心のスナップショット ─石川啄木と同世代の青年たち─

【4.啄木の晩年期】
1)表現意識とブルジョアジーの時代
2)交換されるイメージ ─啄木と白樺派─
3)生き続ける〈啄木〉

【4.啄木の晩年期】

1)表現意識とブルジョアジーの時代

 “今、消えてゆくこの瞬間をしるしとどめる事が、すなわち現実なのだ”。この思想は、写真技術の発達だけを契機に現れたものではありませんでした。

 例えば、写真雑誌の編集者であり、写真研究家でもあった西井一夫さんという人は、こう述べています。

 宮廷・貴族・教会という絵画の三大パトロンに加えて、ブルジョアジーという新しい鑑賞者が歴史に登場したとき、古典的な美と芸術は乖離をはじめ、絵画の中に“ことば”が持ち込まれた。美としての絵の評価を歴史にゆだねてきた中世以前の流れのなかに、新古典主義(絵それ自体の中に語りうる古典のストーリーを持つ)以降、物語が入り込み、それが古典の模倣ではなく、眼前にある民衆とその光景という現実を模写するようになったとき、近代絵画の歴史が開始され、ここに「時代の目撃者」が誕生する。十八世紀、スペインのゴヤである。そこには美であるよりはむしろ醜であるものが描かれている。しかしそれは悪夢や悪魔についてのイデーではなく、その時代の日常の中の事件であり、正視に堪えないものであろうと、作家がその眼で見たものであった。
 このような近代の生成の流れの中で写真が登場する。
(太字は引用者 ※注8

 写真というものが現れる一世紀ほど前からすでに、西洋絵画の世界においても、“眼前にある”民衆や事件を描き留めたいという欲求は始まっていた。そして、その大きな潮流の変化の根底には、芸術の庇護者・鑑賞者としての市民ブルジョアジーの勃興があったのだ。──ここで述べられているのは、あらまし、このような事です。

 ブルジョアジーの時代。日本でいえば、まさに、明治以降の、華族階級や有産階級が形成された時期がそれにあたります。
 日本における近代絵画も、はじめ、欧米の歴史的絵画の構図や美の理想をそのまま規範として取り入れようとする方向から、間もなく、民衆や社会のナマな姿を捉えたい、という方向へとシフトチェンジしました。洋風画だけではなく、日本画にも、同様の傾向がみられます。

 つまり、“民衆のいまを記し留めたい、刻々変わる時代の目撃者でありたい”という意識は、一見、その後のプロレタリアート芸術時代を素描しているかに見えますが、そういう精神や志向性自体は、まさしく近代のブルジョアジー社会の中で醸し出されたものだ、という事になります。この西井さんの概括は、正鵠を得ていると思われます。

 振り返ってみれば、石川一(はじめ)という青年も、もともと故郷では、〈お寺さん〉という知識階級の子供でした。村の子は滅多に行かない〈中学校〉にも進学し、中退などしなければ、小泉鉄などと同様、学歴もかなり高いところまでいったはずです。
 その上、彼の志は“文学者として世に立つ”“芸術家として子供を感化・教育したい”という事でしたが、これとて、昔ながらの農村社会では、こんな観念的な将来の進路は、誰も、夢にも望む筈がありませんでした。

 ですから、〈石川啄木〉という文学者が世に出たという事自体、近代市民社会の日本だから実現した事だったわけです。彼の出自も、そして精神史も、いわゆる当時の庶民よりは、はるかにブルジョアジーの方に近いものでした。
 これは、彼が貧困に苦しんでいたという事実と、別に矛盾するものではありません。また、ここでの〈ブルジョアジー〉という言葉に、否定的な意味はありません。

 しかし啄木自身は、〈自分がどこから来たのか、自分は何者なのか、人々の中で自分は本当はどの位置にたって発言しているのか〉については、残念ながら、つきつめて自分に問い直すことはなかったように思えます。若い時から常に〈革命者〉であろうと自負していた啄木にとっては、ある意味で、その強烈な自意識だけで充分だったのでしょう。

2)交換されるイメージ ─啄木と白樺派─

 でも、実は、啄木や、啄木が関わっていた雑誌『スバル』(明治42年創刊)のメンバーは、デビューしたての『白樺』(明治43年創刊)のメンバーと、世間がイメージ的に混同するくらい、いかにも洗練された知識人風だったのです。

