先祖は御所のウォーリアーズ (2003/09/26 Up)

第1章 朝廷の〈謀反〉未遂
(4)中山愛親と正親町公明の位置
(5)反逆のメロディ

 

(4)中山愛親と正親町公明の位置

 前権大納言(さきのごんだいなごん)・中山愛親(なるちか)は、光格天皇の信任あつい近臣。天皇がまだ年少の頃から、その脇を固めていました。江戸時代に入ってからの天皇は、とかく短命・虚弱な人が多く、名目だけの存在という場合も多かったのですが、光格天皇は珍しく、朝廷の中枢でポジションを維持し続けていました。それも、ひとえに、愛親の補佐がしっかりしていたからだと考えられています。

 しかし、愛親も、決して、無条件で〈天皇〉の補佐が出来るような立場の人ではありませんでした。

 中山家は、元々、最高は大納言まで昇れる〈羽林家〉の家柄。公卿の家格としては、決して低くはありませんが、しかし、朝廷の中でこの上なき権勢を誇るといえば、やはり摂政・関白まで昇りつめられる摂家か、太政大臣をつとめることのできる精華家。そうしたトップクラスの家柄と比べると、羽林家は大臣家のさらに下。いちおう堂上(とうしょう)公家(※内裏の中の、清涼殿殿上間に昇ることのできる家柄)とはいっても、やはり、一介の平堂上(ひらとうしょう)に過ぎない、ということになります。


【参考・2】 公家の家格と家系

摂家 大納言・左右大臣を経て摂政・関白に昇進できる家柄。近衛・九条・一条・二条・鷹司の五家。
精華家 近衛大将と大臣を兼任し、太政大臣を極官(昇り得る最高の官位)とした家。徳大寺、花山院など九家ある。
大臣家 大納言から近衛大将を兼任せずに内大臣に昇格し、左右大臣を極官とする。三家。
羽林家(うりんけ) 近衛少将・中将を経て大納言まで進む武官の家。羽林とは、北辰(北極星、または北斗七星)を守護する星の名。転じて、天子を守る宮中宿衛の官名となった。
名家(めいけ) 侍従・弁官を経て大納言まで進む文官の家。
半家 武官・文官双方の官職に任ぜられ、大納言まで進む家。


 そんな家に育った愛親が、どうして光格天皇の側近くに就くことになったのか。まだ私にも、詳しくはわかっていません。
 ただ、光格天皇は、自分でも事情がよくわからないうちに急に天皇にされてしまい、なのに周囲からは〈傍系〉と軽視されがちだった人。そんな天皇に、愛親は、どこかで自分の姿を重ね、思い入れをするところがあったのではないでしょうか。
 事実、様々な朝議や祭祀の復古・再興は、光格天皇と中山愛親が二人三脚的に協力して推し進めてきた方針だったといいます。復古調御所の造営プランが幕府に通ったその裏にも、御所造営掛に任命された中山愛親の力が、大きくあずかっていたようです。

 そこに勃発したのが、〈尊号事件〉だったのです。
 光格天皇にとって、それは、政治的な危機というだけではなく、幕府に軽んじられた存在のままでおわってしまうか否かという、尊厳の危機でもありました。その一大事に、天皇の幼少のころからサポートしていた愛親が、そのまま引き下がるはずはありません。

 また、もう一方の正親町公明(きんあき)のほうも、同じ羽林家の家柄。そして、かねてから自分の日記(『公明卿記』)に幕府への反感をしばしば書き入れるほど、反幕感情の強い人でした。中山愛親とは、彼が武家伝奏に任ぜられた前後から、気脈相通ずる間柄になっていたようです。

 幕府が召喚したのは、当初3名。武家伝奏・正親町公明と議奏・中山愛親、そして同じく、議奏の広橋伊光でした。しかし、最終的に広橋は外れ、愛親と公明の2人が、江戸に向かうこととなったのです(寛政五年・1793)

 この召喚、結果からいえば、〈中山のまる負け〉だったとのこと(※注2)。2人と松平定信との間には、相当猛烈な応酬があったはずなのですが…。
 なぜなら、愛親の方は、江戸で「こんな狂人を置いてはいかぬ」といわれ、京都に帰るなり閉門蟄居(へいもんちっきょ)の刑(※屋敷の門と窓を閉じて昼夜の出入りを禁ずる監禁刑)。正親町公明も、逼塞(ひっそく)(※門を閉ざし日中の出入りを禁止)に処せられたのですから。

 しかし、こんな散々な結果にもかかわらず、中山愛親の突っ張りは、幕府の政治に行き詰まりを感じていた人々の共感を呼んだようです。藤田覚著『幕末の天皇』によると、この事件に題材をとった『中山夢物語』や『中山問答記』等、多くの〈実録物〉が貸本屋を通じて流布しましたが、それらはなぜか全て、中山愛親が定信に言い勝って意気揚々と京都に帰る、という結末になっているとのこと。西暦でいえば19世紀を目前にした時期、〈尊号事件〉は、時代の風向きが変わっている事を、かすかに予感させる事件であったようです。

