【風のたより(1)】 by
銀の星
・1〜5回まで ('03/10/23〜'04/01/10)
第5回 (2004/01/10)
年末、買い物に掃除に、年賀状作り(家族の分も)…とあたふたしているうちに、とうとう年を越してしまいました。〈白樺派ゆかりの地来訪〉といっても、もう、一ヶ月も前の事。ホットな話題じゃありませんね…。
でも。初めて訪れた東京の近郊は、とても落ち着いた感じ。電車沿線の町々も、“桜上水”とか“高幡不動”とか、何となく〈地元史〉を彷彿とさせる名前が多くて、旅心をそそられます。今度は花咲く頃にでも、ぜひまた訪れたい!と思いました。ですから、時期はずれは承知の上で、ちょっと頑張って、どんな場所だったかご紹介しておきましょう。
なごりを惜しみながら我孫子を発ったのち、電車を乗り継ぎながら、最初に訪れたのが、東京・駒場です。
東大前駅で降りてから、教養学部の校舎を右後にして、住宅街へと入ってゆく割合細い道を(この方向でいいのかな)とドキドキしながら辿ってゆくと、曲がり角をヒョイと右に折れた所に、どっしりした蔵づくり風の白い建物が!これが、日本民藝館です。(←左の写真)
柳宗悦やリーチ、河井寛次郎といった人々が世に発信しようとした“彼らの感じた日本”が、ここにはどっさり詰まっているように思われました。短い言葉ではなかなか言い表せませんが、館まるごとが〈大きな古時計〉みたいな空間だといったら、多少はニュアンスが伝わるでしょうか。
上の階には、柳の愛した朝鮮の民芸が常設されています。また、来館した時には、ちょうど〈九州の民族仮面〉の特別展が行われていました。
でも、私が一目で好きになったのは、もう、彫り跡もすり減ってしまっているような、室町時代のヘンテコな〈狗犬(こまいぬ)〉たち。(右の絵はその一つ→ 本当です。こまイヌです。デフォルメではありません。館の玄関すぐのケースであなたをお出迎えしてくれます。)
これって、だれが目をつけて集めたんだろう。柳さん自身だったらいいなぁ、すごく好きになれそう…。そんな風に思いながら眺めていました。
さて、電車を乗り換えて、到着したのは調布のつつじヶ丘駅。ここから、いよいよ〈武者小路実篤記念館〉へと向かうのです。
とはいえ!これから、実篤記念館に行ってみたいと思っている方々、要注意。実篤記念館へゆくには、日本民藝館以上に、深く深く、住宅街の中に分け入ってゆかねばなりません。しかも、少し距離がある割に、方向指示板が少ない!
確かに、ここはいかにも、閑静な雰囲気を重視しているらしい住宅地。ハリガミもプレートも控えなければならないのでしょうが…。
それゆえに、記念館まで到達するには、確固たる信念が必要です。駅から住宅街の入り口までは、比較的指示板も辿りやすいので、あとはとにかく地図を充分に確認し、いったん方向を決めたら、あまり迷ったりしないこと。(あれ、いいの…?本当にこの道でよかったのかなぁ…?)と、胸にソクソクと不安が迫りはじめる頃、はるか行く手の電信柱に〈記念館〉(または実篤公園)の指示板が見つかると、本当に、謎解きゲームでクリックポイントを見つけたぐらい嬉しくなります(私自身は、あまり何回もやった事はないのですが)。
ですから、これから行かれる方も、ぜひ、ロールプレイングゲーム感覚で、記念館探しをお楽しみ下さい。ラストには、次のステージへと移動…するわけではなく、あのお馴染みのかぼちゃの絵(←左)が、貴方を迎えてくれます。
武者小路実篤記念館は、こぢんまりとはしていますが、採光がよくて暖ったかい感じの記念館です。これまで、カタログ購入などの時にお世話になっていたので、ほんの一言御礼を言うつもりが、学芸員の方のご親切につい甘えてしまい、気がつくと腰を落ち着けて色々とお話をうかがってしまっていました。館の皆様、あの節はありがとうございました!
さて、館を辞し、いよいよ実篤公園へ。館の裏手に広がる敷地には、実篤が晩年に住んだ〈仙川の家〉が保存されています。たくさんの木々の間を抜け、大きな池の橋がかりに近づくと…
…池のコイが、やって来てくれました。武者小路さんが生きていた頃の、十何代目かの子孫でしょうか?
