【風のたより(6)】 by
銀の星 第30回(2006/05/15) 前回の3月から、ついこの間のゴールデンウィークまで、北海道は寒くて寒くて寒くて……。 と、思ったら、今日なんかは、もう初夏の陽気!あったかいのは大歓迎だけれど、ちょっと早すぎ!それでいて、夕方からはすごくヒンヤリするので、一体何を着たらいいのかわからない!ホントに、ちょっとムッとします。 こんな風に、気候に揉まれているので、なんだか疲れ気味…。絵も写真もなくてごめんなさい。本当の近況のみ。近々、また遠出する予定なので、その時は何か載せますね。多謝。 第29回(2006/03/02) ※この回の内容・〔里見の弟子は困りもの? ─芥川龍之介に抱きついた男・中戸川吉二─〕は、当HP〈緑の木もれ陽〉(エピソード集)の〈里見ク Episode-2〉に収録いたしました。 第28回(2005/12/20) ※この回の内容は、当HP〈緑の木もれ陽〉(エピソード集)の〈有島生馬 Episode-1〉として再Upいたしました。注釈もつけ加えましたので、どうかご覧下さい。 湖のそばの、こぢんまりした三角の山。まるで神さまが富士山を模して造った、可愛い箱庭みたいな…。 画家の竹久夢二(明治17・1884年生まれ)は、昭和5年(1930)、榛名湖のほとりに小さなアトリエを建てました(写真2枚目)。 そして彼は、その夢をもっと確かなものにするべく、外国で展覧会を開くなどして資金を集めようと、翌年に渡米したのです。 でも、夢のかけらは残しておくもの。夢二がたびたび訪れていた伊香保周辺には、彼の作品を集める熱心なコレクターや研究者、そして伊香保温泉の人々などが、夢二の死後も彼をなつかしみ、慕い続けました。やがて昭和56年(1981)、6年以上の構想期間を経て、竹久夢二伊香保記念館がオープン(写真3枚目)。数多くの夢二作品が、常時展示されるようになりました。また、平成6年(1994)には、榛名湖のほとりの夢二のアトリエも、当時の記憶や写真をもとに再現され、誰もが訪れて見ることが出来るようになりました。 今、夢二記念館は本館のとなりに新館が併設され、さらに別棟として〈音のテーマ館〉(オルゴール館)や〈義山楼(ぎやまんろう)〉(ガラス工芸)の2館が開かれています。夢二作品だけではなく、夢二の産業美術研究所構想にちなんで、大正から昭和初期のレトロモダンな美術工芸品を出来るだけ集める、という方針のようです。ホールには大正時代のピアノが置いてあったり、館内の照明もランプシェードが大正期のものだったり…。私は、夢二の生家のある岡山の方には行ったことはありませんが、この伊香保の、夢二にかける意気込みの熱っぽさは、岡山に決して勝るとも劣らないのではないでしょうか? * * * * * * * * さて、そうした夢二の〈産業美術〉の夢に魅かれて、その死後も彼の夢のかけらを大事にしていた男が、ここにも一人。そう、それが『白樺』出身の画家・作家にして有島三兄弟の一人、有島生馬(いくま、本名・壬生馬(みぶま))でした(明治15・1882年生まれ)。 もともと、夢二と『白樺』とは、浅からぬ縁がありました。まず、『白樺』を発行した出版社〈洛陽堂〉ですが、夢二もこの洛陽堂から、『白樺』創刊前年の明治42年(1909)12月に、最初の著書『夢二画集 春の巻』を刊行しています。(一説によると、洛陽堂が本を出版したのもこれがほとんど初めで、当時の店主が、夢二の絵のふんわり華やかな雰囲気にちなんで、自分の社名を「洛陽堂」としたのだとか…。) 一方、夢二にとっても、同発行所で出している『白樺』は気になる雑誌だったことでしょう。毎回さまざまな西洋美術を紹介してくれるだけでなく、その同人や仲間には、有島壬生馬や南薫造といった洋行帰りの新進画家がいるらしい…などと思い、同世代の芸術青年としては興味津々だったに違いありません。そして、白樺主催の展覧会があればかけつけていたらしいことは、明治44年(1911)10月の泰西版画展覧会の時など、「第一の入場者は竹久夢二君で、十一日の午前七時四十分だつた。開場時間より二十分早く来て下さつたわけだつた」(『白樺』明治44年11月 署名・記者)と書かれていることからもうかがえます。 