【風のたより(2)】 by
銀の星
・6〜10回まで('04/03/02〜'04/05/28)
第10回 (2004/05/28)
実は、5月の上旬に、初めて、学習院大学の図書館に行って来ました。
1日目は資料調査。そして2日目は、前日に目を通しておいた資料から、必要な部分をコピーする作業にとりかかる事にしたのです。
部分とはいえ、全体にまんべんなく目をくばりながらコピーするとあって、時間もかかるし、枚数もかさむ。正午まで丸3時間の立ち仕事となったのですが、それでもまだ少し残っています。
また運悪く、その日は前日に比べて、急に暑くなった日でした。建物の中にいても、空気がもわっと湿った感じです。
夕方には、また飛行機で帰らなきゃいけない。このまま一気にやってしまおうかな、とも思ったのですが、さすがに足の裏もジンジン痛く、頭もボーッとしてきていたので、まずは栄養補給と、いったん外に出る事にしました。
すると真昼の太陽がカーーーーーーッと…。 (((@_@;)))ヒャ〜
これはいけない、とても大学の外までは食べにゆく元気がない…と、よろよろ歩いているうちに、いつの間にか、〈輔仁会館〉という所に来ていました。中には食堂がある様子で、学生さんがたくさん入ってゆきます。いつもだったら、混雑している所は敬遠するのですが、この時は、“いいや、とにかく食べられるなら…”と、頭からよろけ込むように入ってゆきました。
入るとすぐ、定食らしいコーナーがある。何も考えずに1セットお願いし、お盆にのせて、レジで会計しました。空席を探して座り込んでから落ち着いて見ると、トリの唐揚げに甘酢がかかったものと、おみそ汁と、ご飯が多めに一杯。う〜ん、シンプル…。でも、安価なわりにボリュームもあるから、まあまあお得かも。いただきます、と口の中でつぶやいて、早速お箸をとりました。
それにしても現代は、学校という場所もサービスが良くなっているので、学習院に限らず、学食のメニューはどこでも豊富になりましたね〜。
たいていはカフェテリア風で、ご飯や麺類だけじゃなく、サンドイッチもパスタも、エスニックだって揃っています。ドリンクやアイスの自販機もずらっと並んでいて選び放題。私の学生時代と比べても、雲泥万里(うんでいばんり)の差といいますか…。
そこへゆくと、昔は、学食なんて、ただお腹さえいっぱいになれば、という発想だったらしい。例えば学習院の寄宿舎の食事だって、明治11年の創立から6〜7年の間は、質素そのものだったようです。『開校五十年記念学習院史』(昭和3・1928)を見ると、そのメニューはすごく単調。ご飯がつくのはもちろん、大前提だったとはいえ、
朝食 みそ汁(ねぎ)・生たまご1個
昼食 照り焼魚・長芋
夕食 塩びき鮭
朝食 すまし汁(水菜・あさり)・生たまご1個
昼食 ヒラメ煮魚・青味(※多分青菜のこと)
夕食 サバ塩焼・青味
こんな献立が、ずっと続くんです(上は明治18年1月23日・同24日の献立)。中には、「夕食 干海苔」だけなんて日まである(同1月25日)。
まあ、賄(まかない)料(食費)も格安だったということなのですが(当初1日平均8銭、明治12年より1日平均12銭)………。
こんな有様ですから、寄宿生の中には、そっとぬけだして近くの洋食屋へゆき、25銭の定食を食べる者たちがいて、それを隠語で〈トゥエンテーファイブ〉と称していたのだそうです。しかしまあ、それも無理からぬ話。いくら現代から見れば、“さかな〜を〜たべ〜ると〜、アタマ〜が〜よく〜なる〜♪”、ドコサヘキサエン酸たっぷり(ばっかり?)・ローコレステロールの健康食だと言ったって…。
そこで、ようやく学習院の方でも食費の見直しをはかるようになり、明治18年2月以降からは、院で少しお金を補助して、2日に1度、必ず〈鳥獣肉〉を加えるようになったんだそうです。明治18年といえば、ちょうど『白樺』の中心メンバーが生まれるぐらいの頃。つまり、そのあと入学した彼らにとっては、ちょっとだけ運がよかったことになるというわけです。
そんな事を何となく思い浮かべながら、トリ唐定食をいただきました。甘酢のたれが口にサッパリとして、衣の油も思ったほど気になりませんでした。頼りなかった膝のあたりにも、少し力が戻って来たようです。それじゃ後もう少し、ヨイショッとっ、と立ち上がると、私はまた降りそそぐ午後の陽ざしの中を、図書館に向けて歩みだしていったのでした。
