HOME

白樺派の休日〈演劇編〉 (2004/04/12 Up)

・はじめに
1.白樺派の〈隠し芸大会〉
2.2.〈バンドマン一座〉と〈ゲーテ座〉
1) 東洋めぐりの〈バンドマン〉  2)〈ゲーテ座〉と園池公致の「驢馬(ろば)
3) 居留地への橋を越えて
3.浅草芝居にも紛れ込み
4.〈東京〉の芝居について
5.変わる歌舞伎界
1) 〈お役者〉から〈俳優〉へ  2) 熱心な青年観客  3) 〈自由劇場〉誕生の声
6.〈文芸協会〉と白樺派
1) 里見・園池コンビの「低級批評」  2) 東儀鉄笛との不思議な縁

7.学習院での大芝居
1) スパイドラマ・〈ブクワン事件〉
2) 志賀直哉作のエンターテインメント
8.変化の波の出会うところで

 

目次ページへ

7.学習院での大芝居

1) スパイドラマ・〈ブクワン事件〉

 さて、『白樺』に集った青年たちは、みんな根っからの新しがり屋で、〈創る〉ことにかけても、やる気充分。ですから、芝居だって、本当に自分たちでつくってしまいました。
 時は明治38年の夏。後に同人となる人のほとんどが学習院に在籍しており、『白樺』すらまだ存在していません。もちろん、〈文芸協会〉も〈自由劇場〉も興っていない時期の事です。 そんな時期に、彼らが芝居をやったというお話ですが、何と言っても、その題材がすごい。なにせ、学習院の中で、〈露探〉(ロシアのスパイ)の話をお芝居にしてしまおうというのですから!しかも、どうやら、“言い出しっぺ”は志賀直哉らしいのです。

 このお芝居については、昭和31年の『心』1月号、「学習院時代を語る」という座談会の中で紹介されています。明治38年から時は流れて約半世紀。彼らの多くはすでに70代でした。
 座談会出席者は、志賀直哉・細川護立・武者小路実篤・園池公致・柳宗悦・里見弓享・長与善郎の7名です。
(座談会の流れを一目でご覧になりたい方は、ここをclick!)

 (前略)
志賀  ──細川だの何んだのが芝居をやつた話をやらうよ。
長与  それはいつごろだい。
志賀  ぼくの一つ上の級が卒業するのを送る会だね。
 (中略)

細川  あの時は急にやるといふんでね、脚本もないんだ。
志賀  露探のブクワン事件というのがあつてね、フランス人のブクワンといふのが露探だつた、それが逗子か何かの海岸で日本の青年に殺されるといふ、際物なんだよ。
里見  おれは見てるよ、ちやんと。
 

 〈露探のブクワン事件〉とは?実はこの事件については、日露戦争関係の本を調べてみても、ネットで検索しても、なかなか関連記事をみつけられず、正直、困っていました。そして諦めかけた時、やっと該当の記事を探し当てたのですが、それは〈アレキサンドル・ブグアンの軍機保護法違反事件〉…。半世紀前の外国人名ですから、志賀直哉もすでにうろ覚えだったのか。それともテープ起こしの人が、発音だけ聞いてそのまま表記してしまったのでしょうか。  

 それはさておき、概要を簡単にご説明しますと、アレキサンドル・ブグアンなる人物は、かつてはフランスの陸軍大尉でしたが、明治の初期には、日本の陸軍に招聘されて教官をつとめた事もある人物でした。(ただ、“アレキサンドル”という名前から推すと、おそらくロシア系の人だったのでしょう。)
 その後、いったんはフランスに帰ったものの、明治26年に再び来日し、その後は東京で商工業代理業を営んでいたそうです。
 ところが、明治37年に日露戦争が勃発すると、やはり彼は、日本よりロシアに勝たせたくなったのでしょうか。同居人の〈ストレンジ〉や、商業使用人だった〈牧宏(まき・ひろし)〉らと協力しながら、日本陸軍師団の動向に関する情報を収拾し、それを数回にわたって、フランスの新聞社やフランス陸軍大尉などに通報したというのです。
 しかし通報は発覚し、ブグアンと牧は拘束。主犯ブグアンは、東京地方裁判所において、重懲役10年の刑を言い渡されました。これが、主ないきさつです。
(ブグアン事件判決記事は、ここをclick。)

