心のスナップショット ─石川啄木と同世代の青年たち─

【3.短歌時代の石川啄木】
1)詩から短歌へ ─まなざしの変容─
2)写真表現とのシンクロニシティ
3)〈想い出〉のスナップショット

【3.短歌時代の石川啄木】

1)詩から短歌へ ─まなざしの変容─

 さて、啄木の話に戻りましょう。

 その後の啄木の人生は、皆様の方がすでにくわしくご存じでしょう 。
 まず、故郷・岩手での1年の代用教員時代があり、さらに1年ほど北海道を転々とします。
 再び上京したのが明治41年(1908年)ですが、その時、放浪の間に抑えつけられていた詩情があふれ出て『一握の砂』短歌群となりました。また、翌年には、妻の家出のショックから初めて生活を直視し、〈食ふべき詩〉に代表されるような表現思想を獲得するに至ります。

 この時期が劇的な変化の時期であることを証明しているかのように、歌集『一握の砂』(明治43年12月刊行)の中でも、はじめの方に入れられている歌と、中頃、そして後半とでは、歌風がずいぶん違ってきます。
(※短歌の引用は、明治文学全集52より。なお、すべてのルビを付記すると字面が煩雑になるため、数ヶ所以外は省いてあります。)

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる

 砂山の砂に腹這ひ
 初恋の
 いたみを遠くおもひ出づる日
 (「我を愛する歌」)

 これらの歌には、まだ、浪漫派の詩人だった頃のおもかげが感じられます。でも、中頃の

 ごおと鳴る凩(こがらし)のあと
 乾きたる雪舞ひ立ちて
 林を包めり

 空知川雪に埋れて
 鳥も見えず
 岸辺の林に人ひとりゐき
 (「忘れがたき人々」)

などになりますと、もう、そんな痕跡はほとんど見られません。岸辺の林にいる人は誰か、などといった詮索など意味を失ってしまうほどに、北海道の寒々とした実景が伝わってきます。

 もちろん短歌ですから、同じ時期に詠まれたものでも、歌風に多少の揺らぎはあります。しかし、おおむね、北海道での体験を経た頃から、こうした、特にロマンチックな情景というわけでもなく、彼の個人史に深く関わるわけでもないような、一瞬の情景を詠んだものが多くなります。『一握の砂』の章立てでいいますと、「忘れがたき人々」や「手套を脱ぐ時」あたりからでしょうか。

 手套(てぶくろ)を脱ぐ手ふと休(や)
 何やらむ
 こころかすめし思ひ出のあり

 皮膚がみな耳にてありき
 しんとして眠れる街の
 重き靴音 

 マチ擦れば
 二尺ばかりの明るさの
 中をよぎれる白き蛾のあり
 (「手套を脱ぐ時」)

 これらの詠歌など、まさに、彼ならではの、一瞬の感覚の切り取り方です。

 さらに、歌集の末尾の方ですが、生まれてまもない息子が亡くなるという事態に直面し、

 かなしみの強くいたらぬ
 さびしさよ
 わが児のからだ冷えてゆけども
 (同前)

と、泣くことすら出来ない自分自身を見据えているまなざしは、かつて、小島の磯で泣き濡れる自分を、ロマンティックな挿絵のように描いていた人間のまなざしとは別人のようです。
 啄木の表現は、なぜ、このように変わっていったのでしょうか。

 もちろん、一番の原因は、彼をとりまく状況が年々深刻さを増し、ロマンを脱却して否応なく現実と向き合わざるを得なかった、という点にあります。

 しかし、どんな時代でも、芸術表現は、同時代の他の表現メディアの発達と無縁ではありません。
 華麗な新体詩から叙情的な短歌へ。そして日常の一瞬を鋭く切り取るような短歌へ。実は、この移り変わりは、絵画から写真へ…それも、単に記録するのではなく、“二度とない瞬間”を留め残そうとするスナップショット写真へと移行する、この時代のいわゆる〈ピクチャー〉の歴史と、ぴたりと呼応しているのです。

 うたふごと駅の名呼びし
 柔和なる
 若き駅夫の眼をも忘れず
 (「忘れがたき人々」)