第9回 (2004/05/03)
風薫る5月…と書き始めようと思ったのですが、今日はあいにくの雨。風も強く、肌寒く、これじゃぁ札幌の桜も、とうていGW中は間に合いそうにありません。
まあ、仕方がない。ここは、鯉のぼりに氷雨とか霙(みぞれ)、という事も珍しくはない所ですから。現に、左の写真だって、ついこの間、4月25日早朝の風景。せっかく芽をだした草花が、この日はすっかり雪をかぶって…。ですから今は、〈雨〉となっているだけまだいい方。連休明けの天気を期待する事にしましょう。
とはいえ、気象情報には気になる予報が。実は近々、東京へ行こうと思って準備していたのですが、4月にあれだけ真夏なみに暑かったはずの関東地方が、その頃には涼しくなって雨も降るとか…。
いいですよ別に本州まで寒くならなくったって。北海道生まれだからって低温じゃなきゃ生きていけないわけじゃなし。(-_-メ)
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折角また白樺派ゆかりの地を歩いてみようと思っていたのにと、天気予報に八つ当たりしている私でした。
いま、庭では、小人ほどの背丈のかわいいクロッカスや水仙の花が咲き始めています。でも、秋にいっしょうけんめい植えたチューリップは、まだ緑のつぼみをつけているだけ。いつになったら、色とりどりの花のカップをならべてくれるんでしょう。
第8回 (2004/04/12)
ふと気がつけば、いつの間にかまた春の陽ざしが。北の国はようやくふきのとうが顔を出す季節。あれから四季はひとめぐり…。そうです、この〈白樺の小径〉を、マニュアル本と格闘しながら初めてネットにUpした日から、もう1年がたったのです。
そしてちょうど今日、最新作「白樺派の休日〈演劇編〉」が、ようやくUpに漕ぎつけました。ホッとしました!
でも、実はまだちょっと、自分では作り込み足りないと思っています。本当はもう少し、図版があった方がいいのに…。でも、それは追々と足してゆく事にして、今日は内容の方を先にUpいたします。なにせこのサイトの誕生日、一つくらいは特別な事をしたいですから。
それにしても、去年の今頃は、1年も書き続けられるなんて思っても見ませんでした。まして、見知らぬ多くの方がアクセスして下さるなんて、考えも出来なかったのです。
オープンが4月、アクセスカウンタをつけたのが6月。この間はまだ自分のページに自信が持てず、知人にすら宣伝しませんでした。ですから8月頃までは、全体のアクセス数に比べると、自分のアクセスの割合が多い気がして、何だか更新のために接続するのさえも気がひけていたくらいです。
でも、サイトの内容に関心を持ってくださる方も1人2人とあらわれ、その前後から不思議と、アクセス自体も増えて来ました。そして今や、時おり励ましのメールを下さる方々まで…。やっぱり人間って、他のたくさんの人の見えない力で支えられているものだと実感しています。
このサイトの中で自分が一番大切にしている言葉は、やはり、〈あの日、君が、そこにいた意味を探したい〉ということ。白樺派の青年たち、その友だち、そして、その友だちが連れて来てくれる個性豊かな人たち…。たくさんの〈君〉に出会えることが、私には何より嬉しいのです。
ここの文章を読んだ方の中には、“どうしてこんな、大して有名でもない人の事をあれこれ書き連ねているんだろう…何で、もっと、テーマを武者小路とか志賀とかに絞らないんだろう”と思われる方も少なくないかも知れません。
でも、私にとっては、かつての或る日そこにいた、色んな〈君〉に出会える事が一番大事。それに、『白樺』にいた人たちは(これは本当に共通して)皆、友だちが大好きだったのですから。“彼らの好きだった人は、とても素敵な人だったよ”──そうした発見を、皆さんとも、ほんの少しずつでも分かち合えればと思っているのです。そして、その発見から得たイメージを少しずつ重ね合わせていったならば、やがて、より鮮やかな彼らの姿が、そこからきっと浮かび上がってくるのではないかと思うのです。