 この事件、判決が明治38年7月10日だったとの事で、この点は、志賀の〈芝居〉の回想と時期がピタリと一致します。明治39年卒業の志賀直哉が“一つ上の級が卒業するのを送る会”だったと言うのですから、それは、明治38年の事だったはずです。
 また、当時の学習院の学期割りは、今の欧米とほぼ同じで、夏休み前の7月10日に学年が修了、9月1日からが新学期と決まっていました。判決報道自体は7月12日ですが、その少し前から事件が明るみに出ていたとすれば、遅くとも7月はじめまでには、世間周知の事件となっていたと思われます。まただからこそ、志賀直哉は、アップ・トゥ・デートなこの事件を、“熱いうち”に急いでお芝居に仕立て上げようとしたのでしょう。

 ただ、この事件は、志賀たちが言っている〈芝居〉とは、まったく別の結末を迎えたようです。しかもそれは、“卒業生を送る会”から数日後のことだと思われます。

 判決報道から5日後の、7月17日付の報知新聞には、次のような短い記事が載りました。

フランス人スパイ、懲役執行免除に

 軍記保護法違反を以って、重懲役十年に処せられたる仏国人ブグアンは、昨日午前、東京地方裁判所に召喚せられ、午後一時、奥宮検事正、左の特赦状を朗読し、直ちに引き取らしめたるが、同人は一昨日までに控訴期間満了し、昨日より刑の執行を受くべきものなりしが、今や優渥(ゆうあく)なる聖恩に浴して、青天白日の人となる。ブグアンたる者、その自家既往の非行に顧みなば、必ずや慙愧(ざんき)措く所を知らざるべし。

  特典を以て、重懲役囚アレキサンドルイッチ・ブグアンを放免す。併せて監視を免ず。
   明治三十八年七月十六日     内閣総理大臣 桂 太郎

 こうして、ブグアンは7月16日付けで無事放免。その後日談も特に無いようです。でも、7月10日かそれ以前に学習院で上演されたはずの芝居では、〈ブクワン〉は逗子の海岸で日本人青年に撃ち殺されてしまいます。また、この芝居の方では、“ブクワンを殺す青年の愛人”なる女性がストーリーに絡んだらしいのですが、判決記録を見る限り、当の事件に女性が関わった気配はまったくありません。

 

* * * * * * * * * *


 それにしてもこのスパイ事件、何だか釈然としない事件です。なぜ、重懲役という重い判決を宣告された被告たちが、こんなに早く特赦を受ける事ができたのでしょう。〈総理大臣・桂太郎〉の名においての特赦で、しかも「監視を免ず」と明記されています。そもそも約10年前とはいえ、ブグアンは、一度は日本陸軍に奉職していた人。それがこんな事件を起こしてしまって、軍のスキャンダルという事にはならなかったのでしょうか?

 それに実は、この時点では、日露戦争は終わっていません。5月には一応、日本海海戦で勝っていたものの、歴史の流れとしては、この後の8月に日英同盟調印、そして9月にやっとポーツマス条約締結です。
 ですから、まだこの頃は、戦争がどのような形で終結される事になるか、微妙な時だったはずです。そんな時に、スパイ嫌疑で有罪となった人が〈青天白日〉の身となってしまうというのも、不思議な話です。

* * * * * * * * * *


 しかし、ではこの〈芝居〉の方は、内幕暴露的なものか、それとも公権力の暗部を鋭くえぐるものか、といえば…もちろん、元々脚本もないという事なので、今や実像はまったくわかりませんが…そういう、今時の研究好みのシリアスなものでは全然なさそうです。

 日露戦争中の新聞には、“日本将校がロシアでスパイとして銃殺される話”等の、戦争逸話的な記事が幾度も掲載されていました。また、いわゆる三面記事にも、例えば、嘘か誠か、“夫婦喧嘩から夫のスパイがばれた話”などが書き立てられた事もありました。
 おそらく志賀直哉は、それらの逸話をアレンジしながら、外国小説の愛読などで培われた想像力を発揮して、インサイド・ストーリー風のお芝居を創り上げたのでしょう。それも、実録歌舞伎の手法をつかいながら、事件としてはもっとも生きのいい(結末もついていない)状態のものを、〈舞台〉という俎上に挙げた──という事だったのだと思います。

