賢治と夜空 ─西洋星座図と曼陀羅とのあいだ─

(6) 「二十六夜」
(7) 星の童話

 

(6)「二十六夜」

 そうした賢治の月への思い入れは、「二十六夜」という童話に、たいへんよく表れています。

 お話は、旧暦六月二十四日から二十六日までの出来事です。主人公の穂吉(ほきち)は、とても賢く大人しい子供のフクロウです。フクロウお坊さんの少し退屈なお説教も、きちんと落ち着いて聞いていられます。その兄たちの方がずっと子供っぽく、落ち着きなくて母親に叱られてばかりいます。

 ところが、二十五日の朝に、そのしっかりした穂吉の方が運悪く人間の子供につかまってしまいました。紐につながれ、おもちゃ代わりにされ、揚げ句の果てには足をへし折られて放り出され、最後は痛みに苦しみながら死んでしまいます。

「放されましても二本の脚を折られてどうしてまあすぐ飛べませう。あの萱原の中に落ちてひいひい泣いてゐたのでございます。それでも昼の間は、誰も気付かずやっと夕刻、私が顔を見やうと出て行きましたらこのていたらくでございまする。」
「うん。尤(もっとも)ぢゃ。なれども他人は恨むものではないぞよ。みな自らがもとなのぢゃ。恨みの心は修羅となる。かけても他人は恨むでない。」

 穂吉はこれをぼんやり夢のやうに聞いてゐました。子供がもう厭きて「遁がしてやるよ」といって外へ連れて出たのでした。そのとき、ポキッと脚を折ったのです。その両脚は今でもまだしんしんと痛みます。眼を開いてもあたりがみんなぐらぐらして空さへ高くなったり低くなったりわくわくゆれてゐるやう、みんなの声も、たゞぼんやりと水の中からでも聞くやうです。ああ僕はきっともう死ぬんだ。こんなにつらい位ならほんたうに死んだ方がいゝ。それでもお父さんやお母さんは泣くだらう。泣くたって一体お父さんたちは、まだ僕の近くに居るだらうか。あゝ痛い痛い。穂吉は声もなく泣きました。

 このように、大筋のストーリー自体には何の救いもありません。この中でたった一つ、救いらしいものは、二十六夜の月が描く美しいまぼろしだけなのです。以下は、そのラストシーンの引用です。

 二十六夜の金いろの鎌の形のお月さまが、しづかにお登りになりました。そこらはぼおっと明るくなり、下では虫が俄かにしいんしいんと鳴き出しました。

 お月さまは今はすうっと桔梗いろの空におのぼりになりました。それは不思議な黄金(きん)の船のやうに見えました。

 遠くの瀬の音もはっきり聞えて参りました。

 俄かにみんなは息がつまるやうに思ひました。それはそのお月さまの船の尖った右のへさきから、まるで花火のやうに美しい紫いろのけむりのやうなものが、ばりばりばりと噴き出たからです。けむりは見る間にたなびいて、お月さまの下すっかり山の上に目もさめるやうな紫の雲をつくりました。その雲の上に、金いろの立派な人が三人まっすぐに立ってゐます。まん中の人はせいも高く、大きな眼でじっとこっちを見てゐます。衣のひだまで一一(いちいち)はっきりわかります。お星さまをちりばめたやうな立派な瓔珞をかけてゐました。お月さまが丁度その方の頭のまはりに輪になりました。

 右と左に少し丈の低い立派な人が合掌して立ってゐました。その円光はぼんやり黄金いろにかすみうしろにある青い星も見えました。雲がだんだんこっちへ近づくやうです。

「南無疾翔大力(なむしっしょうたいりき)、南無疾翔大力。」

 みんなは高く叫びました。その声は林をとゞろかしました。雲がいよいよ近くなり、捨身菩薩(しゃしんぼさつ)のおからだは、十丈ばかりに見えそのかゞやく左手がこっちへ招くやうに伸びたと思ふと、俄になんとも云えないいゝかをりがそこらいちめんにして、もうその紫の雲も疾翔大力の姿も見えませんでした。たゞその澄み切った桔梗いろの空にさっきの黄金いろの二十六夜のお月さまが、しづかにかかってゐるばかりでした。

「おや、穂吉さん、息つかなくなったよ。」俄に穂吉の兄弟が叫びました。

 ほんたうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまま、息がなくなってゐました。

 〈二十六夜(または二十三夜)待ち念仏講〉は、『宮沢賢治語彙辞典」では盛岡の風習として紹介されていますが、実は岩手県だけではなく、月待ち信仰として日本全国に広がっています。十五夜・十三夜なども、本来はこの月待ち信仰の系列なのだそうです。