(5)反逆のメロディ

 さて、こうした危機を共有したことで、決定的に深まったもの。それは、中山愛親と正親町公明、そして光格天皇との間の絆です。

 まず、光格天皇の息子と孫について。
 光格天皇の息子は、のちの仁孝天皇ですが、正親町公明は、息子・実光(さねみつ)の娘・正親町雅子を、その仁孝天皇の典侍(てんじ)(※奥向きの女官。女官の中では位が高い)として宮中に入らせました。そこで生まれたのが熙宮(ひろのみや)、のちの孝明天皇です。つまり、正親町公明は、孝明天皇の外祖父だったのです。
 さらに、その下の代。孝明天皇のもとに、典侍として入ったのが、中山愛親の後裔である中山忠能の娘、慶子でした。その慶子と孝明天皇の間に生まれたのが、明治天皇だったのです。
 そして光格天皇以来、天皇家はずっと実子でつながっていますから、いわば、正親町家の血筋と中山家の血筋は、近代天皇家の血統の源流をなしているといえるのです。

 ただ、中山忠能が明治帝の外祖父であることは、少なくとも、ちょっと歴史に詳しい人でないと知りません。まして、正親町家が仁孝天皇と縁を結んだことは、今はほとんど知られていません。
 これはなぜかというと、〈天皇の正式な后になれるのは、摂家の姫と徳川家の姫だけ〉という建前があるからなのです。

 これがあるために、正親町雅子の子供である孝明天皇は、仁孝天皇の准后(じゅこう)である新朔平門院の〈養子〉になりましたし、また、中山慶子の子供・明治天皇は、英照皇太后の〈実子〉という事にされました。このため、どちらの場合も(ただし、養子と実子では、扱われ方に微妙な差がありますが)公けには、実の母側の系統が表に出ない仕組みになっているのです。こういうところにも、公家の中での身分の上下が関わってくるのですね。

【参考・3】 堂上方の実子と養子(系図上)

実子…養子だが、生家と全く縁を切り、生家の系図からもまったく氏名を抜き取って、養家先の実の子のように扱われる
(※もし、本当にそこの家の実の子ならば単に「子」と書かれる)

養子…里方と縁を切らず、実父母と養父母と両方に親子関係を持っている


 しかし、〈身分〉のことで余談をつけくわえると、繰り返しになりますが、光格天皇自体、近世の天皇としては傍流の天皇。父親の典仁親王に皇位継承権はありませんでしたし、また、母である大江磐代君という女性も、その母(つまり光格天皇の祖母)は鳥取の商家の娘だったということです。(※注3)
 このように、もともと、そうした地位に滅多に関わるはずのない人達が、ふとした事からイレギュラー的に結びつき合いながら、新しい血統を形成していった。それが、幕末から近代にかけての、〈天皇家〉というものの実体であったと言えましょう。

 


 それから、もう一つ。先の〈尊号事件〉には、まだ、後日談がありました。

 閉門・逼塞という実刑を受けた中山愛親と正親町公明は、当然の事ながら、処置に対してひどく憤激しました。そこで、信頼できる人物2人ほどと語らい、倒幕計画を図って、諸国に同志を募ったのです。

 ところが、さすがに幕府です。そうした動きを、すかさず察知しました。そして結局、中山らと図った2人のうち、1人は摂津へ、もう1人は大和国へ、流罪にされてしまいました。事ここに至り、愛親の子・中山忠伊(資料によっては忠尹とも表記)は、事態の全責任をとって自害(文化六年・1809)。幕府に対する抵抗は、ここでも潰えてしまったのです。

 それでも倒幕の志を棄てきれなかった光格天皇は、自分の第二皇子・小松中宮長親王を、忠伊の子・中山忠頼に頼み、養子にしてもらいました。この子の名前も中山忠伊。おそらく、自害して果てた愛親の息子にちなんで名づけられたのでしょう。
 そして、この忠伊が、自分の祖父・光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成。また、中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誅組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です。

 ここでぜひとも触れておきたいのが、中山らと図って幕府への反旗を翻そうとした2人のこと。この時、流罪にされた2人の名前とは…。
 摂津へ流された方が、従二位陰陽頭・卜部(うらべ)という人物。そして、大和に流罪となったもう一人の名が、武者小路公菫(きんただ)なのです(※注4)

 この武者小路公菫という人、『公卿人名大辞典』には出て来ません。でも、こうした辞典では、家格の高い公家以外は、家督を継いだ人が中心で、それ以外の兄弟・縁戚は省略される傾向にあります。また一方、この武者小路公菫の場合でいえば、刑が追放刑ですから、もしかするとその時点で、一族の系図から外されたとも考えられます。
 もし本当に武者小路実篤の先祖の一人だとすると、彼から数えて4代前の、武者小路公隆(きんたか)と同世代人だったのではと思われます。

 ともあれ、光格天皇の息子や孫たち、中山家に正親町家、それに武者小路家も加わって、因果はまさに、あざなえる縄の如し。表面上は沈静化しても、公家たちの情念は複雑に絡まり合い、やがてそれぞれが、微かに、反逆のメロディーの主低音を奏ではじめていたらしいのです。


【注】

2  下橋敬長(しもはし・ゆきおさ)『幕末の宮廷』(東洋文庫353『幕末の宮廷』 1979年) 51p

3  陛 青山(きざはし・せいざん)「淀屋の歴史2」(HP『淀屋人』より)
   http://homepage2.nifty.com/yodoyabito/yodoyarekisi2.htm

4  満藤 久「かくれた史実」 (HP 『大塩の乱資料館』より)
   http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/index.html