Page Top

2) 志賀直哉作のエンターテインメント

それにしてもこの舞台、今からふり返ってみると、ある意味で“ものすごい”キャスティングでした。百聞は一見に如かず。先ずは、続きをご覧ください。

志賀  それをやつてね、ブクワンには三島彌吉がなつてるんだよ。細川が……
細川  ぼくは殺す役なんだ。
志賀  齋藤が愛人でね。
細川  ぼくの愛人。
志賀  裏松が仕出し役(※チョイ役の事)でね、日比谷公園のベンチに腰掛けてね。裏松はね、それまでに本統の芝居といふものを、一遍も見たことがない、といふんだ。それでもね、演説なんかやるはうで、心臓は強いはうだからね、日比谷公園の場でベンチに腰かけて、見廻してね、「ずゐぶん、きみ、日比谷公園だね」なんて言つてね。(笑)
細川  今の言葉でいふと、志賀が演出なんだ。書割がちやんとあつてね。北尾がおどろいてたよ、いつてみたら、入り口に武者が立つてゐて、入り給へ、見給へ、と言ふくらゐならいいけれども、「おい、見ろ」と言ふ。あんなのないよ、と言つてた。

 まず、スパイのブクワン役が、三島彌吉。この人は、後に外交官となったらしいのですが、そのブクワンを殺す日本人青年を演じたのが、細川護立(もりたつ)です。初期の『白樺』で、会計掛を担当していたこの人は、実は、細川侯爵家の令息。熊本の細川氏といえば、南北朝時代から続く名高い大名家です。(元総理大臣・細川護煕(もりひろ)氏のお祖父さんでもあります。)
武者君の呼び込み…ぶっきらぼうすぎます また、女形として日本人青年の愛人に扮したのが、斎藤博。彼も後に、外交の道に進みました。ベルサイユ講和会議やロンドン軍縮会議にも日本代表と共に出席した、歴史に残る外交官です。
 それからチョイ役で出た〈心臓の強い裏松〉は、裏松友光(うらまつ・ともみつ)。武者小路実篤の従兄弟で、言うまでもなく公家華族です。学習院高等科に入った頃には、武者小路と協力して〈桜心会〉という校風会を立ち上げるなど、積極派の青年でした。(裏松家の由緒と歴史的役割については、「先祖は御所のウォーリアーズ」の中で若干触れています。)

 しかも、会場の表に立って〈呼び込み〉をつとめていたのが、武者小路実篤!これはまさしく、超レアな芝居と言えるでしょう。
(だけど、「おい、見ろ」って……それでは単なるコワいお兄さんでしょうに。) A(^_^;)

* * * * * * * * * *


志賀君、ちゃんとメイクできる? さて、一方、芝居の組み立てと進行を一手に引き受けていた志賀直哉ですが、こちらの方も大変だったようです。何せまったく経験がないのに、口立て(くちだて)で友だちにセリフと演技をつけて、そのうえ女形まで仕立てようというのですから…。

志賀  着物と顔は、ぼくが引受けた。その前歌舞伎座の楽屋で梅幸が夕霧の顔を作るところを細川と一緒に見てね、非常にていねいに見たんだ。だから、ぼくは顔をつくるのは自信を持つて引受けた。
細川  引受けたといふけれども、斎藤の顔は脂があるもんだから、ピカピカ光って、白粉が……。
志賀  つかなかつたね。あとで聞いたら、びんつけ油を塗つとかなきやいけないんだね。そこは見てないからね、知らないんだ。弱つちまつたよ。着物は正親町の姉さんだか妹だかの着物を持つて来て着せたんだけどね。日比谷公園のベンチの所で、その愛人と細川とが会ふんだ。さうすると斎藤がグニヤグニヤして身体(からだ)で寄つていくんだよ。細川が気味悪がつて可笑しかつた。  

