先祖は御所のウォーリアーズ (2003/09/26 Up)
第2章 朝幕を揺るがす公家騒擾
(3)幕府の失策・天皇の失言
(4)前代未聞の公家一揆
(5)さらなる騒擾 ─仲間のため戦うウォーリアーズ─
(6)〈学習院〉の両義性
さて、京都大火から二年後の安政三年(1856)、アメリカ駐日総領事タウンゼント・ハリスが伊豆下田に着任し、いよいよ通商修好条約に向けての交渉が開始されました。 日本は当初、鎖国政策を楯にとって条約締結に抵抗しましたが、次第に、とても回避できる状況ではないと認めざるを得なくなってきました。 そこでいよいよ覚悟を決めて、安政四年の末(十二月二十九・三十日)には江戸城で外様大名らを説得。一方、京都にも、事情説明の使者を派遣し、条約締結に向けての動きを開始しました。 ところが幕府は、なぜかこの時、今までにない事をしてしまいました。朝廷に対しては、政治向きのことはずっと事後承諾で済ませてきたのに、この時に限り、〈朝廷の許可(勅許)を得てから、条約の調印を〉と考えてしまったのです。
ところが、この段取りのちがいが、信じられない騒動の引き金となってしまいました。御所の官人たちが、“幕府に任せていたらば、ついに〈蛮夷〉に開国を許し、神国を穢すところまで来てしまった。条約勅許などとんでもない”と、猛反発。そしてついには、88人もの公家たちが、御所に、そして関白の私邸にまで押しかけ、朝廷の方針に異議を申し立てる騒動にまで発展してしまったのです。安政五年三月十二日(1858年4月25日)、〈廷臣八十八卿列参事件〉です。
ただし、公家たちも、理非もなく、過剰反応したわけではありません。 これに先立つ同年一月、当時、外交を担当していた老中の堀田正睦(ほった・まさよし)が、条約勅許の一筆を求めて京都にのぼりました。堀田は、とても口まめ・気まめに説得を続けたようで、例えば京都に着いてまもなく、武家伝奏と議奏を宿舎に招いて、改めて事態を説明しました。 〈いまや、国際交易は世界の国々を巻き込み広がる一方で、選択肢は、その中に入るか、拒絶し戦争するか、二つに一つ。しかし今、欧米各国を相手にして勝算はない。とすれば、日本も条約を締結してその中の一員となり、国勢の挽回を他日に期するしかないではないか〉 この道理に、当時武家伝奏だった東坊城聡長などは、すっかり納得。さらに堀田は、天皇からの勅許がどうしても取れそうにないとなると、井伊直弼の家臣らとも協力して、関白・九条尚忠(ひさただ)に説得を続けました。そのネゴシエーションが功を奏してか、九条も、最初は反幕府・攘夷の姿勢だったのが、一転して条約勅許派に傾いてしまったといいます。 孤立してしまったのは、孝明天皇。彼は以前から、“外国と通商を結ぶなどは天下の一大事、私の代からそんな風になるのでは、神々にも、先祖にも申しわけがたたない”と反対を続けていたのですが、そんな心情的な理論では、この情勢には太刀打ちできません。26歳という年齢の若さが、ここでは露呈してしまっている感じです。 そしてとうとう、九条尚忠のもとで新たな勅答案が作られる事となった時(安政五年三月五、六日頃)のこと。孝明天皇は、その文案の中に、〈これ以上返答の仕様はないので、この上は関東(幕府側)の方でよく考えて決めるように〉と、〈幕府に一任〉ととれるような表現を入れさせてしまったのです。 |
しかし、今度ばかりは、公家も黙っていませんでした。 おそらく、彼らが反発した最大の原因は、老中・堀田が素描してみせたような開国後の日本の希望的ビジョン(例えば、国際交易を通じて国の富力をつけてゆく、等)が、とうてい、自分たち参加できる未来のようには感じられなかったからではないか、思われます。 もしも、安政年間のあの時、日本が幕藩体制のまま、全面開国したとしましょう。でも、きっと、その時点では、朝廷に対する幕府の政策は、何も変更されなかったに違いありません。変える直接的理由が、何もないからです。 …関白や、関白になれる家柄の摂家が、あれだけほしいままの権勢をふるうのも、幕府の後ろ盾があるからこそ。幕府の使者や要人も、まるで上位の公卿のような扱いを受けている。しかし、古(いにし)えには決してこんな事はなかった。だから、再び世の上下が正され、天子様を中心とした政(まつりごと)が行われるようになれば、自分たちも民(たみ)も、よりよい暮らしができるようになる。… これは、妥当な部分はあるにせよ、半ばは空論です。でも、そうした空想にリアリティを感じ、妄執を持ってしまうほどにも、公家の生活は、経済的にも心理的にも苦しかったのでしょう。 加えて、条約勅許の手続きです。形式的には勅許を願い出、朝廷を奉るようでありながら、要するに内々の方針はもう決まったも同前。この、幕府の建前論のわざとらしさが、溜まりにたまっていた公家の反感に、とうとう火をつけてしまったのだと思われます。