また、夢二は、『白樺』に紹介されていたハインリッヒ・フォーゲラーという画家からも大きな影響を受けました(最初の紹介は明治44年12月)。フォーゲラーの描く繊細な女性像もさることながら、自然を愛し、芸術と人々の生活が融合する穏やかな理想郷を目指す彼の姿勢に、深く感銘を受けたようです。事実、フォーゲラーは、ドイツのヴォルプスヴェーデで、自分の信念にもとづいた芸術家コロニーを実行に移していた人(1894〜1930年まで)。また、短い期間ですが、『白樺』同人とも手紙で交流をしていました(明治44年・1911〜大正2年・1913 主に手紙を書いていたのは柳宗悦)。 夢二がいつ生馬と友だち同士になったのかは、具体的に書かれた資料が少ないので、今のところはわかりません。しかし、生馬と夢二の絆がいかに深いものだったかは、生馬が、芸術界に理解者が少なかった夢二を、フランスの詩人・ミュッセになぞらえて〈孤独と寂寥の詩人〉と呼び、賛辞を贈ったこと(生馬「悲しき影の夢二」大正七年)や、関東大震災以来人気が落ちて沈み勝ちだった夢二を、いつもそばで支えていたことなどからもよくわかります。夢二を元気づけるため、たびたび伊香保や草津の温泉に連れ出していたのも生馬でした。また彼は、夢二が亡くなった時、墓地に彼の碑を建てて、〈竹久夢二を埋む〉の文字を揮毫しています。その翌年には、榛名湖畔に夢二の歌碑を建てる計画の代表者にもなっています。夢二亡きあとも、生馬はずっと彼のよき友だちでした。 しかし、そういう生馬の行動を、不可解に思う周囲の人もいたようです。特に志賀直哉は、“本来芸術家であるべき生馬が、生活の方を大事にして、竹久夢二の絵などに惚れ込んで芸の道を捨ててしまった”と否定的に考え、それが60歳過ぎての生馬との絶交の一因となりました。「(生馬は)芸術を信じないで芸術家といふ額縁にをさまつてゐる事が困るのだ。君は金持ちといふ額縁にをさまつてゐれば一番似合ふ人だ。(中略)夢二好きで、その蒐集をしてゐるとでも云へば却つて好感が持てる位である」(志賀「蝕まれた友情」昭和22・1947年)。 でも、時の流れが答えを出してくれることはあるもの。もう、今や、志賀と生馬の絶交のいきさつを憶えている人はほとんどいないでしょうが、それとは関係なく、夢二の絵は時代を越えて思い出され、愛され、その洗練されたモダンさが見直されています。夢二のきものや半襟のデザインの斬新さは、現代のカジュアルきものブームの源流ともなっています。何より、もう100年も経って、美意識も価値観もすっかり変わってしまったはずなのに、いまだに、夢二デザインのハンカチや小物を「すてき〜」「可愛い!」と手にとる女性たちが後をたたない、ということは、考えてみればものすごいこと。誰にも出来るということではありません。 大正・昭和期に画壇で活躍した人たちは多けれど、みんなだんだん影が薄くなって、今でも人々の心に生きている画家はほんの一握り。おそらく、志賀直哉が“これぞ日本の芸術家”と考えていた人たちにしても、例外ではないでしょう。そこへゆくと、竹久夢二の作品は、芸術家として、そして優れたデザイナーとして、人々に豊かなイマジネーションを与える可能性をまだまだ秘めているのですから……。やはりこのことに関しては、生馬の勝ち!といえましょう。 第27回(2005/11/25) 北海道はもうすでに雪のシーズンですが、札幌近郊では積もっては溶け、積もっては溶けで、今は晩秋に逆戻り。あんまり、ホワイトクリスマスを予感させる景色ではありません。 でも、札幌の大通には一足早くクリスマスの賑わいが…。この、あふれんばかりのクリスマスカラーの華やかさ! そうです。これは、恒例の〈ミュンヘンクリスマス市〉。ミュンヘン市と姉妹提携を結んでいる札幌で、数年前から行われているこの企画。ドイツからの工芸品のほか、本場のお菓子やホットアップルワインなども店にならんでいて、気分はドイツの“ヴァイナフテン”(聖夜)! ずいぶん昔になりますが、3ヶ月ほど、ミュンヘンに住んでいたことがあるんです。そのときは春から夏にかけてだったので、クリスマスは経験できませんでしたが…。だから、出店の中にいるドイツの方たちを見ると、とてもなつかしい気持ちになります。 この催しは12月11日まで。