 “歌舞伎座の楽屋で、梅幸が夕霧の顔を作るのを見て”というのは、多分、木下利玄の回想と同じ時の事でしょう。木下が鬘を見せてもらっている間に、志賀と細川は梅幸の化粧の様子に目をこらしていたと見えます。それで、自信をもってメイクをひきうけたはいいけれど、“斎藤の顔は脂があるもんだから、白粉がつかない”って、……斎藤君、どんな顔で舞台に立つ羽目になったのでしょう?(※注7)
 また、配役に名は出ていませんが、正親町公和(実慶の兄)も、女きょうだいの着物を衣装として失敬してくるという形で、この芝居に一枚加わっていたようです。

細川  それでね、非常に困つたんだよ。海岸の場で、ピストルを撃つ筈だつた。それを忘れちやつてね、射てないんだよ。それで三島の耳のそばへ口を寄せて「死んでくれ、死んでくれ」つて言つても、死なないんだ。(笑)
武者  「まだ生きてるんだ」つて言つてたね、彌吉が。
志賀  それで、とにかく彌吉が死んで、仰向けになつたんだよ。そこで細川が慶久と二人で立廻りを始める。ガタガタ、立廻りをして死骸を踏ンづけさうになる。寝てる死人が身体をずらして逃げてゐたよ。(笑)

 ピストルは打たない、相手は死なない。すっかりきっかけを外して、舞台の上で役者が敵役に(死んでくれ!)とささやく始末。その上なぜか、ブクワンが死んだ後で、日本人青年の方に“立廻り(格闘)”シーンが用意されていたようなのですが、その立廻りの相手の〈慶久(よしひさ)〉とは、誰あろう、徳川慶久。あの最後の将軍・徳川慶喜の嗣子なのです。
 細川さんの息子と将軍・慶喜さんの息子が立廻りをやって、死体のはずの三島君が踏まれそうになって、背中でズリながら逃げ回る。。。まさに、ステージは混迷の度を深めていったと思われますが、そこへ登場するのが、かの木下利玄です。

細川  柳行李に小豆を入れて波の音を出したのは、誰だい。
武者  忘れたなあ。
志賀  大きに、こつちなんかが引受けたのかも知れない。こつちは作者だから、幕をしめたり、拍子木を打つ役なんだ。さうしたら木下がシナ人になつて、そいつが大いに芝居をやつてね、蛇ノ目の傘か何か持つて五人男みたいな格好して、バカに調子いいんだ。
長与  木下はまぢめだよ。
 (後略)

 颯爽とあらわれ、蛇の目を開いて、白波五人男ばりに大見得(おおみえ)をきる……のがシナ人(中国人)だというのですから、このお話、プロットは一体どうなっていたのでしょうか?

 しかし、(多分)わからなくなって来つつある観客をよそに、志賀直哉はこのお芝居で、裏方に徹して大張り切りです。衣装係をやる、役者に芝居をつける、書き割りも作る、メイクもひきうける、柳行李に小豆を入れて波の擬音も出す、幕をしめる、拍子木をうつと、八面六臂の大活躍。まさに、〈おだて屋・志賀〉〈興行師・志賀〉のパワー炸裂です。

 このお芝居、さらに先を知りたい所ですが、彼らの回想はここまで。あとは話題が別な方へ移ってしまいましたので、結局、結末はどうなった事やらわかりません。でも、もう、二度とない顔合わせの、ただ一回きりのお芝居だった事は間違いありません。

カーテンコールは皆一緒に

Page Top

8.変化の波の出会うところで

 日本の明治40年代前後、西暦の20世紀初頭頃には、国の内外から、様々な変化の波が押し寄せていました。
 潮の入り交じる所では、いろんな種類の魚が集まり、しかも大きくなります。それと同じで、特に東京という場所には、いろんな所から青年たちが集まり、それぞれに自分の過去や背景を背負いながらも、“変わりたい”“新しい生き方をしたい”“何かに挑戦したい”という情熱に燃えていたのです。

 そして、白樺派は、決してその傍観者などではなかったし、外側からそれを“理解”したのでもありませんでした。彼らもまた──というより、彼らこそ、四方八方からの変化の波を受けて、真っ先に新しく生まれ変わっていった青年たちなのです。トラディショナルな伝統と、最先端のポップカルチャーと、両方の世界に同時に立脚しながら、そこから吸収したものを自分の中で融合できる。そうした、滅多にいない人たちが、〈白樺派〉を形成したのだと言えるのではないでしょうか。