三月七日、まず、条約勅許案に目を通して激怒した参議ら4名が、連名の意見書を武家伝奏に提出。〈蛮夷〉に屈服し通商条約を締結しようという幕府は〈狂妄の徒〉だ、条約締結は〈神国の汚穢・御瑕瑾〉だと、口をきわめて朝廷の方針を非難しました。名を連ねたのは、みな、大臣より下位の官人たちです。権大納言・中山忠能(ただやす)(当時48歳)や権中納言・正親町実徳(さねあつ)(当時44歳)、とくれば、もうすでにおなじみの家柄の方たちという事がおわかりでしょう。 三月九日。議奏の徳大寺公純が御所からの帰宅途中、何者かに輿(こし)を取り囲まれて引きずり下ろされ、危うく斬り殺されそうになるという暗殺未遂事件が発生しました。これは、激昂した一部の公家が、幕府寄りの姿勢をとっている〈国賊〉東坊城聡長を討ち果たそうとして、狙う輿を間違えたのです。事態もこう荒々しくなると、もう、公家社会の出来事とも思われません。 さらに、2日後の十一日、勅答が関白案どおりに朝議決定されてしまうと、状況はますます切迫。そして翌十二日、ついに、権大納言の中山忠能が、納言・参議13名と連名して、勅答の変更を迫る意見書を武家伝奏に提出。さらにこの日の午後には、さらに人数が加わった88人もの一団が御所におしかけて、〈幕府一任〉の文面削除を要求する請願書を武家伝奏に強引に手渡したのです。 “摂関家との応対は帝や宮家に対するよりはるかに難しい、道で会ったら何をおいても沓に履き替え深々と頭を下げねばならない、直接口をきいてもいけない、辞めさせられても文句はいえない”。こうした秩序のもとに動いてきた公家社会にとっては、まさにこの日が、歴史の大転換点。「実に堂上方正気の沙汰とは存ぜられず」と堀田正睦が手紙に書いたのも、まったく誇張ではなかったのです。 ちなみに、彼ら88名は、三月十四日に四箇条の申し合わせを作成し、“変心する者は、以降の申し合わせから除外する”という取り決めを作っていたそうです。朝廷内の上下関係によって命令されているわけでもなく、〈摂家と門流〉という一族意識のもとに動いているわけでもない。ただ〈志を同じくする者〉同士だとという〈横〉のつながりが、この時、新たに、意味を持ち始めたのです。 |
この騒動も一因となって、条約勅許は、結局、幕府には与えられませんでした。これを一番喜んだのは、孝明天皇。御所や関白の邸にまで押しかけた公家たちに対し、その功を讃え、お金を下賜したほどです。 でも、かつての大火の時と同様、そんな興奮や喜びの日々も、長くは続きませんでした。天皇が激怒したことに、次に幕府から届いたのは、もうすでに日米通商条約に調印してしまったという報告でした。しかも幕府は井伊直弼を大老職に据え、この国難の時期に“朝幕間の意思の不一致”などはあり得るべからざる事として、条約反対派の容赦ない弾圧に乗り出しました。〈安政の大獄〉は、こうした経緯で始まったのです。 次に孝明天皇を悩ませる事となったのが、和宮降嫁の問題です。 これに当然のごとく猛反発したのが、過激な尊攘派の公家たち。朝廷内の公武合体派(岩倉具視ら)に対して、容赦のない排斥運動を展開しました。あまりの対立のひどさに天皇も困惑し、“こうした尊攘派のゆきすぎは、薩摩や長州にのせられているだけではないのか”と疑うまでになりますが、そんな天皇の気持ちをよそに、尊攘派公家たちの〈即刻攘夷〉の気運はますます強くなるばかり。権中納言程度の位階の者たちまでが、天皇に対して、“御決意のほどをうかがいたい”などと迫る始末です。
