〔白樺派と旅〕シリーズ

〈もうめんたリズム〉・関西道中
─志賀・木下・里見 『旅中日記 寺の瓦』の旅─ (その4)

written & illustrated by 銀の星 (2005/09/13 Up)

   4

【目次】(続き)

(12)なぜか入れた根本中堂
(13)虚子の足跡をたどる旅
(14)斑鳩(いかるが)の宿のファンレター
(15)虚子の小説と〈許されざる恋〉

 

Index

※『寺の瓦』(『旅中日記 寺の瓦』中央公論社 昭和46年刊)からの引用において、末尾(志)となっているのは志賀直哉、(木)は木下利玄、そして(山)は里見 弓享(本名・山内英夫)の文章です。

(12)なぜか入れた根本中堂

 前回は、舞妓さんなど、少し華やかな話題も登場しましたから、今回は、ちょっと渋く、お寺参りの図から始めましょう。

 そろそろ桜の時期の関西とはいえ、近江国は滋賀の比叡山。その山中ともなれば、3月末日はまだ肌寒く、残雪もそこかしこに残っていたようです。その冷気の中を、ご存じ志賀・木下・里見の3人組は、朴歯の下駄でガラゴロと、わざわざ歩いて山登り。そのお目当てはどこかというと、延暦寺・根本中堂です。
 途中、現在も滋賀の名物として残る〈弁慶力餅〉の店で一服して、さらにその先へ。根本中堂に着いた時には、あたりはまさに、山奥の静けさ…。

(前略)
登る程に琵琶湖が見え出した。鏡といふ形容も古い。不〔無〕動寺へ往つてお婆さんにきくと、これから十町ほどのぼると東塔で、根本中堂だと云ふ、あへぎ/\登る。弁慶力餅屋に休む。浅黄の衣をきた小僧さんが登つて来て茶屋による。三人は根本中堂へ印を捺して貰ひにゆく、老いたる僧が一人居て十二の印を勝手に捺さしてくれる。内陣の暗い冷い中には本尊の厨子があつて常燈明がほのぐらくともつて物音一つせぬ、茫然として佇むと身がしん/\となる。庭には残雪が白く、未だ春寒の景色である。(木)
(『寺の瓦』三月三十一日 京都より大津)

 根本中堂の、北側の屋根や、崕(がけ)の蔭などには、だいぶまだ雪が残つてゐた。
 階段のあがりはなに机を据ゑ、たくさんの印が出しツぱなしのまゝ、しんかんと、人気がない。
「もし/\、もし/\」
「お頼み申します」
 やつとのことで出て来たよぼ/\の老僧に、印を捺してくれと頼むと、勝手にお捺しなさい、ですぐ奥へ引ツ込んで了ふ。「寺の瓦」(※旅日記)のあちこちへ、十二の印をぺた/\捺し、その気楽さの引き続きから、なんの気もなく内陣へはいつて了つたが……。

(里見『若き日の旅』七)

 今は国宝の根本中堂も、この当時は──というより、この日は、どういうわけだか放りっぱなし。ここの「老僧」ならば、かなりの高位のお坊さんだったはずなのに、寛大なのか大雑把なのか、3人を見ても“どうぞご勝手に”式で奥に引っ込んでしまいます。そこで彼らも、〈不滅の法燈〉が揺らぐ中堂内陣の中に入ってみることにしたのですが…。

ずつと、程経(ほどへ)て後に聞けば、府知事や、こゝとは特別馴染の深い高浜虚子などでさへやかましく云はれるとか、知らぬが仏で、延暦七年の開基以来、千百二十年間、油を注ぎ足し注ぎ足しして、たヾの一度も消したことがないと云はれる常燈明の、ほの暗い火影(ほかげ)に、耳が鳴りだすほどの静寂(しづけさ)に、身うちの引き緊(しま)る冷たさに、やゝ暫く、三人、茫然として立ちつくしてゐた。
(同上)

 本当は、参拝客が入っていいのは根本中堂の外陣・中陣までのみで、最中心部をなす内陣に入ることは出来ません。それは、当時も現在も同じ。なぜならそこには、最澄上人の御作とされている御本尊・薬師如来が、厨子に納められて大切に安置されているからです。これは日本に数ある仏像の中でも秘仏中の秘仏で、滅多に直接人の目に触れることはありません。
 それなのに、なぜかこの日この時、もうめんたリズム3人組は、不思議なくらい、するするっと中に入ってしまえたのです。もちろん、彼らが目にしたのも、薄暗い空間の奥の、厨子の扉だけだったようですが…。