 ですから私などは、今や、正直なところ、このテイストが〈白樺派〉だと思っています。また、白樺派の書き残した様々な戯曲も、従来の〈純文学的〉とか〈思想性〉とかいった堅苦しい枠組みをいったんはずして、新解釈で演出し直してみたならば、作品の新しい価値が見えてくるかも知れない、と考えています。

* * * * * * * * * *


 なお、最後に、『白樺』同人と演劇との関わりがどうなっていったか、覚え書き的に書き添えておきましょう。  

 まず、毎晩のように横浜のゲーテ座に通い、西洋に行きたがっていた郡虎彦について。彼は、その後、同人の中では一番舞台に縁の深い生き方をします。彼はもともと、戯曲風の作品を得意としてきましたが、明治45年には、わずか22歳で〈自由劇場〉第6回公演のための戯曲「道成寺」をあらわし、戯曲作家としての本格デビューを果たしました。舞台は帝国劇場。そして主演は市川左団次、演出は小山内薫でした。
 その翌年、郡はヨーロッパに渡り、後半生を彼の地で過ごすこととなります。彼は、英語でオリジナル脚本を書き、またそれが英国で演じられて高い評価を受けた、日本人初の国際的な劇作家でした。代表作は「ソウル・エンド・ダヴィッド(王争曲)」「カナワ(鉄輪)」「ザ・トイルス・オブ・ヨシトモ(義朝記)」など。このうち、「カナワ」はロンドン・クライテリオン劇場で、また「ザ・トイルス・オブ・ヨシトモ」はリトル・シアターで上演され、好評を博しました。1917年(大正6)の「カナワ」初演では、郡は自らステージに立ち、作者として堂々とプロローグを語ったといいます。
 しかし、本来病弱だった彼は、渡欧してからも、常に、肺の持病と闘いながらの苦しい創作を続けなければなりませんでした。
 そしてついに1924年(大正13)9月、志なかばで、スイスの保養所で客死します(34歳)。それでも、早すぎる死までの約10年間、彼の側にはイギリス人女性ヘスター・セインズベリーが寄り添い、彼の健康と仕事を献身的に支えてくれました。 その意味で彼は、この世でかなえられるだけの夢はすべて、実現していったと言えるかも知れません。

* * *

 里見 弓享 も、生涯を通じて、演劇には縁の深い人生を送りました。代表作『多情仏心』にも、歌舞伎界の人間の事が活写されていますが、また自らも、初代・中村吉右衛門の求めに応じて、『新樹』という現代劇を書き下ろしています。
 〈文学座〉での舞台演出も多数。甥の森雅之(有島武郎の長男・行光)の舞台を演出した事もあります。晩年は、同じ鎌倉に住んでいた小津安二郎とも交友があり、その縁で、小津は、里見作『秋日和』を映画化しました(昭和三十五年)。 なお、里見の四男・山内静夫氏は、小津時代からの映画プロデューサーで、松竹・大船撮影所で長らく活躍した方です。

* * *

 青年時代、あれだけ様々な芝居や芸能に入れ込んだ志賀直哉は、不思議と、ほとんど戯曲の類は手がけていません。学習院時代のあの頃が、情熱のピークだったのでしょうか。ただ、彼の小説『赤西蠣太』『暗夜行路』などは、後に映画化されています。
 一方、友人に導かれるようにして演劇の世界に開眼した武者小路は、志賀とはまったく逆に、数多くの戯曲を創作しました。演劇のために書いたもの以外にも、対話形式の詩や短文まで含めると、数え切れないほどの本数になります。“登場人物がダイアローグ(対話)する”という形は、よほど、武者小路にとって、構想を展開するのに適した形式だったのでしょう。
 実際に演じられた作品で、有名な例としては、大正6年3月に初演された出世作「その妹」が挙げられます。この時演じてくれたキャストたちは〈舞台協会〉のメンバーでしたが、彼らは、かの〈文芸協会〉の第一期生。そして、ちなみに監督は、「路傍の石」の山本有三でした。
 〈新しき村〉の生活に入ったのちも、〈村の会場〉や〈新しき村演劇部〉を作り、演劇活動を繰り広げました。彼自身も〈だるま〉の役などを演じて、会員と共に楽しみながら舞台を創り上げていたとの事です。