彼らが尊崇したのは、生身の孝明天皇などではなく、いわば〈尊皇〉の対象としての〈天皇(位)〉だったからです。 結局、天皇は尊攘派をつくづくもてあまし、最後の手段として、わずかに残った公武合体派の公家や、会津藩・薩摩藩と連携して、尊攘派を朝廷から一掃する〈八・一八政変〉(文久三年八月十八日・1863年9月30日)を起こさざるを得なくなりました。 しかし、彼ら〈行動派〉の公家たちの間にひとたび結ばれた精神の紐帯は、そうやすやすとは断ち切られないものになっていたようです。慶応二年八月三十日(1866年10月8日)、朝廷では、再び〈廷臣二十二卿列参事件〉という公家騒擾が起こりますが、これは、岩倉具視を黒幕とする22名の公家が、処罰中の公家の赦免を請願し、幕府寄りの朝政に対する批判・改革案を朝廷につきつけた事件でした。この22名の中には、園池公静(園池公致の二代前)の名前も見られます。 第一の列参事件にしても、また第二の事件にしても、軽挙妄動と言われれば確かにその通り。でも、長らく、人のためにせよ自分のためにせよ〈戦う〉という行為とは無縁だった公家の歴史を考えるならば、このような行動は本当に稀有なこと。彼らは、自分たちの理念を守るため・そして仲間を救うために、はじめて戦うことのできた戦士たち(Warriors)だったといえるかもしれません。 |
さて、幕末、なぜこれほどまでに中・下級の公家たちが力を持ってしまったのか。一つには、孝明天皇が、もともと、朝廷の中の議論の大衆化に熱心な人だったからです。ペリー来航騒ぎの頃からすでに、六位の蔵人や諸役人たちにまでも対外情勢について説明を与えたり、その事について議論させたりしていました。 とはいえ、当初は、そんな危ない機関を作るつもりは、誰にも毛頭ありませんでした。何しろ、長年の幕府側の警戒論を、ようやくクリアして設立に漕ぎ着けたのです。〈国書〉(「日本書紀」「続日本紀」等)購読の時間も有ることはありましたが、その割合は半分以下におさえ、あとの半分は〈四書五経〉。嘱託の講師も、最初はみな、オーソドックスな朱子学派から選ばれました。このように、むしろ最初は、武家の教育機関と同じ体裁の、当たりさわりのないことしか教えない場所だったのです。 そもそも〈学習院〉という名称自体、はじめは公(おおやけ)のものではありませんでした。そう呼ぶのは公家の職員たちだけで、幕府関係の文書上は、〈学習所〉または〈習学所〉となっていました。「思ふに朝廷に於ける学習院創立の理想は、古の大学寮若くは四姓学校を復興せんとするにありしかば、堂々と院号を称へたき希望ありしならんも、幕府に対しては、単なる堂上の稽古所といふ意味にて交渉したる関係上、名称を憚るの必要ありて、かく表向きと内部との間に相違ありしものなるべし」(『開校五十年記念 学習院史』14p)。幕府の手を離れた独自の学問所にしたい気振りなど、ちらりとでも見せるわけにはゆきません。院のすぐそばでは、幕府からの〈附武士〉(朝廷の御附を命ぜられた役職)やその補佐の〈御用掛〉、それに与力・同心たちまでもが目を光らせていたからです。
しかし、先述したような時代の変化によって、幕府からの圧力は相対的に弱まってきました。とりわけ大きな変化は、西国諸藩の藩士が京都にのぼるにつれて、〈学習院〉が“幕末政治堂”とでもいうような、一種の政治的トポスになっていったことです。 『開校五十年記念 学習院史』(25p)には、こうあります。 即ち長州の山田亦介・高杉晋作・佐久間佐兵衛・毛利筑前・中村九郎・村田二郎三郎・高杉小忠太・毛利登人・前田孫右衛門・宍戸九郎兵衛・竹内正兵衛・来島又兵衛・山田宇右衛門・桂小五郎・楢崎彌八郎・佐々木男也等は、長州藩より任命せられたる学習院御用掛として登院し、真木保臣・久坂玄瑞・平野国臣等も日々登院して共に政治の事に鞅掌し、遂に学習院出仕といふ役名を附せられたり。 どうでしょう、大河ドラマに登場するようなメンバーの名前が目白押し! 文久二年正月頃からは、三条実美が長州藩と情意投合してその派の棟梁となり、〈学習院〉はますます、志士・浪士の集会所としてのカラーを濃くしてゆきました。また、彼らが孝明天皇の賀茂行幸・石清水行幸の計画を立案し、協議を重ねたのも、この〈学習院〉内でのことだったと言います。こうなると、もう梁山泊(りょうざんぱく)といったおもむきです。 はじめは、天皇らが“公家子弟のための学問所”を夢みて、ようやく設立された〈学習院〉。幕府に対抗して、朝廷側独自の学問と価値観を教えようとしたのですが、時代と共に内実も変化して、とんでもなくハイブリッドな空間になってしまいました。 例えば、講師の中沼了三という人物は、島根県出身で、はじめ朱子学を奉じていましたが、後には、陽明学を講ずるようになりました。また、文久三年の冬頃を過ぎると、〈学習院〉の講師選任も、もうほとんど幕府を考慮しなくなり、文久四年二月には、豊後から、広瀬淡窓の門人・劉三吉を招聘するまでになったということです。こうして、旧〈学習院〉の講義は、慶応三年十一月二十九日(1867年12月24日)まで続けられたのです。 |