 彼らが中に入れたのは、偶然?それともとびきりラッキーだったから?いいえ、思うに、それはやはり、比叡山の仏さまたちが彼らを招き入れたにちがいありません。彼らが山道をフウフウ言いながら登っている時に、すでにそれを察して、“元気のいい、でも根はとっても真面目そうな若者が3人こちらへ向かっているから、ちょっと会ってみようか”なんて…。もしかすると、あの〈老僧〉だって、実はお薬師さまのお使いだったのかも知れませんね。

(上は、薬師如来さまが、御厨子の中からもうめんたリズム3人組をのぞき見るの図…です)

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(13)虚子の足跡をたどる旅

 さて、彼らがわざわざ、京の二条橋から比叡山まで、険しい山道を足駄ばきで登ったのは、仏教美術が見たかったから?確かに、三井寺をはじめとする滋賀の仏閣は、明治の外国人美術研究家、アーネスト・フェノロサが絶賛したことで、当時から有名でした。
 でも、お目当ては、それだけではありませんでした。実は、上に引用した『若き日の旅』の、根本中堂へさしかかる直前の部分には、こんな会話があったのです。

 はじめ、きらりと一線だけ見せた琵琶湖が、登るに従つてその面積を広げて行く。無動寺も過ぎて、弁慶の力餅屋にひと憩(やす)みしてゐると、浅葱(あさぎ)の衣(ころも)を着た小僧さんが登つて来て、茶店の婆さんと、ひと言ふたこと言葉を交はして、そのまゝすた/\行つて了(しま)ふ。今度は、虚子の「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)」を思ひ出して、
「今の、一念さんぢやないかな」
「いや、それほど可愛らしい子でもなかつたぜ」
「婆さんに訊いてみようか」
「よせ/\、くだらない」
「そォら、また隊長さんに叱られちやつた」

 〈隊長さん〉というのは、この旅の中でついた、志賀直哉のあだ名です(木下に言わせると「ねえ、山さん、さうだろう?一人でえばりくさつてゐるんだものねえ」ということです)。茶店に立ち寄った小僧さんを見かけて、木下が、“あの子が例の一念さんじゃないか、茶店の婆さんに確かめてみようか”と言ったのですが、志賀に一言のもとに却下される──という場面なのです。さてそこで、読み手にとっては、「一念さん」って誰?という疑問が出てくるところでしょう。

 答えを先に出しておきますと、「一念」とは、明治大正期の俳人・高浜虚子(たかはま・きょし)の短編小説「風流懺法(ふうりゅうせんぽう)に登場する寺の小僧さんの名前です。
 〈高浜虚子〉といっても、現代人にとっては、すでに馴染みの薄い名前かもしれません。わずかに学校で国語好きだった人が、「たしか正岡子規の仲間の、ホトトギス派の俳人…」と思い出すくらいなものでしょう。
 しかし、もうめんたリズム3人組の学生時代には、高浜虚子といえば、新進気鋭の俳人というだけでなく、読み物作家でもあったのです。彼は、〈写生文〉という新しい方法の散文を提唱して、作品を、俳誌『ホトトギス』などに発表していました。

 〈写生文〉とは、ごく簡単に言えば、まるで画家がスケッチブックと鉛筆を持って歩いて気に入った風景をスケッチするように、ふと心に残った情景を手持ちのノートにさっと文章で書きとどめておく、そんな手法の散文のことです。
 もちろん、書き留めておいたそれぞれの文章は、それだけでは単に、他人には意味のわからない断片に過ぎません。ですから、一応後から、ストーリーらしきものにまとめるわけです。ただし、あくまで〈写生〉なので、無理に起承転結をつけたりはしません。また、一編の物語の主人公がはっきり決まっているとも限りません。

 夏目漱石がお好きな方なら、ここで「草枕」を思い浮かべるかも知れません。あの作品に登場するのは、やはりスケッチをしながら旅を続ける画家(らしき人)ですが、その人物の創作のキーワードとなる言葉が〈非人情〉です。特別に、誰かや、ある出来事に強く思い入れをするのではなく、ありのまま、自分の眼に映じた通りに描き映そうという態度。そうした絵画的な方法論を、文章の方面でも用いようとしていたのが、漱石(明治元年生まれ)から虚子(明治7年生まれ)あたりまでの、いわば維新後世代の作家だったわけです。彼らにとっては、それが、旧時代の〈モノガタリ〉作りに対するアンチテーゼでした。またそれが、彼らより10〜15年ほど年下の若きプレ白樺派にとっても、たいへん新鮮に受けとめられていたのです。

