先祖は御所のウォーリアーズ(闘士たち)
─『白樺』をめぐる公家華族子弟たちのルーツ─

written by 銀の星 (2003/09/25 書き下ろし・2003/09/26 Up)

第1章 朝廷の〈謀反〉未遂
(1)江戸時代半ばの公家階級
(2)光格天皇、登場
(3)尊号事件

 

 さて、今回、まよい込んでみる小径は…。

 その小径は、明治時代の〈学習院〉の門を通り、校舎の中までつづいています。白樺派の大半が少年期をそこで過ごした学び舎(や)です。

 でも、この中だけ見たのでは、彼らの学校時代の思い出ばかりで、面白くありませんね。そこで趣向を変えて、このたびは、幕末の京都まで時をさかのぼり、〈学習院〉という名の施設が作られる前後の事情を繙(ひもと)いてみることにしましょう。

 そこには、武者小路実篤や、正親町公和(きんかず)・実慶(さねよし)兄弟や、園池公致(きんゆき)の…、そしてまだまだ、色々な人たちの、お祖父さんや曾祖父(ひいおじい)さんが登場してくるはずです。

 

第1章 朝廷の〈謀反〉未遂

(1)江戸時代半ばの公家階級

 日本にはじめて〈学習院〉という名称の施設が出来たのは、江戸時代も末期の、弘化四年三月九日(1847年4月23日)のことです。場所は〈内裏〉の東・建春門(けんしゅんもん)の、道をはさんですぐ向かい側。建坪(たてつぼ)115坪といえば、現代人にはずいぶん広く感じられますが、しかし計画の上では、すべての公家子弟(約300〜400人)を集める学問所となる予定でしたから、そう考えるとこぢんまりした建物でした。
 でも、手狭とはいえ、〈学習院〉の創設は光格天皇の時代、約半世紀以前からの悲願。開講の運びとなった時には、公卿たちの感激はひとしおだったようです。

 では、どうして〈学習院〉が開講されることが、そんなに感動的な出来事だったのでしょうか?

 ご存じの通り、公家貴族が政治の実権を握っていたのは、平安時代半ばまででした。その後も、一応、官位のヒエラルキーの中では、天皇と公卿が高位であり続けたのですが、内実は徐々に伴わなくなってゆきました。

 例えば就学制度ひとつとってみても、平安期の後半には、〈大学〉の制はすでに有名無実となっていたといいます。治承元年(1177年)(ちょうど「平家物語」発端の頃です)には、京都に大火がおこって大極殿が焼失。この時、大学寮も類焼してしまい、結局、二度と再興される事はありませんでした。

 さらに、武家が政権をうちたててからは、京都の勢力をなるべく無力化させておこうとする政策で、公家階級の学問は衰微する一方。徳川時代には〈禁中並公家諸法度〉で、より一層の規制がかけられました。

 朝廷も、公家も、基本的には、学問をし、伝統を伝えてゆきさえすればよい存在。直接の領地というものもなくなり、領主貴族ではなくなりました。そのかわり、徳川政権は、朝廷・公家全体に対して十数万石分の土地を割り当ててやり、それをまた朝廷が家来である公家たちに割りふるという形にしたのです。
 ですから、豊かな土地をもらい、その年の実りがよければたくさんの収入がありますが、仮に割り当てが痩せた土地だったり、不作の年だったりしても、それはそのまま受け入れざるを得ませんでした。そして、豊かな土地というのは、公卿最高位の五摂家のうちでも、近衛家など、ごく一握りの公家にしか割り当てられなかったのです。

 そして、行動の不自由の極みは、当時の天皇。在位のあいだは、一歩も御所の外に出る事を許されていませんでした。だからもし在位中に亡くなったりすれば、結局、あの、御所の四角いスペースだけが、その天皇(ひと)にとっては世界のすべてということになっていたわけです。