武者小路さんの胸像に(お宅はどこですか?)と心で尋ねて、ふとその奥を見ると、こんもりとした茂みの向こうに、高床式の家があるのでした。水辺のすぐ近くなので、家の造りに納得です。
それにしても、我孫子では、友だちの家に小舟で通ったとのことですし、ここでも、家の一部(あずまや?)が池の水の上に張り出す造り。よほど、水辺が好きな方だったのでしょうか。
また、庭のことで言えば、ここだけではなく、我孫子で見た三人(武者小路・志賀・柳)の家も、あまり伝統的な型にこだわっていない庭だったのが印象的でした。日本庭園風に石灯篭・築山・玉砂利などときっちり作り込むのではなく、といって、西洋式にガーデニングというのでもなく…。和風にしてももう少し自由な、イメージの余地を残している感じでした。
それに、どのお家にも、いわば〈人里〉から少し離れた雰囲気があるというのも、ふしぎな共通点です。いつか、白樺派と空間感覚といった事を、考えてみるのも面白いかも知れません。
家の窓から、武者さんの絵でおなじみのお人形さんたちを眺めたあと、帰路につきました。いずこの場所も、はじめてなのに何となく落ち着ける…。懐かしい場所を訪れたような感じのする2日間の小旅行でした。
第4回 (2003/12/14)
先日、白樺派ゆかりの土地を訪れてまいりました。一ヶ所は千葉県我孫子(あびこ)市、もう一ヶ所は東京都調布市です。今回は、まず〈前編〉として、我孫子から…。
実はこのHP立ち上げが機縁となり、我孫子の〈白樺文学館〉にお伺いする事となりました。しかし当日、何故か12月なのに台風通過!レインコートを持って来ればよかった…とは、着いたあとから気づいた事。でも、この時期ににこんな気候なんて、普通は絶対、予想出来ませんよね。
それでも、幸い、風はそれほど強くならず、終日時雨状態。しっとり落ち着いた我孫子見学となりました。
我孫子は、柳宗悦・兼子夫妻と志賀直哉・武者小路実篤が一時期そろって住んでいた場所です。また、バーナード・リーチも、柳邸の裏に窯場を開いていました。今でこそ住宅地ですが、当時は、彼らの住まいを含めても人家はほんの数えるほどしかなく、閑静な空間だったようです。(※左上の写真は、志賀邸跡の敷地から道路側を見た所)
現在の白樺文学館の、道路を挟んですぐ斜向かいが志賀邸跡(※現存するのは書斎のみ・右の写真→)で、志賀邸の裏手からさらに少し高台に上がった所にあるのが元・柳邸です。
この二つの住まい、敷地はそれぞれ広く、また少し離れてもいるのですが、オーイ、と声をかければ、おう、と返事が返せる程の距離。木々も周りにこんもり茂っていて、何となく、屋敷というよりは、男の子のいわゆる“ひみつ基地”が進化(?)したような感じを受けました。
そういえば、今回見せていただいたものの一つに、志賀直哉が柳邸の庭で木のぼりをしている写真、というのがありました。この感覚は、その連想から来たものかも知れません。
そして、武者小路邸があったのは、そこから手賀沼沿いの道を少し進んで、さらに山側に入った所です。(※右は、武者小路邸跡の正門)
といっても、今の道路は、沼を埋め立ててから出来たもの。当時、手賀沼の周囲にきちんとした道はなく、水がひたひたと、志賀邸の石段の下まで寄せていたそうです。そんなわけで、土地の人にとって、手賀沼のほとりを行き来するには、なまじの山道より、舟を使った方が速くてスムーズ。そこで武者小路も、小舟で竿さし、スィ〜〜と岸に寄せては、お〜い、志賀、いるか〜......。こんな風に下から声をかけていたそうです。
そういうお話を聞くにつけ、私の空想は、谷内六郎の世界とか、マーク・トゥエインとか、「未来少年コナン」(古!)に出てきた樹の上の隠れ家とか、といった方面に広がってゆくのです。ここ我孫子は、ずいぶん不便で、湿気も多く、住みづらい土地でもあったようですが、それでも彼らがしばらく居たのは、そんな日常の不自由な生活そのものに、彼らの感性のワクワク部分を刺激する〈遊び〉の面が含まれていたからではないでしょうか?住居跡の地形を見ると、そんな風に思えて来ます。家族持ちとはいえ、皆、三十代前半頃(柳宗悦は二十代後半)。まだ心はオジサンになるには早すぎて…という事だったかも知れません。
雨なので手賀沼周遊は出来ませんでしたが、文学館には素敵なオーディオルームもあり、柳兼子さんの熱唱などを聴かせていただきました。珍しい〈手紙展〉も開催中でした(〜12/23)。白樺文学館の皆様、色々なお話をお聞かせ下さり、ありがとうございました!