* * * * * * * *

 しかし、理屈は理屈として、虚子の「風流懺法」は、タイトルの難しげな字面に似合わず、軽快で面白い作品です(明治40年・1907 『ホトトギス』4月号掲載)。 構成は実に単純で、旅をしている〈余〉(おそらく虚子その人)が比叡山と京都とで目にした様々な人間模様という、それだけの話なのですが、ここに登場する比叡山の小僧・〈一念〉のキャラクターが何ともユニークなのです。

 一念は、東京の尋常小学校を卒業したばかりの12、3歳の美少年。両親はすでになく、京都に伯母さんが一人いて、しかしなぜか一緒には住まず、彼だけ比叡山・横川(よかわ)の大師堂に預けられています。どうやら理由(わけ)ありの小僧さんなのですが、本人はいたって天真爛漫。やたらと人なつこい上に、誰彼かまわず無遠慮な口をきくのです。

「君勉強してゐるのかい。君全体何しに来たの。遊びにきたのかい。……馬鹿だナア。コンナもの書いてらア。全体何の画だい。下手だナア。僕の方がよつぽどうまいや。」と火鉢の向うに坐つて机の上に置いて置いたノートブックを開けて痛罵を試みはじめる。 (中略)

「よう君、何を書いたんだい。密壇の画だつて。こんな密壇があるものか。馬鹿だナア。礼盤がこんなに小さくて、脇机がこんなに大きくつてどうするんだい」
 元来画心の無い余が文字代りに急いで書き取った図を散々に攻撃する。
「『朝念観世音、暮念観世音、念々従心起、念々不離心』……ヤーイ十句観音経なぞ書いてらア、間抜けだナア。……『こんな処に落ちたら死にますエ』……こんな事君書いてるのかい。こんな事書いてどうするんだい。本当に馬鹿だナア。」 (中略)

「ヨセ/\、ソンナ人の悪口をいふものぢやない。君は腕白だナア」
と余は最中(もなか)を三つやる。
「有難う」
と早速一つ頬ばる。

(「風流懺法」)

 ちなみに、虚子が比叡山に登ったのは、明治40年(1907)3月のこと。志賀らの“もうめんたリズムの旅”の前年で、虚子はこの年、満33歳です。
 ですから余≒虚子だとすると、この小僧さん、20歳も年上の大人に「馬鹿だナア。ヤーイ、間抜けだナア。下手だナア」と言いたい放題言っている、ということになります。そのくせ、最中をもらえばちゃんと素直に「有難う」なのですから…。

 しかし、〈余〉がもっと驚くことになったのは、京の街・祇園に下りた時のことです。
 彼は、そこでちょうど売り出し中の初々しい舞妓・三千歳(みちとせ)に出逢います。このシーンは、どうやら、旅に出る前の志賀・木下・里見の最もあこがれたワンシーンのようですので、ここにご紹介しておきます。(※注13)

「三千歳(みちとせ)はん上げます」
といふ声が聞える。舞妓は余等の前に指を突いて、
「姉はん、今晩は」
とお艶(つや)に会釈する。厚化粧の頬に靨(えくぼ)が出来て、唇が玉虫のやうに光る。お艶の赤前垂れの赤いのが此時もとの通り帯の間に畳まれて、極彩色の京人形が一つ畳の上に坐つて居る。
「お前いくつ」
「十三どす」
(中略)
「其帯は妙な結びやうね」
「これどすか、かうやつて、こゝをかう取つて、こつちやに折つて、かう垂らしますのや」
と赤いハンケチを膝の上でたがねて見せる。白い指が其ハンケチにからまつて美しい。
「何といふの其名は」
「だらり」
「髷の名は」
「京風」
「櫛は」
「これどすか」
と白い手を前髪の後ろにやつて、
「花櫛、これは前髪くゝり。あなた何書いとゐやすの」 と余のノートを覗き込む。

(同上)

 こうしてすっかり、京都の雰囲気にひたり切っていた〈余〉。しかし、突然後ろから、「君来てるのかい」と遠慮のない声。振り向くと、なんと、祇園のお茶屋に叡山の小僧の一念が…?しかも、芸妓の三千歳と知りあいのよう。その上三千歳は、皆の前で“一念に惚れている”と公言してはばかりません。

「あたい一念はんに惚れてるのどつせ。皆なでお笑ひやす。お笑ひたてかまへん。ナアそやおへんか一念はん」
と三千歳は可愛ゆい口をむつと閉じて一座を見る。
「えらいおのろけ、かなはんな」
とお花は撥(ばち)で空を煽(あお)ぐ。

(同上)

 と言っても、2人ともまだ13歳前後。交わす会話も、男女のそれというよりは、まるで同学年のいとこ同士です。 それに一念は、照れもあるのか、“どっちでもいいや”と言わんばかりのぶっきらぼうな素振り。でも、2人の気が合っているのは明らかなので、大人はからかいたくて仕方ありません。