2)写真表現とのシンクロニシティ

 啄木の短歌のある部分が、きわめて写真的だという点に関しては、以前から指摘されていました。
 彼自身、例えば、このように述べています。

 三十一文字といふ制限が不便な場合はどし"/\字あまりもやるべきである。又歌ふべき内容にしても、これは歌らしくないとか歌にならないとかいふ勝手な拘束を罷(や)めてしまって、何に限らず歌ひたいと思った事は自由に歌へば可い。かうしてさへ行けば、忙がしい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那(せつな)刹那の感じを愛惜(あいせき)する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。さうして我々はそれに依って、その刹那々々の生命を愛惜する心を満足させることが出来る。
(「歌のいろ/\」 『東京朝日新聞』明治43年12月 ※日本詩人全集8)

 人は誰でも、その時が過ぎてしまへば間もなく忘れるやうな、乃至は長く忘れずにゐるにしても、それを思ひ出すには余り接穂(つぎほ)がなくてとうとう一生思ひ出さずにしまふといふやうな、内から外からの数限りなき感じを、後(あと)から後からと常に経験してゐる。
(「一利己主義者と友人との対話」 『創作』明治43年11月号 ※日本詩人全集8)

 毎日毎日、心にふとした印象の影をのこしながら、そのまま過ぎ去ってゆく瞬間がある。かつては、それはただ消えてゆくしかなかったのですが、〈近代〉の〈写真〉というテクノロジーは、その瞬間のある部分を、留め残す事に成功しました。そして、留め残せるというその事実が、逆に、そういう瞬間こそ大切なのだ、という発想にもつながってゆきます。

 そして、事実、1900年代前後は、〈写真〉の歴史にとっても、それまでにない空前の大変化が起こった時代でした。

 明治20年代半ば(1890年頃)までは、写真というのは、とにかく機材が大きくかさばっている上に、撮影するにも、現像するにも、手間がかかるものでした。その上、値段も高い。ですから、写真はその道のプロが扱うものか、そうでなければ、裕福な華族や資産家の趣味だったのです。

 ところが、アメリカのイーストマン・コダック社などの技術革新が引き金となって、1895年(明治28年)に、乾板ではなく〈ロールフィルム〉が使える小形カメラが誕生しました。軽くて、小さくて、写したい時にすぐ写せます。しかもフィルムは巻き取られますから、乾板のように、入れ替えの時にいちいち暗室に飛びこむ必要がありません。

 その発明から15年ほどの間は、まさしく、今いうところの“ドッグイヤー”でした。ドイツではヒュッティッヒ&ゾーンやクルト・ベンツィンなどなど。日本では小西六(現在のコニカの前身)などが、競うようにして、新しい機種やフィルムを続々開発したのです。
 特に日本では、小西本店の〈チェリー手提(てさげ)暗箱〉(明治36年・1903年)が、画期的な新機種でした。これは、当時最新のロールフィルム式ではなく、乾板式を用いたものでしたが、またそれだけに、お値段も手頃だったようです。
(左・図2:チェリー手提暗箱)

 明治三十年代に入ると、小型・軽量のチェリー手提暗箱に代表されるような使いやすく、値段も安いカメラが登場し、アマチュア写真家の裾野が広がりはじめる。ちょうどこの頃大流行していた水彩画と同じように、写真は気軽な趣味として普及していくのである。 休みの日に郊外にカメラを持って出かけ、景色のよい場所に三脚を据えるようなアマチュアがふえてくると、同じ趣味を持つ者同士が寄り集まり、情報交換したり、写真展を開いたり、機関誌を発行したりする写真クラブを結成する動きも活発になってくる。
(飯沢耕太郎「日本の「芸術写真」が始まった」 ※注6

 いわば、当時としては、あの〈撮りっ切りコニカ〉のような“レンズ付きフィルム”にも匹敵するような大ヒット発明でした。明治時代の一般の人にとっても、写真は、もう、写真館で硬くなって撮ってもらうものではなくなったのです。  

3)〈想い出〉のスナップショット

 例えば、白樺同人たちの想い出の写真一つを取り上げても、その変化は歴然としています。

 彼らが幼い頃から少年期にかけては、写真館で撮影したらしいものが殆どですが、明治36年頃から、がぜん、素人写真風のものが増えてきます。学校での野外演習の時や、卒業前にクラスメートだけ集まって撮った写真など。そして明治40年代に入ると、その頃は、同人の正親町実慶(おおぎまち・さねよし、筆名・日下 言念(くさか・しん)左・図3が特に写真が好きだったらしく、彼が撮った写真が、数葉遺されています。彼の兄・公和(きんかず)の家に同人が集まった時のひとときや、『白樺』の編集作業の様子を撮ったものです。
 彼の写真機は、当時はやりのチェリー手提暗箱だったのでしょうか。それとも、もしかすると、ドイツ製か何か、輸入物の一眼レフだったかも知れません。