第7回 (2004/04/07)
また今度のアップも遅れに遅れて、とうとう4月になってしまいました!でも、今はもう、ページを整えている段階なので、あとほんのわずか。(ホントウです。てのひらと指がこって痛い…)(T_T)
ですから、この欄も、ほんの当座の書き込み。文字通りの〈風のたより〉となります。
何といっても、3月22日から1週間、どうしても出歩かなければならない用事で時間がつぶれてしまったのが痛かった。その間はほぼ毎朝、4時半か5時起床。パソコンに向かえる時間はほとんどありませんでした。
そしてなお辛かったのは、その時一生懸命やっていた事柄が、結果的には何だか徒労に終わった感じになってしまったこと。そういう時って、本当に切ないです。取りかかる前は、“1週間はこの事にかかりきり、でも、ベストを尽くすぞ”と割り切っていたはずなのですが…。
それともう一つ、痛かったのは、やっと気分も立ち直ってHPに取りかかりはじめた時に、例のコンピューターウイルス〈Netsky.Q〉が舞い込んで来たこと。あれは、一見、他人か自分かのメール配信ミスのように見えてしまう所がミソなのですね。思わせぶりなバイナリファイルも添付されていますし。“だれかが間違えて私にメールを送ったのかな、それとも私が送信ミスをしたのか…”としばらく首をひねった後、ネットでファイル拡張子を検索したら、それが最新のウイルスだとわかって、あせってしまいました。
幸い、大事には至りませんでしたが、ほとんどウイルスメールに縁のなかった私の所にも届く時代になったなんて…。今は下火になったようですが、皆さんもどうか、くれぐれも御注意下さい!
第6回 (2004/03/02)
〈風のたより〉も、すっかり間遠になっていました。実は今、ちょっと出かける準備をしていまして…。また、白樺派の面々のことについて、お話をしてくる予定です。今月の半ば過ぎましたら、その成果をHPにアップできると思いますので、どうかお楽しみに!
(なんていって、また翌月にズレこんだりして…。遅筆ならぬ遅HP作者…いえいえ、そんな事にならないように、今からよ〜く肝に銘じておきます。)(-_-;)
いや〜それにしても、今年の早春の北海道は寒い!去年、冬らしくなるのが妙に遅かったので、“いやいやこれはフェイント、このままで終わるハズはない…”と思っていたら、ヤッパリそうでした。しかし、なぜ、ひな祭りを迎えようというのに、連日雪降りで最高気温がマイナス5度なんでしょう。こんな事はホントウに初めて!どんなに大雪の年だって、3月の卒業シーズンになれば雪はゆるんで、道路はグシャグシャというのが普通だったのに。
ところで。 今年は、いつもならそんなに雪が積もるはずのない道東・オホーツク地方が集中的に大雪に襲われて、本当に大変でしたが、実は、あのくらいなら毎年のように降るよ…というのが、倶知安(くっちゃん)やニセコの方。ちょうど、むかし有島農場があった地方なのです。
以前、私が高校に勤めていたころに聞いて、すごく印象にのこった話ですが、なんでも、かつて、ある先生が、道東から倶知安へと転勤したのだそうです。この先生、それほどご年配というわけでもなかったらしいのですが、転勤した年の冬、どんどん降り積もる雪を、かいて、かいて、かいて…ひと冬、毎日のように雪と格闘したら、すっかり心臓を悪くしてしまったのだそうです。
それで結局、やむを得ず転出願いを出して、もう少し雪の少ない地方に転勤させてもらったということです。
もちろん、このようなケースは、ダメージが極端に体にひびいてしまった例でしょう。でも、何といってもその頃はまだ、雪はね機も、融雪機も、ロードヒーティングもなかった時代。ですから、そういう先生の話を聞いても、ちっとも、大げさだなんて思いませんでした。
今でも私は、ニセコ方面の事を思うたびに、この話を想い出します。そして、“有島農場の人たちは、そりゃあ、チャンスがあれば他の地方に移りたいって思っただろうなぁ。きっと、そういう人は少なくなかったはずだなぁ…”と考えてしまうのです。
春よ来い!
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