「君食はないか」
(余は)刺身を取つてやる。
「僕は坊主だから食はない」
「其(それ)で君三千歳サンに惚れられたり、小末サンに見とれたりしていゝのか」
「何いやがるンだい」
といひながら三千歳の前の皿にある林檎の切れを取つて食ふ。
「中のえゝ事」
と松勇が逃腰をしていふ。
「よろしおすやろ」
と三千歳はツンとすます。

(同上)

 さて、このお話はどうなりますかというと…すでにお断りのように〈写生文〉ですから、どうということにもなりません。ただ、一念が迎えに来た伯母さんと一緒に帰ったあとで、三千歳が「お父つあんもお母はんも無いのやてな。可哀想やおへんか。どうして横川みたいな淋しい処へ伯母はんがやりやはつたんやろ」と沈みこむところに、幼くも真面目な恋心がちらりと暗示されているだけです。
 ただ、こうした部分的なご紹介だけでも、この小品が、例えば非常に良くできた読み切りコミックのようだという事は、お感じいただけたのではないでしょうか。

 プレ白樺派の3人組は、互いに『ホトトギス』を貸し借りながら、こういう作品を読んでは、まだ見ぬ京都の風物や、〈舞妓さん〉や、寂しい山奥だという比叡の寺の様子を思い浮かべ、旅の夢を描いていたのでしょう。

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(14)斑鳩(いかるが)の宿のファンレター

 旅日記「寺の瓦」に高浜虚子の話題が再び出て来るのは、それから3日後。4月3日、3人が〈自然派婆〉にすっかりあてられたり、木下利玄が巫女さんに見とれたりしたのと同じ日の夕方のことです(前回の〈もうめんたリズム〉・関西道中(その3)参照)

 奈良市内から出て法隆寺村に入ると、〈大黒屋〉という屋号の宿屋が見えてきます。これはまさか、虚子の「斑鳩(いかるが)物語」に出て来たのとまったく同じ宿屋…?と、3人の胸は高鳴ります。特に木下は、「儚(はかな)く消え易(やす)い美に敏感な、しつとりと、温(あたゝ)かい性分に相通ずるものがあつてか、虚子を好くこと、仲間うちで木下を以て最(さい)とした」(『若き日の旅』十一)そうですから、一も二もなくその宿に突進。普段のおっとり屋がウソのように、宿の人にあれこれ質問です。

停車場から畑道をぬけて法隆寺村に入ると大黒屋とかいた二階が見える。矢つ張虚子の「斑鳩(いかるが)物語」にあつた大黒屋といふのはほんとの名だつたかと之に行く事にきめる。ずつと表へ廻つて大黒屋にいつて「角の二階があいてるかい」ときくと「あいとります」と云つて小さい女中が案内して呉れる。お道さんぢやないかと思ふ。二階の欄干から夕霞(ゆうがすみ)する山々を見て大〔い〕に「斑鳩物語」をはつて、畝傍はどれ、香具山はどれ、三輪はどの辺、ときいて見る。少女はお道さんのやうに快活には答へぬ。満目の畑には菜の花と藺(い)と梨とが植わつて居る、菜の花の黄は目に入るが梨は未だ咲いて居らぬ。 (後略)(木)
(『寺の瓦』四月三日 奈良より法隆寺)

 ここで木下が念頭に置いていたのは、「斑鳩物語」冒頭の名シーンです。法隆寺を訪れた〈余〉(≒虚子)が「大黒屋」を訪れると、中から出て来たのは、「色の白い、田舎娘にしては才はじけた顔立ち」の、17〜8歳の若い娘。それが〈お道さん〉という名の女中さんでした。〈お道さん〉は、〈余〉に奈良の名所について尋ねられても、どんな質問にもはきはき答える、利発な少女として描かれています。

「初瀬は遠いかい」
とわざと娘を引とめて見る。
「初瀬だつか」
と娘も一度腰を下ろして、
「初瀬はナー、そらあのお山ナー、そら左りの方の山の外れに木の茂つたとこがありますやろ……」
と延び上るやうにして、
「あこが三輪(みわ)のお山で。初瀬はあのお山の向うわきになつてます。旦那はんまだ初瀬に行きやはつた事おまへんか。」
「いやちつとも知らないのだ。さうかあれが三輪か。道理で大変に樹が茂つてゐるね。それから吉野は」 「吉野だつか」 と娘は電報を畳の上に置いて膝を立てる。(中略)余は立上がつて縁に出る。娘も余に寄り添うて手摺りに凭(もた)れる。(中略)
「旦那はん、一寸来てお見やす。そらあそこに百姓家がおますやろ。さうだす、今鴉(からす)の飛んでる下のとこ。さうだす、あの百姓家の左の方にこんもりした松林がおますやろ。そやおまへんがナー。それは鉄道のすぐ向うだすやろ。それよりももつとずつと向うに、さうだすあの多武の峰の下の方にうつすらした松林がありますやろ。さう/\。あこだす、あこが神武天皇様の畝傍山(うねびやま)だす」
 娘の顔はます/\いき/\として来る。

