先祖は御所のウォーリアーズ (2003/09/26 Up)
第2章 朝幕を揺るがす公家騒擾
(1)乱れる都、すさむ公家
(2)〈幕間劇〉
(1)乱れる都、すさむ公家 さて、このように時代をたどってみると、公家階級にとって、〈学習院〉の建設がどうしてそんなに重要だったのか、少しわかってくるような気がします。幕府の思惑をいちいち顧慮したりせずに、自分たちに本当に必要な教養や思想を学ぶこと。それが、ひいては、朝廷・公家の独立の基盤となるはず──。それが、“光格天皇以来の悲願”の意味だったのでしょう。 それに、現実問題としても、当時の公家の実状は、あまりに窮々としたものでした。 まず、公家の子弟には、何歳までに何をどれだけ学んでおく、といった形での教育が、何も保証されていません。摂家・精華家といった高い家柄ならば、国学者や儒者を家に招き、歌学や儒学・詩文学などを教授してもらうこともできました。しかし、平堂上(ひらとうしょう)や、それ以下の家では、“師を招く”ことなどままなりません。やむなく町に出て、市井の人々が通う〈町儒者〉などのもとに行くしかなかったと言います(※注5)。 しかも、各家の経済事情をいえば、石高の名目よりも多めに収入があったのは、唯一、近衛家だけ。名目は2800石ですが、禄の収入源が池田(大阪)伊丹(兵庫)という良所からだったため、内実は1万石ほどあったといいます。 ちなみに武家では、大名と呼ばれる家柄の平均禄高が、約6万7千石。旗本のような“主取り”の身分でも、だいたい2000石くらいが一つの目安でした。それと比べると、摂家、宮家がこの状態ですから、額面200石〜130石程度だった他の平堂上の家などは、推して知るべしです。 経済状態は、おしなべて、このようなものだったのですが、それでいて、宮中に参内する時には、あくまできちんと身分に応じた身なり・供揃えをしなくてはならない。 “お互い、内実が苦しいのは同じでしょう?”と、皆、本音の部分では思っていたところで、これではとうてい気軽に助け合うわけにはゆきません。 ちなみに、この手の話は武士階級などにも広まっていたようで、昭和に入ってさえ、女子学習院の生徒たちは、“宮様や公卿のところには、お金があんまりないから、お嫁に行きたくないわ。公卿さん達って、着るものもなくて、蚊帳(かや)を着てた人もあったんですってね”なんてことを、アッケラカンとおしゃべりしていたようです(※注10)。 まして、もっと位階が低いと、窮迫の度合いもさらにひどくなる。秋冬になっても袷(あわせ)が作れない。あの京都の底冷えの季節を、単衣(ひとえ)で過ごすのです。また、生活もそこまで窮まると、ヤケになる者も出てきて当然。年中単衣だというのをかえって自慢にし、体中に刺青(いれずみ)を彫って粋がるような、やくざ者さえあらわれる。紺の単衣で刺青だらけ、尻を高くからげて膝まで出す。こうした格好の手合いを、通称〈もうろく〉といったそうです。 なお、一言添えますと、その時代、衣冠束帯や狩衣といった伝統装束は着るのも手入れも大変だということで、公家自身、平時はまず着なかった。いつもは、町方の人たちとあまり変わらない身なりだったそうです。 閑話休題。さて、全身“くりからもんもん”のお公家さんが何をするかというと、あまり、古今の歌学を学んだり、四書五経を読んだりなどはしません。遊興にふけり、悪所に出入りする。ちょっと裕福そうな商家だとか町人の家に押し入って、頼まれもしないのに絵や書をかいてみせては、金を貸せと無心をする。相手が困って断ると、手近な茶碗などをたたっ壊して暴れるという、たちの悪い乱暴をはたらく。 また、町人たちの方では、そんな厄介なしろものに暴れ込まれてはたいへんとあって、自己防衛のために、七位・八位といった、下級公家の官位を手に入れようとする者もあらわれました。 とはいえ、やはり公家は公家。たとえ形式的だろうと、御所の承認があったことには間違いない。だから、家の外に菊の御紋のついた高張提灯(たかはりぢょうちん)の一つも出しておけば、“天子の御直臣(ごじきしん)”ということで、効果は絶大。さしもの〈もうろく〉も、自分と同じ“御直臣”の家には入ってこれません。それどころか、徳川の捕り手さえ、ずかずか踏み込んで来ることはできない。そんな事をしたら、越権行為になるからです。(※注11)
『開校五十年記念 学習院史』の最初の章「舊学習院創立の由来」には、「されば、華冑子弟の教育は万事に不十分にして、中には懶惰に流るゝ者も少なからざりしかば、当時一部の公家の風儀の頽廃、実に寒心に堪へざるものありしなり。光格天皇はいたくこのことを御軫念遊ばされしが……」云々というくだりがあります。確かにその頃の公家社会、心ある人々から見れば、真実、さむかったことでしょう。幸い幕末に、幕府方の水野忠邦、次いで阿部正弘の理解と協力が得られたので〈学習院〉が実現したわけですが、これはさすがに、幕府も見かねたから、というところだったかも知れません。 |
さて、〈学習院〉開校から約6年後のペリー来航(嘉永六年・1853)、そして日米和親条約締結などの経緯は、ここで改めて述べるまでもないでしょう。幕府はこの間、朝廷には、事後承諾の連絡を送るのみでした。また朝廷側も、“夷狄に神州を汚されるようなもの”と憤慨はしましたが、さりとて別に策があったわけではありません。さしあたり、幾つかの社寺で、異国船撃退を請願する大がかりな祈祷を行っただけでした。 ただ、ここに、ひとつの幕間劇があります。嘉永七年(1854)四月六日、京都にまた大火が起こり、御所も火に包まれました。この時の消息を、イギリス初代駐日公使のラザフォード・オールコックが書き記しています。当時は、正親町雅子が生んだ孝明天皇が、すでに在位していました(満22歳)。 現在の天皇(ミカド)は、クローヴィス〔メロヴィング王朝のフランク王。465-511〕の最後の子孫〔シルデリク三世、在位741-751〕そっくりで、「物悲しく孤独で、弱々しく衰え、実権をともなわぬ王位」を保ち、虚飾にみちたわずらわしい無用の一生をため息とともにすごす運命にあり、監獄そのものの宮殿の門を出ることは許されない。 数年前の話であるが、なにもかも焼きつくす恐ろしい火事(中略)が、内裏(ダイリ)の人びとまでもその聖域から追い出したことがあった。天皇(ミカド)とても、アラゴン〔中世期にスペインの東北部にあった王国〕の有名な王のように、逃げ出すか、それとも生きながら焼き殺されるか、のいずれかであった。 内裏(ダイリ)の儀礼は冷厳だと考えられるが、広大な都市をほのおにつつむ火事のまえにはとけ去ったと見えて、やんごとなき殿下はもよりの寺院にのがれ、さらにつぎの場所に避難しなければならなかった。その途中、かれはどうせ焼け死ぬのならとばかりにのっていた牛車からとび降りて、歩いていった。 変化と運動と興奮をともなったこの退避行は、かれが一生のうちに知った唯一の快い時間ではなかったにしても、おそらくもっとも愉快なものだったにちがいない、とわれわれは感ぜざるをえない。 |
【注】
5 『開校五十年記念 学習院史』(学習院 1928年) 3〜4p
9 木村毅『明治天皇』(日本歴史新書 至文堂 1956年) 43p
10 酒井美意子『ある華族の昭和史 上流社会の明暗を見た女の記録』 (主婦と生活社 1982年) 54p