 明治44年の『白樺』には、こんな文章が載っています。

 此の頃朝日新聞に「バーとホール」と云ふ見出しでカフェープランタンやライオンの事が出てゐた。メーゾン鴻の巣の記事が出たときには此処に集まる面々として大部同人の名が見えた、就中尤も滑稽なのは武者小路実篤と云ふ名であった。武者は一体料理屋と云ふやうな種類のものは嫌ひなのである。従って余儀ない会でもある場合の外は出かけるやうな事はない、鴻の巣の如きも本人に聞くと嫌ひなのださうである、第一鴻の巣はかつて遠くから望んだ事ある(※原文のまま)が行った事はない、次に正親町公和と来ると頭に伯爵嗣子と云ふ四字を頂いて現はれてゐる。本人は之れを見て「かう云ふ風に広告に使はれるのだからやりきれない、」とこぼしてゐた。其の終りの方には「白樺の若殿原は御小遣はあり余るし」と云ふやうな事が書いてあった、いづくんぞ知らん梅ヶ枝の手水鉢でも叩きたい位なのが多いのである。(後略)
(「編輯室にて」より 日下 言念 『白樺』Vol.2-No.10 明治44年10月)

 この日下 言念(くさか・しん)は、先ほど写真の所でご紹介した、正親町実慶です。それからメーゾン鴻の巣とは、ちょうどその頃に銀座に登場した、西洋式のお洒落なカフェ兼レストランでした。

 この当時に限らず、現在でもなお、一般的には、“白樺派は、上流階級の子弟で裕福だったから、金銭的な苦労はなかった”という思いこみが根強くあります。
 ところが、上流階級の家庭とは、核家族の単位で成り立っているのではなく、色んな人がそこで働き、給金をもらったりしている、いわば一つの組織です。しかも、子どもの数も今よりずっと多い。親や家令などの財産管理者が買ってもよい、必要だ、と判断してくれれば、高価なカメラなども手に入るでしょうが、無制限な浪費が許されるわけではありません。かえって、今の庶民の若者などよりも、金銭面では遥かに厳しく管理されていたといった方が当たっているでしょう。

 白樺派に関していうならば、彼らが自由に使えたお金は、ほとんど、手持ちの古本などを売ったお金でした。雑誌『白樺』の出版資金も、その三年ほど前から計画して、みんなが必ず毎月、小遣いからいくらか割いて積み立てをしようと決め、コツコツためて作ったものだったのです。
 白樺派の人たちには、そうした、非常に地味で地道な一面があります。それに、まだ駆け出しを自認していた彼らは、外の世界に対しては非常にシャイでしたから、いわゆる〈文士〉仲間の間に立ち混じることなど、ほとんどありませんでした。わずかに、郡虎彦が比較的気軽で人なつこいたちで、第二次『新思潮』や『スバル』のメンバーともつき合いがあった、という程度だったようです。

 一方、その『スバル』(『明星』の後身)の執筆陣や、〈パンの会〉といった新進の芸術家グループは、ヨーロッパの香り高いメーゾン鴻の巣を贔屓にし、月一回くらいの頻繁なペースで、会合を開くようになりました。

 そこに集まったとされる文学者の名は、与謝野鉄幹・北原白秋・永井荷風・谷崎潤一郎・高村光太郎など、のちに著名となる人が目白押し。『スバル』の発行メンバーだった石川啄木の名も、もちろん中に含まれています。〈鴻の巣〉開店は明治43年なので、啄木が行った期間そのものは、おそらく1年弱くらいだと思われますが、文学者仲間と足を運んだ事は間違いないようです。
 要するに、当時〈鴻の巣〉の従業員や客が、(あの人たちは文士か絵描きのようだし、ハイカラだし、あれが『白樺』の同人かな?)と思って見ていたのは、ほとんどの場合、『スバル』か〈パンの会〉のメンバーだったという事になります。

 もちろん、これをもって、『スバル』のメンバーの方が贅沢だったなどとは、一概にいう事はできません。
 しかし啄木について言えば、この当時は亡くなる1〜2年前。家計的にも逼迫していた時期で、たまのおつき合いとはいえ、カフェやレストランに行くことは、かなりの負担だったはずです。
 また、仮に〈鴻の巣〉の事はひとまず脇に置くとしても、啄木の金銭感覚には、客観的に見ると、どうにも首をかしげたくなる部分が少なくありません。知人が都合をつけて貸してくれたお金で、高価な書物を買ってしまったり、せっかくの『スバル』発行名義人というポジションも、スタッフと論争したあげくに抛(なげう)ってしまったり……。それでいて、啄木の後半生といえば、“ヴ・ナロード”(民衆の中へ)という言葉で代表されるような、社会派的な側面がクローズアップされがちです。