 全国的に多いのは〈二十六夜待ち〉よりも〈二十三夜待ち〉の方だということですが、ただ、この〈二十三夜〉と〈二十六夜〉には、一つ、共通している伝承があります。それは、月が昇るその時に、“月が三つに分かれて見える”という言い伝えです。

 本当にそう見えるのかどうか、賢治にはまたそう見えたのかどうか。不思議な伝承とは思いますが、しかし、「宮沢賢治語彙辞典」に紹介されている橋本勇氏も、大正十年代に、〈実際に見た〉と語っています。橋本氏の場合は、二十六夜の月が三つに分かれ、中央が仏の本体、左が仏像、右が仏画に変わるのを見たそうです。

 また、どうして〈二十三夜〉であり〈二十六夜〉なのか、明確に説明した資料はなかったのですが、私自身は、多分、宿曜道か何かの系統で、古くに伝わった〈月齢占い〉が基になっているのではないかと想像しています。

 また、賢治作品についての仏教方面からの研究によると、この〈立派な三人〉の仏は、阿弥陀三尊のイメージだという事です。念仏講は浄土宗の行事ですし、浄土宗信者の家に生まれた賢治は、もちろん、ここで正確に、そのイメージを踏まえて描いたことでしょう。

 しかし、賢治は、この作品で、お経や信心の言葉が穂吉を救ったようには、一つも書いていません。このお話に出てくるフクロウの世界のお経は、とてもよく出来た浄土教のミニアチュアで、賢治の輪廻と業(カルマ)の思想もよくわかる。しかしそれでもなお、“ひどい目に会うても、恨むようなことがあってはならぬ、かけても他人は恨むでない”とか、“フクロウの身としてさきの世の罪も数かぎりない事じゃほどに、この災難もあるのじゃ”と繰り返すフクロウのお坊さんは、ただ繰り言をいっているようにしか見えません。捕まえられている時の穂吉にも、“おとなしくして、決して人に逆らうな”とだけで、役に立つアドバイス一つ与えられない。それに、先の、穂吉が苦しんでいる場面には、見落とせない描写が一つあります。それは、お経もお説教も、痛みにさいなまれる穂吉には、すでにほとんど聞こえていないという点です。

 仏が見えるのは、確かに信仰が一つのきっかけではあるでしょう。しかし、このお話で、月の仏の出現は、誰が呼んだからでもありません。このお話の中の〈月〉の描写には、仏の姿に変ずる前から、単なる自然景というだけではない、独特の存在感があります。

(旧暦六月二十四日)
 そのとき、黒い東の山脈の上に何かちらっと黄いろな尖った変なかたちのものがあらはれました。梟どもは俄にざわっとしました。二十四日の黄金の角、鎌の形の月だったのです。忽ちすうっと昇ってしまひました。

(同二十五日)
 風がザアッとやって来ました。木はみな波のやうにゆすれ、坊さんの梟も、その中に漂ふ舟のやうにうごきました。
 そして東の山のはから、昨日の金角、二十五日のお月さまが、昨日よりは又ずうっと瘠せて上りました。林の中はうすいうすい霧のやうなものでいっぱいになり、西の方からあのお父さんがしょんぼり飛んで帰って来ました。

 月は、いつも、不思議な存在として、あたかも自分の意志で現れるかのように、フクロウたちの前に“出現”します。それが、二十六日の晩には、優美な幻となり、幼い命の苦しむさまを認めたかのように手をさしのべ、そして穂吉には、深い癒しが与えられた。けれども、作中には、そうした説明は一切ありません。ただ、そうではないかと読みとる事が出来る手がかりは、死んだ穂吉の口元に笑みが浮かんでいたという事のみです。

 一見、仏教寓話であるかのように、〈お経〉〈講話〉という要素を用いてストーリーを運んできて、最後の最後で、宗教的な解説を一切拒んでいる。その意味で、私には、このお話は、仏教童話というよりは賢治の月信仰童話であり、さらに言えば、浄土教批判の作品ではないかと思われます。