(「斑鳩物語」)

 魅力的な少女と、何気なく寄り添いながら外の景色を共に眺めるシーン。この場面を、木下は、〈お道さん〉かどうかもわからない宿の女中さん相手に、一生懸命再現しようとしていたのです。その上やっぱり、本物の〈お道さん〉の所在も確かめずにはいられません。

晩飯の時来た女中は人のよさゝうな淋しい二十六七の女であつたが此の人に「去年の春高浜さんと云ふ人が来たのを知つてるか」ときくと「知つて居ります、高浜清さんと云ふお方?」と云つた。「お道さんと云ふ人が居たのか」ときくと、「あの時分は居ましたがもう居りません」と答へた。此の女中は矢張「斑鳩物語」に出て居たも一人の方の女中だ。(後略)(木)
(『寺の瓦』 同前)

 自分の大好きな作品の舞台。それと同じ空間に、自分も今まさにいるという感覚は、いつの時代の人にとっても、一種特別の感慨があるに違いありません。だからこそ、映画のロケ地めぐりや文学散歩が、いまだに、一定程度の人気を保っているのでしょう。
 しかし、明治のこの時代には、まだ、そうしたツアーがあるわけでもなく、ガイドブックが売り出されていたわけでもありません。それが、ここまでドンピシャリと、モデルの宿を探し当てる事が出来て、実際の登場人物の1人と話まで出来たわけですから…。虚子好きの3人にとっては、こんな贅沢な経験は、またとなかったに違いありません。

* * * * * * * *

 そこで、すっかり嬉しくなった彼らは、“それじゃ、虚子に手紙を出そう”と思い立ちます。 いわば〈ファンレター〉なのですが、こちらの場合も、当時、それに類する言葉はまだありません。愛読者だからといって、一面識もない作家に手紙なんか出していいの?というためらいも、若干はありました。
 でも、そこはやっぱり、若さゆえのノリの良さ。食事をしたあと、里見は旅の疲れが出て先に休みますが、木下と志賀は文案をひねりはじめます。

○虚子へ手紙を出さうではないかといふ事になる、文章は木下先生に御願ひする事になつた。
先生先づペンを取つて、想をねられる事多時、ねそべつた足を縮めて、坐ると「日本精華写真目録」の裏へ、下書をやつて見られる、先づ、

 法隆寺の夢殿の大黒屋の二階にとまつて「斑鳩物語」の事を思ひ浮べました。

とやつて見られる。どう思はれたか、間に───と一本線を入れて、

 四月三日神武天皇祭で人出の奈良を出て法隆寺の大黒屋に参りました。 「斑鳩物語」にあつた、あの二階の室に導いて貰ひました。

これまで書いた時先生は顔を挙げられ、「『ました』はどうだらう、いツそ、『何々する、何々した』と横柄にやるかネ、隊長どうだネ」と仰せられる。「サア」と隊長と呼ばれた方が考へて居られる内に、「まア先を書いて見よう」と、

 夕ぐれでしたが畝傍も見え金剛山も見えてしづかなおだやかな眺めでしたが未だ早いので梨の花は咲いて居ません、二階の欄干によつて、「斑鳩物語」を思ひうかべ去年こゝに居られた

此所で又会話が入る。「オイ何ンとしよう?貴方かネ。貴方もへんだネ。足下、御貴殿も変だし、君も悪い、尊公。汝。矢張り貴方かナ」と、

 貴方の事も思ひ浮べました。

「出来たよ、読むで見ようか」とあつて、一ト通り朗読せられる。
余り名文でもない。先生にしてモウチツといゝ文の書けぬ筈はないと思つたから「虚子へやるといふのでチト上りの気味でございますナ」と申上げると「夏目さんなら少し〔は〕ヒケを取るけれどもナニ虚子なら」と大きな事を仰せある。 (志)

(『寺の瓦』 同上)