 こう締めつけが厳しいと、逆に、“天皇親政の復古”という、見てはいけない夢を見てしまう者もあらわれます。
 ちょうど十八世紀半ばの頃。山崎闇斎(あんさい)の〈垂下(すいか)神道〉に心酔した竹内式部(たけのうち・しきぶ)という人物は、京都の公家・徳大寺家に仕える傍ら、若い公家たちに『日本書紀』『保建大記』等の書物を講じ、尊皇思想をとなえていました。
 “日本で天子(天皇)ほど貴い身分はないというのに、人々は、将軍の貴いことは知っていても、天子の貴いことは知らない。それというのも、天子に人徳がなく、学問も不足しており、そのうえ関白以下の臣下にも器量も才能もないからだ。もし天子以下、公家が学問にはげみ、才能を備えたならば、人心はまた天子に帰するだろうし、将軍も天下の政権を返上するようになるだろう…”

 ここでちょっとつけ加えますと、天皇に仕える公家たちが『日本書紀』を読むなんて当たり前、と思われるかも知れませんが、徳川政権下では、これは論外のタブー。古代からの天皇制の歴史や正統性を記した書物など、その頃は、天皇さえ読まなかった(読ませられなかった)のです。

 この、当時としては非常に斬新だった発想にのめり込んだのが、式部の主君にあたる徳大寺公城(きんむら)と、有志の少壮公家たちでした。そして宝暦七年(1757)、彼らは実際に、桃園天皇(当時17歳)にも『日本書紀』をすすめ、尊皇思想を進講しようと思い立ちます。
 これは実際に実行に移されたのですが、驚き、憂慮したのは前関白(さきのかんぱく)・一条道香。 なぜかというと、〈関白〉は、この時代には幕府と天皇との間の取り持ち役で、しかも任免は幕府の同意が必要でした。つまり、朝廷伝統の役職であるにもかかわらず、当時は幕府側の意志の代行役だったのです。事実、法的にも、〈天皇の行動を規制すること〉を求められていました(「紫宸殿御条目」第一条)(※注1)

【参考・1】 江戸時代の朝幕間交渉ルート

将軍←→老中←→京都所司代←→禁裏付←→武家伝奏←→関白←→天皇

 このため、〈関白〉の力は、朝廷内では絶大でした。18世紀初頭には、時の霊元天皇が、あまりに関白が自分の意志の障害になるため、下御霊神社に“どうか悪臣の関白を取り除いて下さいますよう”と願掛けをしたほどです。

 というわけで、桃園天皇の時にも、やはり前関白・一条道香と、関白・近衛内前とがのりだして、徳大寺らの進講をやめさせてしまいました。若い天皇は、若い公家たちの方に同情的で、関白たちにも極力抵抗しようとしましたが、やはり、圧力には勝てません。結局竹内式部は京から追放され、彼の弟子だった少壮公家たちも朝廷から一掃されてしまいました。これが、〈宝暦事件〉です。

 これ以降、幕府による公家の教育の監視は、ますます強化されたのです。この事件によって、公家は、しょせん、自分たちの立場をますます苦しくしてしまっただけだったのでしょうか?

 でも、そんな時に、一人の天皇が現れ、風向きを変えるきっかけを作ったのです。

(2)光格天皇、登場

 光格天皇は、当時としては珍しく、天皇の直系からは遠い、閑院宮(かんいんのみや)(※江戸時代にたてられた新しい宮家)から選ばれて即位しました(安永八年・1779)

 〈宮家〉という名称は、それ自体、皇位継承権のなかった親王の家柄だということを示しています。 本来ならば、宮家の、それも第六王子だった祐宮(さちのみや)(※光格天皇の幼名)は、皇位を継ぐ可能性もなければ、宮家を新たに立てる事も出来ないので、いずれは出家してどこかの門跡寺院に入るだけという、限られた未来しかないはずの人でした。ところが、先代の後桃園天皇が22歳の若さで急逝し、息子もいなかったため、急遽、たった9歳の祐宮が、継承者に選ばれることとなったのです。

 その光格天皇、当初は、幼い上に〈先帝御不例の時の御養子〉だからと、一段軽く扱う輩もあったとか。いや、幕府からさえ軽く見られている、という噂までたっていたようです。しかし学問には熱心で、とりわけ、有職故実などの歴史的な勉強に、自ら没頭してゆきました。それはおそらく、周囲の軽視をはねのけたいという思いもあってのことでしょう。