* * * * * * * *
ところで、後からふと気がつき、あの地の近くには園池公致も住んでいたはず…と、あれこれ資料をめくっていましたら、ありました、「僕が我孫子にいた時、志賀直哉は園池と二人で気らくに同人雑誌のようなものをつくっていた」(武者小路「園池公致兄」・『心』昭和49年3月号)。「和解」第九章に「自分はある親しい友と毎土曜日二人だけで回覧雑誌を作る事にした」とある、その“親しい友”が園池です。二人きりの、ささやかな回覧雑誌だったようですが、しかしそれは、ある意味で、志賀が創作活動に復帰する第一歩ともなった大事な交流。こういう面から考えると、〈我孫子と白樺派〉の関わりも、またあらたに広がって見える気がします。
第3回 (2003/11/23)
釧路に行って参りました!
もう11月に入っていたので、かなりの冷え込みを覚悟していましたが、来てみれば連日の好天。着いた日だけは、まるでこの地の真夏を思わせるような濃い霧に包まれましたが、その後は、まさに道東の秋!4日間、毎日、抜けるような青空でした。
朝晩はさすがに冷え込むものの、日中はそんなに寒くない。それどころか、或る日のお昼頃などは、外出してもコートもいらない暖かさ!返り咲きのタンポポや赤いクローバーなどが道ばたに見えて、以前釧路に住んでいた私にとっても“不思議〜”な気分のする滞在でした。
(写真は、久寿里橋(くすりばし)から眺めた釧路川河口。遠くに見えるのが有名な幣舞橋(ぬさまいばし)です。)
でも、そんな秋の日射しに輝く街も、よく見るとあちこちに9月の地震の爪痕が。モルタルの壁に亀裂が入ったり、剥がれ落ちたり…。古いレンガの煙突が崩れ落ちたところもあるそうです。
街の高台にあるビル・まなぼっと(生涯学習センター。レストラン有り)がぐるりと工事用ネットで囲まれていて、はじめはただの改装かと思っていましたが、「あれは外側の飾りタイルが剥がれ落ちたんですよ」とのこと。やはり被害は生半可ではなかったのですね…。
とはいえ、深刻なばかりではないお話も。大学の先生からうかがったのですが、地震当日の朝は、先生方の研究室の扉がどこも全然開かなくて──というのは、本棚の本がほとんど全部床にとび落ちていて、しかも扉が内開きタイプだったので──どうにも、びくともしなかったそうです。
それで結局、まず体格のよい屈強な学生が数人、助っ人に来て、みんなで刑事物よろしくドアに体当たり。そしてすきまがわずかに空いたところで、今度は先生が手を差し入れ、本を一冊づつ引っ張り出すという地味な作業ののち、ようやく戸が開くようになったという……。こうしたお話は、とても面白かったです。(不謹慎で済みません。でも、面白くお話して下さったんですから。)
で、折角釧路に行ったのですから、啄木ゆかりのスポットにも立ち寄って来ました。初めてたずねる港文館(こうぶんかん)。釧路川の河口近くにあります。昔の釧路新聞の社屋を復元したという、レンガ造りの、小さくて可愛い建物です。
一階は喫茶室、二階は啄木関係資料の展示コーナー。正直なところ、資料が一寸少ない感じはしますが、(こういうスペースで、啄木が記事を書いたり、校正したりしたんだ…)と考えながら見学すると、また違った感慨が湧いてきます。
(左がその港文館。上は、港文館前に立つ啄木像。)
中でも眼をひかれたのが、芸者・小奴(こやっこ)さん関係の展示品。愛蔵していたという大きなお人形や、お歳をめしてからのお写真もありました。名妓で、文学少女でもあった方だけに、色々な素養があったのでしょう、上の啄木像の台座にはめこまれたプレートの短歌も、よく見ると小奴さんの筆によるもののよう(←「小奴」の署名入り・左の写真)。筆致がとても流麗です。啄木に「小奴ちゃん、死のうか」ともちかけられたという話は有名ですが、まだ二十歳そこそこの若さにもかかわらず、啄木を冷静に「お諫めした」とのこと。ホント、そんな心中ばなしなんて、マに受けないでよかったですよね、小奴さん!