 志賀が“少しアガッてるのかい”とからかうと、“夏目漱石にならともかく、なあに、僕が(文章で)虚子にひけをとるものか”と木下。なかなかに意気軒昂です。
 さて、それからもしばらく苦心して、結局ハガキ1枚に1時間以上もかけてなんとか本文を決めて、さて次の日。元気を取り戻した「山内さん」(里見)も加わり、今度は、差出人の名をどうするかで、またひと悶着です。

さて、此方の名は何んとしようとなつて、「愛読者?」「気障(きざ)だ!」となる。山内さんが、「ぢや、オヤヂヨリはどうだ」と仰有(おっしゃ)る。それは笑談(じょうだん)だが、三人とは如何となつて、たゞ三人として、〔もし〕誰れだらうと考へると悪いと(随分御苦労な心配だが)結局「御存知なき三人」「法隆寺 夢殿前大黒屋より」とした。 (志)
(同上)

 紙の向こう側の相手に、ああ思うか、こうも思うかとみんなで気を回して苦心惨憺。「近頃(※昭和初期)の文学青年が、原稿を読めの、字を書けの、書生に置けのと、先方の都合などいさい構はず、原稿紙に鉛筆の走り書きかなんかで、勝手な熱を吹ツかけて来るのとは大きな違ひで、我ながら可愛らしいものだつた」(「青春回顧」『中央公論』昭和11年(1936)9月)と、のちに里見は回想しています。

 その上、書く側はこんなに大層な苦労をしても、受け取った当の虚子本人には、特別記憶に残るようなものではなかったらしく……。

里見  戦争前だけど、講演たのまれて行ったら虚子さんも出るというんだ。僕は前座さ。虚子さんはおしまいにやるんだろうに、早くからきていて、いちばん前の席にちょこなんと座ってきいてるんだよ。やりにくかったけど──。そこで、例の、大黒屋から虚子さんに出した手紙の話をしたんだ。ここにいらっしゃる高浜さんは、たぶんご記憶はないと思うけど、ってわけでね。みんなで苦心惨憺、一枚の葉書にたいへんな時間を費やしたんだって。そしたら、にこにこ笑ってきいていたっけ。でも、憶えがないようだった。
(「対談 明治の青春」志賀直哉・里見 弓享 『海』昭和45年(1970)2月)

 「〈もうめんたリズム〉…」第1回でもご紹介しましたように、この〈明治の青春〉対談は、志賀が87歳、里見82歳の時の(それも、志賀にとっては最後の)対談。にもかかわらず、この時、2人は、この手紙の事をはっきり思い出して、嬉しそうに話をしていたのです。
 ですから、このファンレターの一件は、たとえ虚子には憶えてもらっていなくとも、彼らにとっては素晴らしく夢中になれた、新鮮な経験だったに違いありません。

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(15)虚子のストーリーと〈許されざる恋〉

 ところで、こうして、彼ら3人の日記・回想だけを見てゆくと、これは明治の若き虚子ファンの愉快なエピソード、というだけで済んでしまいそうです。
 しかし、改めて、では「風流懺法」や「斑鳩物語」は、彼らにとってどこが面白く印象的だったのか?と考えてみると、これは、単にユーモラスな旅の一挿話というだけではおわらないように思われるのです。

 例えば「斑鳩物語」の方です。もうめんたリズム3人組が、さり気なく、その後を知りたがっていた〈お道さん〉。ハガキ本文を書いた翌朝、彼らは朝食前に、こんな会話を交わします。

「実アね、昨夜(ゆうべ)、お道さんの行衛(ゆくえ)が訊(き)きたかつたんだけれど、きつとまた隊長に、どツと来られるだらうと思つて、我慢して了(しま)つたんだ」
「何しろ、ふた言目には、よせよ、と来るからね。木ノ君、ずゐぶん食(くら)つたぜ」
「さうでもないさ。お道さんの行衛なんぞ、聞いてみれアよかつたんだ」
「お。これはまた、存じもよらぬ、御寛大なるおん仰せ、──珍しいことがあるもんだ」
「雨も降る筈さ」
「実ア俺も、どんな人か、ちよつと訊いてみたい気はしてゐたんだ」
「どんな人、とは、容貌かね」
「まア、さうだね」

(『若き日の旅』十二)

 女性の事では変に照れ屋で、友だちが女の子を見つめるのにも“もうよせよ”と制限をつける志賀でさえ、〈お道さん〉の行方は気になる様子。結局、給仕に出た女中から、〈お道さん〉は三輪に近い田舎の方にお嫁に行ったと聞かされるのですが、では、その彼女について、虚子は、どんなお話を語っていたのでしょうか。