 でも、やはりまだ素人写真…と見えるのは、被写体の顔がちゃんとレンズの方を向いていないうちに撮ってしまったり、光線が逆光気味に横から入っていても、構わず写してしまったりしているため。いかにも、まだ、写すことそのものを楽しんでいるといった感じです。

 それでも、気心の知れた仲間同士の集まりでの撮影ですから、上の写真では、巧まずして、志賀がフッと笑顔になった瞬間を写し込んでいたり。全体に、“記念撮影”的に作りこまない普段のポーズや一瞬の表情を切り取っていて、彼等の日常を今に伝える、貴重な写真となっています。


図4:沼津の正親町邸にて 明治42年)
左より武者小路・志賀・正親町公和・里見 弓享
調布市武者小路実篤記念館所蔵

 


図5:ロダン号編集中の武者小路(左)と里見 明治43年)
神奈川近代文学館所蔵

 そして、このようなアマチュア写真の大ブレイクという背景があったからこそ、アマチュア写真研究団体の“芸術写真宣言”なども起こり、日本の写真界に大きな転換期が訪れることとなったのです。

 「知るものは言はず、言ふものは知らず、行ふものは知らず、知るものは行ふ所のものにあらず、これを大方の世のさまと観ぜば、写真界も亦(また)之には洩れずと云はんか。あらず、知るものは写真界を棄てゝ去りぬ。あます所は無智無識の輩(やから)のみ。……何を写真の精霊と云ふ、趣味是なり、芸術思想是なり。技術は唯(ただ)形体のみ。単に形骸(けいがい)を存すれば死屍なり」

 これは最も歴史の古い写真雑誌のひとつである小西本店発行の「写真月報」明治三十七年(一九〇四)八月号に掲載された「空蝉(うつせみ)(一)」と題する文章の冒頭である。
(中略)

 ところで、この「空蝉(一)」という文章はゆふつゞ社(※ゆうつづ社。「写真月報」を編集していた久野轍輔・加藤精一らが結成した研究団体)の写真家たちが、彼らの写真芸術論を高らかに主張しはじめた、その最初のマニフェスト(宣言文)だったと思われる。
 「むらさき」という筆者(※本名・斎藤太郎。ゆふつゞ社の社員)は、写真制作の唯一の目的は「画を得ること」であると断言する。彼らの美意識によって生み出された一枚の「画」としての写真作品である。そしてその芸術作品としての「写真画」を制作するためには、ネガや印画紙に手を加え、画像を修整するような「醇(じゅん)化、理想化」をおこなうべきであると主張する。画面の絵画的効果を最優先する欧米のいわゆるピクトリアリズム(絵画主義)の理論の影響を強く受けた主張といえるだろう。
(飯沢耕太郎「日本の「芸術写真」が始まった」 ※注7

 啄木が『明星』でデビューした明治36年頃とは、別の分野で、こうしたダイナミックな表現意識の変革が起こった時期でもあったのです。

 啄木の、詩人・歌人、そして言論家としての強烈な〈変革〉志向は、一文学者として見た場合には、きわめて先鋭的で、特異で、突出した個性のようにも見えます。しかし、“個性”は確かに個性としても、このように技術革新が行われて生活意識も表現意識も変化していった、同世代人たちの動向とは、決して無関係には論じられません。

 一生に二度とは帰つて来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。
(啄木「一利己主義者と友人との対話」 同上 ※日本詩人全集8)

 ある意味で、短歌は、心と命を写し留める、啄木にとってのチェリーカメラだったかも知れないのです。


【注記】

注6  エピソードでつづる日本の写真150年『カメラ面白物語』(朝日新聞社編 1988年)50頁

注7  同上 48頁

【図版】(※無断複写・転載禁止)

図2  Konika会社情報(HP)http://www.konica.co.jp/corporate/
   〈コニカの歩み〉より引用

図3  白樺新年会(明治45年1月)の写真より引用 
   『写真に見る「実篤とその時代」 ─I 大正期まで─』(既出)19頁
   〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕

図4  同上 13頁
   〔調布市武者小路実篤記念館所蔵〕

図5  同上 18頁
   〔神奈川近代文学館所蔵〕