは、“同級生の女の子”という存在に、まったく縁がなく育ってしまったのです。女の子と同じ教室にいた記憶があるのは、長与善郎のように、途中編入で学習院に入ってきた人たちだけ。男女別学は戦前は当たり前だったとはいえ、一般の子弟子女は、高等小学校までは大抵共学なのですから、学習院生は、異性経験という点では、庶民よりはるかに恵まれない状況にあったと言えましょう。 現代でも、男子高出身の人たちは、大学で女子学生と一緒に活動するようになると、最初はあがったり、緊張してしまう事があると言います。小・中で共学を経験していてさえ、思春期に同じ年頃の女の子がそばにいないと、コミュニケーションのカンが狂ってぎこちなくなるもののようです。 さらに言えば、武者小路の『お目出たき人』の冒頭部、「自分は女に餓えている」という独白も、別に性的な意味でばかり書かれたのではありませんでした。自分のアニマ(男性が女性に対して抱く理想像)を投影できる対象が、自分の周囲にはそれほどまでにも乏しかったのだ、という事の、一つの表白でもあるわけです。だからこそ『白樺』の友人たちは、その一文に驚くと同時に、そこに自分と共通するものを見いだして、その率直さに共感をよせたのでしょう。もっともこれは、もうすこし後(明治44年)のお話です。 もちろん、学習院にも、中には、抜け駆けして華族女学校の催事をのぞきに行くようなヤカラもいたようですが、そこは世の常。ばれれば同級生や先輩に(時には後輩にまで)はり倒されるという、男社会の厳しい制裁が待っていたようで…。 * * * * * * * * お話を戻せば、そんな人生の諸事情が重なったせいもあって、木下利玄にとっての〈女の子〉は、ちょうど独りぼっちの頃の“赤毛のアン”が思い描く、〈空想〉の世界の存在のようなものだったのでしょう。 |
ところで利玄には、この旅の中ではもう一回、女の子との“接近遭遇”のチャンスが用意されていました。きっかけは、志賀の心づかいです。 それは4月3日、奈良での出来事。 すべり阪のなかほどで、突然、志賀が、 遠くからの、たった一目だけの巫女さんたちとの出会い。それでも木下にとっては、息をつめるようにして見守るほどの、宝石のように貴重な一瞬だったのでしょう。“洋傘はちょっと不似合いだな”と思っている志賀のこだわりなど、意には介しません。 「どうも併し、洋傘にやア弱つたな、──ならば、檜扇(ひあふぎ)でもかざして貰ひたいところを……」 いかがでしょうか?一目歩く姿を見たという、本当にただそれだけの事で、こんなに感動してくれるのなら、見られた巫女さんにしても(もしそれを知ったとしたら)女の子冥利に尽きるといったところでしょう。 ついでに、その日の木下の日記の方も、そっとのぞいてみましょう。 その日の感動をどんな風に書いているでしょうか…。 今朝興福寺の彼岸桜の下をくゞつて春日の方へ行く途中、待ちこがれた巫女が杉木立の間を忙〔急〕ぐのが見えた。志賀君の説によるとこの巫女は何でもお母さんにつれられて春の日のてる下を五十二段を下りて来可き筈なのに今日は杉の梢から洩る旭を蝙蝠傘によけながらサッサと春日〔神〕社の方へ急いで居た。 志賀君は前にのべたやうな姿を期待して居たのだから失望して居たが吾人の眼からは中々可憐に美しく見えた。髪をお下げにして紙で巻いて白衣、紅袴、前にかゝつた歩きつきですぐ遠くへ往つてしまつた。その蝙蝠傘をさして急ぐ所が近世的でふれて居る、深刻だ。(※注10) (中略・そのすぐ後の「自然派婆」の店にいた時)二人の巫女が午に迫る日を矢つ張蝙蝠傘によけて横町から突如として表はれたが石橋の上で二人互にお辞儀をして一人は猿沢の池の右へ一人は左へ共に柳がくれに見えずなつた。どうもそのお辞儀と後姿がほんとに可愛かつた。吾人は敢てお母さんにつれられるを要求せず蝙蝠傘をさすなと要求もせぬ、吾人には今日見た姿が大〔い〕に面白い。(木)
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なお、『寺の瓦』では、この〈四月三日〉の記述は、4月3日の夜から4月4日の朝までの間に書かれているのですが、この時の日記リレーの仕方が面白い。 まず最初は木下利玄ですが、彼は、自分が美術史ノートをいっとき見失った事についてだけを書いて、写真を買いに行った段については触れていません。 ところが、志賀も木下と同様、〈自然派婆〉についてはまったく触れません。そこで翌4日の朝、里見が「(以下四日の朝書く、今朝は肩は痛むが頭痛はやんだ)」として、〈自然派婆〉の店に入る段までを書き、志賀に渡しています。 要するに、当時は、まだ精神面ではかなりの「清教徒(ピューリタン)」(『若き日の旅』十)だった彼らのこと。「あの婆さんはすごかったね〜」と話題には出しながら、いざ日記に書いておこうとなると、あまりのロコツさに、誰もすすんで書こうという者がなかったのでしょう。木下利玄は早々に逃げてしまうし、そもそも、繊細でロマンチックな作風を旨とする彼に無理強いをする者もない。 山内英夫。この前年(明治40年)の夏頃から、兄やその友人の志賀たちの影響を受け、少しずつスケッチ的な執筆を始めていました。明治40年12月の『輔仁会雑誌(ほじんかいざっし)』(学習院の校友会雑誌)第73号で、〈伊吾(いご)〉の筆名で「黒」「乙馬鹿」の短編2作を発表し、創作デビュー。実はこれが『輔仁会雑誌』はじまって以来、初の“小説”掲載だったという、記念すべき足跡を残した人でもあります。(※注12) 『白樺』誌上で筆名を〈里見 弓享〉と改め、やがて市井の人々の情感を描く事に抜群の才を発揮することとなった“山さん”ですが、こうした旅日記を見ると、実は先輩(悪友?)二人のおかげで、そうした作家の道に否応なく向かせられてしまった?という所だったのでしょうか。 (続く) |
【注】
8.河竹新七作「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのゑひざめ)」の主役、佐野次郎左衛門の台詞。
(『寺の瓦』三月三十日・註7)
9.なお、西欧で〈セクソロジー〉という用語を初めてつかった学者はブロッホ(I.Bloch)で、1906(明治39)年の事とされる。しかし、それ以前から、医学・生理学・解剖学・遺伝学等の様々な分野において性(性差)の研究は進められてきていた。ちなみに、クラフト・エビングが『性的精神病質』(Psychopathia
Sexualis)を著したのは、1886(明治19)年。日本では1894(明治27)年に『色情狂編』という題名で出版され、発禁処分にあっている。
(岩波講座・現代社会学10『セクシュアリティの社会学』6〜7p)
10.「自然派の作家たちが好んで使つた言葉に、「人生に触れて……」ゐるとかゐないとかいふのがあつた。「深刻」もやはり同じ口。それ等が、われ/\の間では、やゝ揶揄的に用ひられてゐた。」
(『寺の瓦』四月三日・註17)
11.「鬢附(びんつけ)」は〈鬢附油〉の略。日本髪を整えるための整髪料(木蝋(ろう)と菜種油が原料)で、今風にいえばヘアワックス。
12.なお、小説発表の2番手は、次の『輔仁会雑誌』第74号(明治41年)に「孤独」を発表した〈青蜩(せいちょう)〉こと正親町実慶(おおぎまち・さねよし)。後の『白樺』作家・日下 言念 (くさか・しん)である。里見と日下は同学年の親友同士だった。