こちらまでおでかけになれる方には、ちょっとでも覗いてごらんになることをおすすめします。たしか、夜8時か9時頃までは開いていますし、ホワイトイルミネーションも始まっていますから、夜の景色もまた素敵です。12月に入ると、多分雪景色になるでしょうから、そうなるとクリスマス気分もひとしおですよ。 さて、私は、明日から群馬県の方へ行ってまいりま〜す。 番外(2005/11/23) ★ごぶさたしておりました。 こんなところで皆さんに愚痴をこぼすのはお門違い、とは知りつつも、あえて最近考えたことを一つ。 〈文学〉に関わる人(研究者・オールドファン・または創作者の方々)は、よく、 「文学は後世に伝えていかなくてはならない大事な文化です」「だからもっと、一般の方々にも読んでほしい、興味を持ってほしい」「若い人も気軽に読書を」などと言う。 ちなみに、上の人たちが口をきわめて軽蔑する具体的な「お役人」のうち、私がよく知っている一人は、もともと吹奏楽をやっていた人で、ピアノも素敵に弾けますし、奥さんもお子さんも音楽大好きの音楽一家。もう一人は茶道をずっとやっていて、最近、教授者の資格をとったばかり(男性)。 * * * * * * * * それから、耳にしたのが、「〈北海道文学〉の素晴らしさを、もっと声を大にして、世の中の人に知らしめねばならない」という言葉。 そのくせ、そういう人たちが〈北海道文学の父〉として尊敬している人物が、有島武郎なのですから。…今さらの話ですが、有島武郎は横浜生まれで、血統は薩摩人。北海道を舞台にしたインパクトの強い小説を何本か書いたのは事実ですが、じゃあ、有島だけは、先の基準に照らして言えば、別格ということですか。まさか、〈本当の良さ〉も何もわからないで、〈北海道文学〉なるものを書いた、と言いたいわけではありませんよね? * * * * * * * * そんなこんなで、気分がクサクサした時に、『白樺』の人たちのものを読むと何となくせいせいします。 一つ言えることは、小説家の武者小路でも志賀でも里見でも、他の分野に進んだ人でも、あの人たちは“最初から理解する気もなくて人を軽蔑しているような奴らにわかってもらうつもりはないよ”とは明言していても、はじめから“あんな奴らには文学(芸術)がわかるはずがない”なんて決めつけたことはない、ということです。 以上、私感で恐縮ですが、最近の心のモヤモヤにようやく整理がつきましたので、ここに記した次第です。 第26回(2005/09/13) 今年は、少しおそい夏休みをとって、8月の末に洞爺湖からニセコまで、2泊3日で温泉めぐりの旅に行ってきました。 実は、今から96年前の明治42年(1909)、季節も同じころ、当時満21歳だった里見
弓享が洞爺湖を訪れていました。 で、本当をいうと、私が今回、夏の旅に洞爺─ニセコのルートを選んだのも、この文章を読んで、里見 弓享が移動した空間を知ってみたくなったからなのです。 里見 弓享のこの「洞爺行」は、小品ながら、人跡まばらな留寿都(ルスツ)から向洞爺までの山道の雰囲気や、湖畔に小さな集落しかなかった当時の洞爺湖の様子をよく描き出していて、秀逸です。いつかは、作品全体をご紹介したいと思っています。 (付記: その後旅行ガイド等を見ましたら、現在の“洞爺湖温泉”の湯は明治43年(1910)の──里見のこの旅の翌年、『白樺』創刊の年の──有珠山噴火によって噴出したもので、しかも、人々に発見されたのは大正6年(1917)になってからだったとのことです。そして、この噴火以前には、このあたりに一般に認められるような温泉の湧出はなかったというのです。 そして、弟と湖に入った里見は、ずっと泳いで沖の方へ…。 でも、それにしても、まだ温泉街もなく、湖岸の集落もほんの小さなものがあるばかりという時代に、裸で洞爺湖を泳ぎまわることが出来たなんて……。もう、今なら絶対どこでも経験することが出来ないような(なぜなら、現代では“無人境”というのもたいていは演出ですから)、文字通り、大自然のふところに抱かれる体験だったわけですね。水から上がったあとは、「まつ裸で宿の前の桟橋の上に立つて夕日を浴び心持はよかつた」とのこと。堂々たる自然児の風貌です。何だかとても、うらやましい気がしました。 |