 「斑鳩物語」の〈佳境〉のシーン。それは、主人公〈余〉が、法起寺の三重塔を登ってゆく場面です。
 うっかり、寺の小僧さんに“塔の上にのぼりたい”と言ってしまったものの、中を見てみると階段どころか、二階から上には床さえ無く、その先は梁(はり)や柱に手足をかけてよじ登ってゆかねばなりません。それでも、言い出した以上あとへはひけず、スイスイ登る小僧さんの後を何とか追って、スリル満点、身もすくむ思いでようやく三重目の屋根にはい上がりました。しかし、一息ついて外を見ると、はるか下の菜の花畑では、思いもかけない光景が…。

「又来くさつたな。又二人で泣いてるな」
と小僧サンは独り言をいふ。見ると其塔の影の中に独りの僧と独りの娘とが倚り添ふやうにして立話しをして居る。女は僧の肩に凭れて泣いて居る。二人の半身は菜の花にかくれて居る。
「あの坊さん君知つてるのですか」
「あれなあ、私(わし)の兄弟子の了然(りょうねん)や。学問も出来るし、和尚サンにもよく仕へるし、おとなしい男やけれど、思ひきりがわるい男でナー。あのお道といふ女の方がよつぽど男まさりだつせ。あのお道はナア、親にも孝行で、機(はた)もよう織つて、気立もしつかりした女でナア、何でも了然が岡寺に居つた時分にナア、下市とか上市とかで茶屋酒を飲んだ事のある時分惚れ合つてナア、それから了然はこちらに移る、お道はうちへ帰るししてナア、いまでもあんなことして泣いたり笑つたりしてますのや。ハヽヽヽヽ」
と小僧サンは無頓着に笑ふ。

(「斑鳩物語」)

 あのお道の恋人が、何と寺の坊主とは…。あまりの意外さに、〈余〉が黙って下を眺めていると、やがて何か気持ちに行き違いがあったのでしょうか。了然の話を聞いていたお道が、急に、持っていた包みに顔を押しあてて泣きだします。

「了然は馬鹿やナア。あの阿呆面(あほづら)見んかいナ。お道はいつやら途中で私(わし)に遇ひましてナー。こんなこというてました。了然はんがえらい坊(ぼ)んさんにならはるのには自分が退(の)くのが一番やといふ事は知(しつ)てるけど、こちらからは思ひ切ることは出来ん。了然はんの方から棄てなはるのは勝手や。こちらは焦がれ死にに死ぬまでも片思ひに思うて思ひ抜いて見せる。と斯(こ)んなこというてました。私お道好きや。私が了然やつたら坊主やめてしもてお道の亭主になつてやるのに。了然は思ひきりのわるい男や。ハヽヽヽヽ」
(同上)

気丈そうな娘も、陰では人知れず、思うにまかせない恋に泣いている。「涙にぬれて居る(お道の)顔が菜種の花の露よりも光つて美くしい。(中略)了然といふ坊主も美くしい坊主であつた」。菜の花と、明るい春の光のイメージとがあいまって、夢のような余韻が残るシーンです。

 さて、ここでお気づきのことと思いますが、若い僧侶と娘との、許されざる恋…というプロットは、「風流懺法」の一念・三千歳の関係と、ほぼぴったり重なります。例えば、今は無邪気な三千歳も、お道くらいの年頃になった時には、やはり、もう、一念とこだわりなく会うことはできなくなるでしょう。一念は修行の身ですし、三千歳は花街に生きねばならない女性だからです。その時彼女が、お道と同じような、またそれ以上の悲しみを味わうだろう事は、容易に想像がつきます(※注14)。つまり、「風流懺法」と「斑鳩物語」は、ちょうど一対の物語なのです。

 そしてまた、こうした角度からこの2作品を捉えかえしてみると、もうめんたリズムの3人が、話のどこに強く心魅かれていたのか、想像がつく気がします。一見、彼らは、可憐な少女たちに憧れていただけのように見えますが、実は、その少女に同情を寄せるというかたちで、彼女と決して恋仲になれない若い僧の方に、自らの姿を無意識に重ね合わせていたのではないかと思われるのです。

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 志賀直哉はこの旅の前年に、のちに「大津順吉」(明治45年(1912)発表)に書かれる、女中〈千代〉との結婚騒動を経験していました。ただし、〈千代〉が実家に返されたあとも、志賀は自分の小遣いをやりくりして彼女を裁縫女学校に通わせており、卒業後には結婚するつもりでいました。しかしその後幾度か会ううちに、そもそも相性的に彼女とはうまくいきそうもないという事を、彼は予感しはじめます(阿川弘之『志賀直哉』上)。それが、この旅の時期とも重なります。
 「大津順吉」は、「自分の生涯にはもう到底恋というような事は来はしない」と主人公が思う、という出だしではじまりますが、実際、その不幸な感覚は、30歳を過ぎて結婚するまで、志賀の心につきまとっていたと思われます。

