賢治と夜空 ─西洋星座図と曼陀羅とのあいだ─

(8)変転する星座の図像

 

(8)変転する星座の図像

 さて、締めくくりに、再び、あの西洋星座とガンダーラとが入り交じる賢治の星空に立ち戻りたいと思います。

 「密教風の誘惑」という詩は、最初に引用した〔温く含んだ南の風が〕という詩の先駆形にあたります。(※右側カッコ内は詩句に対応する星座名)

 もうにぎやかにはなばなしい
 ガンダラ風の夜なのだ
   ……みだれるみだれるアカシヤの髪
     赤眼の蠍
     そらの泉と浄瓶や皿…… (水瓶座)(皿=天秤座?)
 (中略)
 北の十字のまはりから      (白鳥座)
 摩渇大魚の座のあたり      (=摩竭宮=山羊座?※後述)
 天はまるでいちめん
 青じろい疱瘡にでもかかったやう
 天の川はまたぼんやりと爆発する
 (中略)
 西蔵魔神の風呂敷が
 そこらの星に吸ひついてゐる
 けれども悪魔は天とおんなじことで
 力はあっても畢竟流転のものだから
 やっぱりあんなに
 どんどん風に溶される
 星はもうそのやさしい面影(アントリッツ)を恢復し
 そらはふたゝび古代意慾の曼陀羅になる
 (中略)

 うしろではまた天の川の小さな爆発
 白鳥座から琴(ライラ)への立派な蛇の紋ができ  (琴座)
 溶けた魔神ははるかな北に生起して
 六等首ある馬に乗り髪をみだして馳けまはる
 (中略)
 蛍は水や空気のなかで
 蘇末那の華をともしたり
 奇怪な印をほどいたり
 また南では
 まっ赤な星もながれるので
 もうわたくしは手も青じろく発光し
 腕巻時計の針も狂って
     (帽子を投げろ帽子も燃える)
 この夏の夜の密教風の誘惑に
 あやふく堕ちて行くかうとする
     (菩薩威霊を仮したまへ)

 この日は、賢治の夜空としてはめずらしく、月齢は3日で、すぐ西に沈んでしまい、星だけが一面に輝いていたと思われます。蠍座、射手座、山羊座、水瓶座の十二星座や、白鳥座・琴座という〈夏の大三角形〉の星座などが「にぎやかにはなばなしく」登場しているのはそのためでしょう。  

 この詩で、私が一番興味深く思うのは、〈摩渇大魚(まかつ・たいぎょ)〉という言葉です。これは、『宮沢賢治語彙辞典』の方では、“仏教説話に出てくる大魚で、山並みの線のギザギザを大魚のアゴ(魚のえら)に見立てている”(649頁)と解釈していますけれども、私は、これは山羊座を示す〈摩羯(まかつ)宮〉の事だと思うのです。星座の順序としても、黄道星座の蝎・射手・水瓶が見えているのに、射手座と水瓶座の間の山羊座が見えないはずはありません。
 また現に、語彙辞典のその項目では、“胎蔵界曼陀羅の摩竭宮に描かれている〈摩竭大魚〉”とわざわざ断っているのです。それなのに、摩竭宮にいる摩竭大魚を、山羊座とまったく結びつけていないのは、不思議です。

 おそらくこれは、語彙辞典の編集スタッフが、十二星座の由来や図像をよくご存じないところから生じた誤解でしょう。 山羊座は、伝統的に、上半身が山羊・下半身が魚の姿で描かれます(※講座資料では、山羊座の図を〈ヘベリウス星図〉から引用した)
 ギリシャ神話では、山羊座の由来は、怪物に驚いた牧羊神パーンが逃げようと慌てて川に飛び込んだため、変身しそこなって、下だけ魚で上が山羊の姿になったという、ちょっと滑稽な話が由来となっています。
 しかし、イメージシンボル的な意味合いは、実は、別にあったのです。

 ギリシャ時代よりも昔、古代バビロニアでは、やはり、黄道で星座を十二に分けていました。(星座と占星術の起原は、バビロニアにあったとされています。)そのバビロニアの神話の中でも、〈山羊座〉の姿は、やはり、頭が山羊・体が魚の“海に住む山羊”でした。そして現代の解釈では、この奇妙な姿は、海から現れては沈む大地をあらわすもので、はるか昔の地殻変動時代を象徴的に伝承していると考えられているのです。