 やがて、伝統に関する知識欲は、いにしえの風儀を復活しようとする強い意志へと変わってゆきました。例えば、新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(だいじょうさい)の古式復活。また、天明の大火災で焼失した御所を再建する際は、幕府の反発を押し切って、平安時代のオリジナルに近いプランで可決させたりもしました。

 なお、この時、復古調御所のプランの基を作ったのは、宝暦事件に関与した罪で永蟄居(えいちっきょ)(※外出を禁じ、一室に籠もらせる刑罰)に服していた裏松光世(うらまつ・みつよ)という人物。宝暦年間から天明八年(1788)に許されるまでの約30年間、ずっと自宅に押し込められていたのですが、そのあいだに古文献や古絵図を詳しく調査して平安大内裏の研究をまとめ上げていたという、気丈な人物です。
 そういう人の研究が日の目を見たのは、ある意味では、宝暦事件で抑えつけられたエネルギーが再び胎動しはじめたという象徴だったのか…。逆に、幕府にとってみれば、これは不穏な動きの予感だったに違いありません。

 そしてこのあと、光格天皇と幕府との対立姿勢がついに明らかになってしまうのが、次に述べる〈尊号事件〉です。

(3)尊号事件

 光格天皇の父親は、典仁(すけひと)親王。先ほど触れましたように、閑院宮家の人でした。
 〈宮家〉自体は、宮中の席次は高くありません。ですから典仁親王も、息子が皇位についたにも関わらず、いつも、なみいる大臣たちの下座に座らねばなりませんでした。
 そこで光格天皇が思いついたのが、“天皇の父”という名目で〈太上天皇〉という尊号を贈る事です。

 そうすれば、父は、晴れて皆の上座に座る事が出来る…。

 一度も皇位についたことのない典仁親王に尊号を贈るのは、名称だけとはいっても、確かにちょっと難しい話。でも、故事来歴にくわしい天皇は、側近にも先例を調べさせ、同様な例を2例ほど根拠としたうえで、幕府に承認を求めました。時は寛政元年(1789)。幼かった光格天皇も、もう19歳になっていました。

 ところが、この時の老中は、かの〈寛政の改革〉で名高い松平定信。しかもまだ、老中に抜擢されたばかりで意欲満々の時期。朝廷からの打診に対しても、“例に挙げているのは、いずれも承久の乱・応仁の乱といった戦乱の時のケースなので、先例とはなりえない”とはねつけました。乱世での悪しき先例を採ることは、さらに後の乱れを招くことにもなりかねない、という理由からです。

 憤慨したのは光格天皇です。負けじと、尊号問題に消極的な関白(!)ら数名を更迭するという、当時の天皇としてはまったく異例な手段に打って出ました。また、公卿群議を開いて主要な公家たちの支持をとりつけ、寛政四年(1792)には、尊号宣下の強行を宣言するにまで至りました。

 こうなると、松平定信も、一歩も譲りません。ならばと、“幕府としては、現関白の責任を徹底追及し、結果如何によっては現関白の辞職要求も”という強攻姿勢に転換。結局、尊号宣下については、断固として撤回させてしまいました。
 しかも、そこで追求の手をゆるめません。“朝廷には、他にも、幕府方と関白との間をつなぐ役割として、〈武家伝奏〉と〈議奏〉がいるはず。にもかかわらず、これだけ事態が紛糾したのはどういうことか両役に問い質したい、彼らを江戸に差し向けるように”と、天皇に要求したのです。

 さて、松平定信は、さすがに当代きっての知識人。道理を重んじ筋を通すという点では、あっぱれなほど頑固な人物ですが、そんな難物の定信と、正面きって対決するために江戸に向かったのが、──そしてまた以前にも、天皇の側近として〈太上天皇〉の尊号宣下の例を調査した、当の本人たちが──誰あろう、議奏・中山愛親(なるちか)と、武家伝奏・正親町公明(きんあき)だったのです。

 以前、当HP掲載・「白樺派 on the street (6)」でも書きましたように、中山家は正親町兄弟と園池公致共通の先祖。そして、正親町公明の方は、まさしく正親町兄弟の、直系で五代前の先祖でした。いよいよ、白樺派ゆかりの人々の登場です。


【注】

1  藤田覚『幕末の天皇』(講談社選書メチエ26 1994年) 24p