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(7)星の童話

 さて、〈月天子〉のイメージは、宮沢賢治の、〈星の童話〉を読む上でも、あるヒントを与えてくれます。

 例えば、「双子の星」という童話です。 この童話の不思議さは、その、一見不整合とも思われるキャラクターシステムにあります。
 なぜなら、例えば第一話目に登場するサブキャラクターは、蠍(さそり座)や大烏(からす座)といった、星座をもとにした動物たちです。それなのに、主役のチュンセとポウセは、「天の川の西の岸」に見える、「すぎなの胞子ほどの小さな二つの星」だというのです。
 天文学者で賢治研究家でもある日下英明氏も、「(双子の星は)さそり座の尾にあるλ(ラムダ)星とυ(ユープシロン)星のペアにちがいない」とまで明言しています(藤井旭『賢治の見た夜空』 25頁)

 それでも、私には、なぜ〈双子の星〉が双子座ではないのか、読むたびに何となく気になりました。そんな小さな星の妖精が、いくら童話の想像の世界とはいえ、あの、全天の中でも大きいさそり座がけがをしたのを、ささえて歩くというのだろうか。作者にしても、双子座にちなんだ事にしようと思えばいくらでもできたのに、なぜどうしてそんな無理な設定をしたのか、疑問に思っていましした。

 その謎を説くカギが、おそらく、〈童子〉という言葉でしょう。

 賢治作品に、〈童子〉は、「雁の童子」や「オツベルと象」の中などに姿を変えながら何度も登場します。それは、単にかわいらしい子供を指す言葉ではありません。かなり明確に、仏・菩薩・明王などの眷属という仏教イメージを踏まえています。彼らは大抵、「匂(にほひ)のいゝ青光りするうすものの衣を着け、新しい白光りの沓をはき」という風に描かれるのですが、このいでたちは、あの、「二十六夜」の月の菩薩とも響き合います。

 賢治は、仏の眷属の中でも、〈月天子〉とか、〈普香(ふこう)天子〉──この〈普香天子〉という名は、本来金星を指しました──といった、若くういういしい神仏のイメージを好みました。小さなお星さまを〈童子〉の姿になぞらえたのも、そうした彼の想像力の延長だったのでしょう。

 また、ここで改めて曼陀羅図の仏たちを考えてみますと、あの中では、日・月・惑星が個々単独の図像であるにもかかわらず、星座は星座で、それぞれがイコンとして描かれたりしています。その点、西洋の星図の方は、例え近代以前のものにせよ、あくまで星座の図で、その中に惑星を神の姿で書き込んだりはしていませんので、やはりある程度客観的な、悠久の宇宙図を目指したもの、と言えるでしょう。
 それから、曼陀羅図の方には、空には時々しか現れない彗星(ほうき星)も、ちゃんと仏の姿で入っているそうです。こうしてみると、「双子の星」の第二話で、彗星が登場してくるのもうなづけます。

 しかし、ではなぜ、賢治が、双子の〈童子〉をどうして惑星のどれかとして設定しなかったのか。小さな二つのお星さまとは本当はどの星で、彼は、なぜ、そういう目立たないペアの星に思いを込めていたのか。まだまだ謎はたくさんあります。
 それでも、彼の空想世界では、〈童子〉であればこそ、なりは小さくとも、巨大な星座一体分か、それ以上の法力を持ち得るのだ、ということなのでしょう。それは、〈月天子〉信仰の、一つのヴァリアントだと考えられます。

 また、そのように、星一つと星座とが、時には匹敵する存在として見えるという視点があったからこそ、「よだかの星」のような星伝説も発想できたのでしょう。

 「よだかの星」のラスト近くでは、よだかが必死になって、オリオン座、大犬座、大熊座、鷲座に「どうかわたしを連れていって下さい」と呼びかけますが、星座たちは皆勝手な事を言ってよだかをはねつけ、オリオンときては相手にすらしません。絶望したよだかは、空を昇りにのぼりつめ、最後は「燐の火のやうな青い美しい光になって」静かに燃える星となりますが、星座とはなりません。

 この点も、私は今まで、よだかは小さな鳥だったから、星座ではなく星になったのだ、と解釈して読み過ごしていたました。でも、「よだかの星は燃えつゞけました。いつまでもいつまでも燃えつゞけました。/今でもまだ燃えてゐます」というラストの、〈よだかの星〉の確かな存在感、たった一つのちっちゃな星、という軽い読みでは片づけられないでしょう。それは、よだかが〈悠久〉の存在の仲間入りが出来たという確かな暗示です。この時賢治は、よだかの〈星〉一つを、軽薄で身勝手な大犬や大熊などの星座以上の存在として描ききっていたのです。

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