 そんな彼が、知らず知らずとはいえ、彼が打倒すべきだと考えていた所謂〈特権階級〉側からの出身者である〈白樺派〉のイリュージョンを作る事に関わってしまっていたというのも、考えてみれば皮肉な縁といえましょう。

3)生き続ける〈啄木〉

 さて、このように、石川啄木と白樺派とは、一見まったく別々のようでありながら、実は一枚の紙の表裏に互いが存在するような、不思議な縁のつながりのもとに、同時代を過ごしてきました。
 しかし、全体の流れを見れば、結局〈メーゾン鴻の巣〉の件のあった明治44年頃を一期として、かつての詩歌界のホープは人生の下降線を、そしてかつての平凡な少年読者たちは、新たな表現者として上昇線をたどり、すれ違っていったと言えるでしょう。

 『悲しき玩具』は、啄木の死の直後に出版された歌集です(明治45年6月)(※引用・明治文学全集52)。そのタイトルが示す悲しみの通り、彼の〈短歌〉のカメラは、病が重くなるに従って、周囲を写し込む事も少なくなり、次第に心の奥へ奥へと沈み込んでゆくように見えます。

 いま、夢に閑古鳥(かんこどり)を聞けり。
  閑古鳥を忘れざりしが
  かなしくあるかな。

 いつとなく我にあゆみ寄り、
  手を握り、
 またいつとなく去りゆく人人!

 眼閉づれど、
 心にうかぶ何もなし。
  さびしくも、また、眼をあけるかな。(※この歌は没後発見)

 次第に心の深部へと沈んでいった心のレンズが、最後の方で一瞬、くっきりと捉えたのが、故郷・渋民のカッコウ鳥であった事。そして「眼閉づれど、/心にうかぶ何もなし」、心のスナップショットに本当に何も写らなくなってしまった時に、彼は、その死を迎えたらしい事。これらの事を考えると、今、この瞬間にも、何ともいえない気持ちになります。

 それでも、人は、生身(なまみ)の自分自身では、性格などがネックになって理想を充分果たす事ができなくても、その理想を述べたことばに喚起力があれば、時を超えて、人の心を動かし続けることが出来るのかも知れません。

 啄木を“見たことも、会ったこともないけれど、懐かしい人だった”と回想した小泉鉄 は、『白樺』廃刊以降、仲間と離れ、台湾の原住民の事について調査するようになります。
 「蕃人(ばんじん)なんか調べて何が面白いんですか、と私に聞く人がある。(中略)私には蕃人の悪口がいはれたり、真相が誤り伝へられたりしてゐるのを聞いたり、見たりすると腹が立つのである」(「東部と蕃人」昭和3年12月 ※注9と書き記した小泉は、昭和の初め頃、組織に属さず、一介の民間人学者として、一人、台湾の奥地に踏み込んで行きました。

 蕃社へ入って彼らと友達になり心の底から愉快になるためには先づきたないといふやうなことを思ってはいけない。(中略)
 それから少しでも高くとまっていることは禁物です。彼等といつも同じやうな人間にならなければ駄目です。少なくとも彼等の笑ふ時に本当に彼等と同じやうに大きな声を出して笑へなくては彼等と一つになることは出来ません。彼等を自分にひきつけるのではありません。彼等の生活の中に吸ひ込まれてゆくのです。つまり何よりも彼よりも蕃化することが大事なのです。
 さうすれば蕃社くらゐ愉快なところはありません。こんな住み心地のよいところが地上のどこにあるだらうと思はれます。私は何時だって蕃社をめぐってゐて台北に帰りたいと思ったことが一度もありません。私は蕃界といふ自然のまゝで手を入れていない大地と蕃人といふ自然のまゝに育まれてゐる美しい胸に何ともいへない心のゆとりと慰めとを感ずるのです。
(「奇密社のことども」 昭和三年六月二日、蕃社調査の旅行の途中にて ※注10

 “対象を理解しなければ”というのではなく、“大好きだ”というスタンスで、台湾の先住民族の中に身を投じた小泉鉄。晩年の彼は、不遇だったとも伝えられていますが、自由人として人生を生ききったようです。その生き方の中に、若い頃、彼が遠く憧れていた〈啄木〉という人物の幻、“ヴ・ナロード!”の精神が垣間見えるように思われるのは、果たして偶然でしょうか。

(了)

※本稿は、2003年5月10日の、小樽啄木会主催・第91回啄木忌講演(於・小樽文学館)の原稿をもとに、加筆・改稿したものです。


【注記】

注8  西井一夫『20世紀写真論・終章──無頼派宣言』(青弓社 2001年)27頁

注9  小泉鉄『蕃郷風物記』(建設社 1932年)33頁

注10  同上 44〜45頁