 星占いの十二星座といえば、今はギリシャ神話としての解釈が一般的です。しかし、同じ星座伝承の解釈でも、バビロニア時代まで遡ることで、インドや古代密教との共通点が見えてくる部分はいくつもあります。例えば水瓶座も、ギリシャ神話では、ゼウスに愛された美少年が、水瓶を傾け、神々を美酒でもてなしている姿ですが、バビロニアの方は、生命と死を支配する水の女神グラの姿としています。生死・豊饒を司る〈水〉が溢れ出る〈瓶〉。こちらもやはり、バビロニアの方が、密教でいう〈浄瓶宮〉のシンボルに近いと思われます。

 私は、本論の(1)で、賢治の夜空は、“ギリシャ神話のキャラクターと、古いシルクロードの神々や菩薩たちが、互いに姿を変えながら、夜空を埋め尽くしているイメージ”と述べました。
 しかし、もしかすると、そんな、〈西洋風対東洋風〉のような、単純な割り切り方は出来ないかも知れません。

 曼陀羅のところでも少し触れましたが、黄道十二星座のシンボルは、宿曜二十八宿のシンボルとはまた別に、ギリシャからインドに入ったという説があります。
 もしかすると、それは、ギリシャではなく、バビロニアからだったかも知れません。または、それは、ギリシャ文明の初期で、まだバビロニア風の古いシンボルの発想をとどめていた時期のことだったかも知れません。
 それが、インドから西域を経て中国へ伝わる内に、もとの象徴は忘れられ、例えば山羊座ならば〈海にちなむ生き物〉という部分だけがのこって、大魚の物語にかわっていったりしたのでしょう。その意味では、古い根元の方は、一つにつながっているといえます。

 さらに言うと、バビロニアでは、本来は、月の運行に基づく〈太陰暦〉を用いていたのが、やがて太陽や月や惑星が常に一定の軌道を通る事に着目して、黄道十二星座を定めたと考えられています。とすると、黄道十二星座を定めた発想は〈西洋〉の〈太陽暦〉の基をなしてはいますが、それを生み出したのは〈太陰暦〉の文化の方だったと言えます。ですから、やはり、単純に、〈太陽暦〉対〈太陰暦〉の文化と、二項対立的に分けることは出来ません。

 宮沢賢治は、星座の上に、西洋の図像と東洋の神仏をダブルイメージしている。それは、非常にユニークな空想上の東西のイメージシンボルの融合だ。──ほんの表層だけ見ると、そんな風に言ってみたくもなります。

 しかし〈宮沢賢治〉という存在の神秘(ミステリー)は、もっと深いところにあります。それは、賢治が、彼自身も気づかぬうちに、そのイマジネーションの力で、まだ東洋も西洋も分かたれていなかった時代にまでさかのぼり、古代の人々の精神世界の一端に触れていたのかも知れない、と思われる点です。

 賢治自身は、いつも、ごく普通の意味で、敬虔な求道者であろうとしていました。ですから、天空を見ていると、自分のイマジネーションが、意図もしないのにどんどん繰り広がって果てしがなくなるような感覚は、少し恐ろしく思われたかも知れません。それは、宗教的な〈誘惑(テンプテーション)〉とも感じられたことでしょう。だから彼は、「この夏の夜の密教風の誘惑に/あやふく堕ちて行かうとする」と記し、(菩薩威霊を仮したまへ)と念ずるのです。

 でも、結局、彼は見ることも想像することも、そこでやめたりは出来ない人物でした。

 はるかな古代には、まだ、どの星座も、人間からようやく形を与えられたばかりで、中世風のイコンの定型には填められていなかったでしょう。その時代の人々にとって、夜空は星の浮かぶ“宇宙空間”などではなく、自分たちのはるか頭上に広がる広大な異界でした。彼らの心の中、星座のイメージはまだ生々しいほどに生き生きとして、夜空を、巨大な神や魔神のように駆けめぐっていたのかも知れません。また、そのように考えると、賢治が、星々の輝きにふと「もうにぎやかにはなばなしい/ガンダラ風の夜なのだ」と記したのも、伝説が東西へと伝播していったインド・西域地方をイメージ的にピタリと選んでいて、思いがけず正鵠を射ているように思えます。

 西洋、近代以前の日本、そして古代の東洋や西域のあいだを自在に駆けめぐる、宮沢賢治の空想力。万象の中から、思いがけず、古え(いにしえ)のイメージシンボルの鍵(キイ)を見つけだしてくれる、スリリングな発見力。それが、私たちに、今もなお新鮮な驚きを与え続けてくれるのです。

(了)

※本稿は、2002年10月26日に小樽文学館で発表した原稿をもとに、加筆・改稿したものです。また、発表時には、時間の関係で(8)の部分をカットしましたので、このホームページ掲載にあたっては、(8)を採録することにしました。

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