 また、木下利玄は、自分にとっての結婚とはおそらく大名家の家系を維持するためのもので、好いた女性と結ばれるなどということはあり得ないのではないかという不安を、いつも心のどこかに抱えていたものと思われます。彼は幼少の頃から、常に、非常に厳格な後見人の管理下におかれていたからです。

 そして里見 弓享も、面立ちこそまだ少年顔を残していましたが、やはりこの前年から、自家の、親子ほども離れた年上の女中と肉体関係が生じ、自分自身にも男女関係そのものにも激しい幻滅を味わっていました。加えて、その関係を親友にすら隠している(虚栄心から隠さざるを得ない)事も、彼には非常な重荷であり葛藤でした。ですから、自分はごく普通の意味で“恋をする”とか、年頃の青年らしい恋愛感情を味わうことは一生ないだろうと、この時期は真剣に思いこんでいたのです。

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 自分にとって〈恋〉とは、結局、見果てぬ夢のようなものではないか──。そうした悲哀を心の奥にたたんでいたからこそ、彼らは僧侶と娘との淡い恋物語に魅かれ、また互いに同じ作者への好みを共有することが出来たのでしょう。
 それに、その僧侶が、どちらも知的な学問僧であることも(「風流懺法」の一念も、才気煥発で、学問の道に進むことを和尚から期待されている事が、作中で暗示されています)、一面ではきわめてストイックな芸術志向を持っていた彼らの心に、ぴったりとマッチしたのだと思われます。

 このように見てゆくと、〈もうめんたリズム〉の旅の、“高浜虚子の足跡をたどる”という隠しテーマには、意外に重要な意味があった、という事が出来るでしょう。ミーハーに見えるその行動にも、彼らの心の底にたまった悲しみの澱(おり)を、わずかながらでも浄化するという大事なはたらきが、きっとあったに違いありません。彼ら自身は、まったく気がついていなかったことでしょうが…。

(続く)

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【注】

13.里見は、のちに「青春回顧」(『中央公論』昭和11年(1936)10月号)で、当時の上方への憧れを、次のように語っている。まさしく、「風流懺法」中のシーンがイメージの源泉となっている。

 既に本誌(『中央公論』)で、若い頃の己を語つた谷崎、長田(幹彦)の両氏ともに、上方放浪の條(くだり)があつたが、期せずしてほゞ同じ時代に、「白樺」同人中の三四人にも、おつとりとした彼地(むかふ)の遊びが、思ひのほかの魅力となつてゐたものだ。(中略)東京の遊びには、枚挙に遑(いとま)ないほどの教科書があつて、好奇心は、かへつて寧(むしろ)、どの程度まで自分の豫備智識が役だつか、といふ点にあつたとも云へないことはないくらゐだが、上方となると、高浜虚子氏の「風流懺法」その他、寥々(りょうりょう)暁の星の如きものだった。それも「ホトトギス」派の写生文式で、「髷(まげ)は?」「京風」「帯は?」「だらり」といふやうな会話で、あつさり、綺麗ごとに描写されてゐるのだが、それだけになほ、夢の淡(あわ)さながら、憧憬(あこがれ)に似たものを感じさせられてゐた。

14.なお、高浜虚子は、三千歳と一念のその後を書くという形で、「続風流懺法」を明治41年(1908)5月に執筆。また、10年以上を経た大正8年(1919)から9年にかけて、「風流懺法後日譚」を『ホトトギス』に連載した。虚子が、この2人の行く末について、関心を持ち続けていたことが窺える。
ただし、「続風流懺法」の方は写生文の方法を守っていて、三千歳と一念の関係にほとんど発展はないが、「…後日譚」は、虚子が10年後の2人を想像してつくりあげた、まったくのフィクション。そのため、物語として起承転結はついているものの、前作のような会話の妙などはなく、よくありがちな感傷的な悲恋ものになってしまっている。

※補注…このページ一番下のイラストの中に描かれた赤い箱は〈書状集箱〉。郵便箱の先駆形。明治4年(1871)に設置されはじめた当初は黒色だったが、明治34年(1901)頃から赤色に変わった。理由は、当時はまだ街灯が少なく、黒では薄暮の時間に見つけづらかったため。


【引用について】(今回の引用)
・高浜虚子
「風流懺法」  日本詩人全集2『正岡子規・高浜虚子』 新潮社 1970年・第3刷
「斑鳩物語」  日本現代文学全集25『高浜虚子・河東碧梧桐集』 講談社 1964年


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