さて、私もそろそろ、新しいコンテンツを書きはじめなくては。釧路の学生さんにお話ししたばかりなので、有島武郎の事にしましょうか。調べながら考えた事、おしゃべりしながら思い浮かんだ事、etc...
。様々な印象を忘れないうちに。
第2回 (2003/11/01)
一昨日は、茶道の先輩に誘われて歌舞伎を見に行ってきました。北海道で歌舞伎なんて珍しい、と思ったら、実は公演自体は道内各地でちょくちょく行われているのだとか。歌舞伎通のその先輩が教えてくれました。
演題は、『弁天娘女男白波(べんてんむすめめおのしらなみ)』の「知らざぁ言って聞かせやしょう…」浜松屋見世先の場と、白波五人男勢揃いの場でした。弁天小僧を演じたのは中村橋之助。しとやかな娘から伝法な悪党への転換シーンが、長襦袢(じゅばん)の緋色と相まって、幕末の錦絵のように鮮やかに眼に焼きつきました。
歌舞伎といえば、いろんな連想が浮かびます。維新直後に演劇改良運動の余波を受けて歌舞伎の評価が大きく揺らぎ、作者の河竹黙阿弥(当時70歳)も窮地に立たされた時、まだ27、8歳の坪内逍遥が大好きな歌舞伎のために発奮し、〈黙阿弥翁は我が国の沙翁(シェークスピア)なり〉と新聞紙上で激励したのは明治十九年のこと。また、それで河竹家の人は皆逍遥に感謝し、幼い子供・孫達にも「坪ンのおじさん」の事を親しみを込めて話していたそうです。そんな事を思い出しながら舞台を見ていると、改めて(勇三(逍遥)さん、良いことしたねぇ)という気持になります。
それに、歌舞伎は、もちろん白樺派とだって浅からぬ因縁。明治世代の歌舞伎役者・市川左団次は西洋演劇研究に意欲的で、小山内薫と組んで〈自由劇場〉(明治四十二年創立)でイプセンなどを演じたのですが、その自由劇場に熱心に足を運んでいたのが、若き白樺派の面々でした。
また、歌舞伎そのものにしても、木下利玄の熱心なファン振りは言うにおよばず、志賀直哉も楽屋に入らせてもらうくらいの入れ込みようでしたし、郡虎彦も左団次その人と直接好誼(よしみ)を結んでいたようです。それに、里見
弓享の小説『多情仏心』でも、主人公と歌舞伎役者の世界との絡みが、ストーリーに独特の原色的な彩りを添えていますし…。そんなこんなで、他にもまだまだ、いろんな縁(ゆかり)が発見出来そうです。
さて、珍しい舞台を見て、気分もすっかりリフレッシュしました。来週は、釧路行です。
第1回 (2003/10/23)
来月初旬は、しばらく、釧路に行って来ます。久しぶりに、学生さんたちの前で、お話をして来る予定です。
テーマは、〈有島武郎〉について。今は、その準備に追われている真っ最中です。
有島武郎といえば、実はこれまで、私が一番ニガテにしていた人物。できれば、どうしても避けたい峠道のような…。
でも、やります。と言うよりも、私は、こういう機会には、今まで避けてきた対象や作品を、かえって、わざと選んでしまうのです。人前でお話をするとなれば、否が応でも、きちんと調べなければなりませんものね。それで、去年は志賀直哉、今年は有島武郎というわけ。どちらについても、また近々、このHPに載せたいと思っています。
それにしても不思議なのは、有島武郎って、どんなに資料を調べても、思いっ切り遊んだり、羽目をはずしている部分が出てこないんですよね。もしかするとそれが、他の白樺派との最大の違いかも知れません。なかなか、気持ちの上でのとっかかりが出来なくて、正直、困っています。去年の志賀直哉なんて、気むずかしい深刻な作家という印象だったのが、資料を見ていくうちに、意外なほど好奇心旺盛でフットワークの軽い人だったとわかって、嬉しくなっちゃったりしていたんですが…。
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