* * *

 そして、観劇のシーンには必ずといっていいほど登場する園池公致。その印象の割に、彼自身は、特に演劇に関する著作は残していません。
 しかし、彼の11歳下の弟に、園池公功(きんなる)という人物がいます。彼は、のちに演劇評論家となった人。一時は帝劇の文芸部に籍を置き、その当時は〈新しき村〉の〈村の会場〉作りにも蔭ながら助力していたそうです。 彼の主な著作には、『ソヴエト演劇の印象』(昭和8年)・『公共劇小脚本集 誰にも出来る芝居の本』(昭和15年)・『素人演劇の方向』(昭和17年)・『工場演劇脚本集』(昭和18年) などがあります。兄の公致とは齢が離れていますから、無論、世代的にも思想的にも関心の違いはあるのでしょうが、しかし“素人の視点”で、素人が参加できる演劇を…という所に、何となく、「低級批評」の筆者の〈普通の眼〉に通じるまなざしが感じられる気がします。園池兄弟については、いずれ、もっと良く知りたいという気がしています。

* * *

 演劇のシーンを中心につづって来た、白樺派のお話。このたびはこれにて、幕とさせていただきます。

(The End)
2004年4月12日

Page Top

7.本論をUpしてからしばらく後に、最晩年の武者小路(80歳代)の文章の中で、この芝居に触れた箇所を見つけた。以下に補足として引用しておきたい。

 斎藤(博)の話をすると一つつまらない話を思い出すので書いておく。
 それは僕の上の級が学習院を卒業するお祝いに僕の級で芝居をした事がある。日露戦争が終ってまもない時の事(※これは武者小路の記憶違い。実際は終結の直前)で、その芝居には露探が出て来て、それが殺されるような話だったと思うが、その芝居に出てくる女形を斎藤がやった。あんまり女らしくやったので問題にした人も出て来た程だった。随分のん気な芝居で、せりふも皆が勝手にその場で口から出まかせに言ったりした。

 僕の又従兄弟で同級生だった裏松友光が日比谷公園の場に出て、友だちとロハ台(ベンチ)で会話をする所があったが、何を言っていいかわからないので「日比谷は矢張り日比谷だね」と迷句を言ってあとまで皆に笑われたのが変に記憶にのこっている。
 ともかくへんな芝居だったが、斎藤が女形になって芝居をやった事は、忘れない。

(「一人の男」 昭和42〜45年『新潮』連載 昭和46年刊)
※引用は『武者小路実篤全集』第17巻に拠る

 この文章を読むと、斎藤博は、意外にも(?)しっかり女形になり切って演じていたらしい。また、エキストラ・裏松友光の、日比谷公園の場でのトンチンカンな可笑しさも、この文でよくわかる。

* * * * * * * *


 なお、上の引用は、武者小路が欧米旅行をした際(昭和11年・1936)に“大使になってワシントンにいた斎藤がさり気なく助力をしてくれた”というエピソードに伴う回想部分。斎藤博もまた、武者小路にとっては、大人になって遠く離れても、亡くなるまでずっと、かけがえのない友人だった。

 斎藤博は相変らずの調子で親しく気軽に迎えてくれた。逢えば昔の斎藤と少しも変わってはいなかった。
 斎藤は僕が学習院の高等科の一年の時、他の学校から試験を受けて入って来た。(中略)斎藤が入学して来た時も三人程入学して来たかと思うが、皆出来た。中でも斎藤は出来て僕の組ではずっと一番だった。殊にお父さんが英語の有名な先生だったせいもあって、英語は図抜けて出来た。(中略)

 斎藤の家は僕の家から一町位きりはなれていないので、さそって一緒に学校に行ったこともあり仲がよかった。斎藤は学問は出来たが、それを鼻にかける男ではなかった。僕とは気楽な仲だった。大使になったからといって威張る男でもなく、僕の方でも遠慮する相手ではなかった。何でも言える相手だった。(中略)

 だが斎藤は僕が逢ったあと一年とは生きていなかった。当時斎藤が一番心配していたのは日本と米国の間が段々わるくなりかけ、戦争になる恐れがあった事だった。しかしその点に就いては詳しい事は聞かなかった。断片的には本気に心配していた事が感じられた。
(「一人の男」 同上 ※改段落は引用者)


Back        Index

HOME