賢治と夜空 ─西洋星座図と曼陀羅とのあいだ─
(4) 天空の曼陀羅
(5) 〈月天子〉信仰
(4)天空の曼陀羅 さて、それから約五年、賢治は、短歌から、童話と口語自由詩へと表現形式を大きく変えてゆきます。そしてちょうどその頃から、彼の、天体を詠んだ作品は、見違えるほどに明るく美しくなります。 例えば有名な詩集『春と修羅』の中の、「有明」という詩などは、その代表と言えます。 起伏の雪は 雪を染める朝日を〈桃の漿(しる)〉にたとえる比喩も新鮮ですし、〈青ぞらにとけのこる月〉にも、不気味さや怖さのかけらも見られません。朝日の桃の汁を美味しそうにのどを鳴らしてのむ月は、そのまま桃の汁にゆったりと溶けていってしまいそうなイメージで、これだけでも、まるで、独立した童話の一シーンのようです。 ここに、当時の賢治の、〈宇宙(ユニバース)を見るまなざし〉が表れているように思います。 次の詩は、夜空の方に、その存在のしるしを見出そうとした一例です。 一七九 〔北いっぱいの星ぞらに〕 一九二四、八、一七 この普賢菩薩は、法華経の〈勧発品(かんぽつほん)〉という巻に、世界が真に救済されるまでの間、悪魔から信者たちを守る頼もしい仏として登場します。密教の仏たちを描いた「胎蔵界曼陀羅」の中では、中台八葉院の東南の隅に描かれているそうです。まさしく〈東方の普賢菩薩〉なわけです。神々や龍を常に周りにしたがえ、諸国で奇跡をあらわし、そのゆく先々では蓮華の花びらが空から舞い落ちるという、実に絢爛なイメージの仏さまです。 (図1:胎蔵界曼陀羅) 〈仏界(ぶっかい)形円きもの/形(かたち)花台(かだい)の如きもの〉はやや難解ですが、曼陀羅に描かれた普賢菩薩が蓮の台にのっていることと、空から舞い落ちる蓮華、それに曼陀羅そのものが同心円的なことから、二重三重のイメージが込められた言葉だと言えるでしょう。 そして実際、夜空の天頂付近は、北極星を中心として、りゅう座、大熊座、カシオペア座にケフェウス座…と、ぐるりと円形のめぐりがあるように見えます。もっと下方の、宿曜の星々(つまり十二星座)もまた一めぐりの帯です。賢治は、眼前に見る夜空に、祈りを込めて、自分の信仰を投影しようとしたのでしょう。 こう言うと、単なる賢治の見立てのようですが、そうではありません。実は、曼陀羅自体、立派な天体図なのです。 賢治自身は、熱烈な法華経信者でした。ですから、時々、彼はなぜ密教の呪文や曼陀羅のイメージを用いたのか、謎だと言われる事があります。しかし、曼陀羅に限っていえば、その理由は、それ自体が、賢治にきわめて豊かで魅惑的な宇宙の見え方を示すものだったからに他なりません。 法華経にも曼陀羅はあるのですが、それは一種の護符と言いますか、文字ばかりのものです。 もちろん曼陀羅図では、空における星の正確なありかはまったくわかりません。また、太陽や月や惑星が記されているからといって、正確な太陽系の図でもありません。それに、描かれている数百体の仏は、結局すべて中心の1体・大日如来の化身だとされている点、やはりきわめて観念論的です。 しかし、およそ目にすることのできる天体のすべてが仏の具現であり、唯一無二の救済者の存在のしるしなのだと見る思想は、まだ若くて無力で、しかも他者の不幸に感じやすい賢治にとって、深い慰めだったことでしょう。反面、彼は、科学者として対象を分析する能力も高かったのですが、それでも彼のような青年が、いわば“この世に存在することの痛み”を堪え続けるには、理知の力だけでは足りませんでした。 |
ところで、折角曼陀羅に触れましたから、青年期の賢治には、一種独特の月信仰──というよりも、〈月天子(がってんし)〉への愛があったという事にも、少し触れておきたいと思います。 賢治の詩作には、ほとんど日付がつけられているのは、よく知られています。そこで、私は、ふと思いついて、日付から、その日の月齢を調べて見ようと思い立ちました。その結果が、下の表です。
〔注記〕 すると、夜空を描いた詩で、例えば〈二十五日の月〉とか〈六日の月〉のように月齢が書かれているものは、誤差がだいたい±1日位で、ほぼその日はその月齢どおりだという事がわかりました(「発電所」のみが例外。理由不明)。 これで、賢治詩の日付は、ほとんど、まさしくその作詩の日だということが証明可能となったのですが、それだけではありません。実は、星空を描いたものにしても、〈月〉という言葉をあまりはっきり出していなくとも、その多くが月齢15日前後、見かけがだいたい満月の日だということがわかったのです。 例えば、上で引用した〔北いっぱいの星空に〕も、月の形は書かれていませんが、この日は月齢ほぼ16日でした。そう思って読み直すと、“白いパラフィンを噴く”とか、“白い楢”“山が銀の挨拶を上流の仲間に抛げかける”といった表現は、月光がさやかに美しくあたりを照らしている様子を暗示しているのがわかります。 賢治は、月を“月天子(がってんし)”や“普香(ふこう)天子”と見て、心の内ではいつも恭(うやうや)しく、そして親しく呼びかけていたようです。この時期になりますと、少年時代の、あの禍々(まがまが)しく不吉な月のイメージは、まるでぬぐい去ったかのように表現から消えています。 月天子は、密教の方では十二天の一人として、大日如来のまわりに描かれていますが、賢治のイメージは、そんな曼陀羅図よりははるかに明るい透明感に満ちています。 (七四 普香天子) お月さま この時代にアニメーションはありませんでしたが、〈アニメ〉を、本来の“生き生きさせる”という意味でとるならば、賢治は、まさしく、仏教や宿曜道の古いイコンやシンボルを、想像の中でアニメートさせていたと言えるでしょう。それが、彼独自のアニミズムの根源だったのだろうと思います。 また、この、月を心から慕わしく思う感情をもう少しつきつめると、例えば「オッベルと象」で、白い象が「ああ、せいせいした。サンタマリア」と呼びかける感覚に直接つながるのではないかという気がします。 昔の胎蔵界曼陀羅では中心者は太陽たる大日如来ですが、宮沢賢治にとっての夜空の曼陀羅の主役は、何と言っても月天子の方でした。彼にとっての夜空とは、星々が周囲の夜空を輝き彩り、月天子と共にめぐっている、というイメージだったのではないでしょうか。 |
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・〈HP〉はホームページの略
図1 極楽堂(仏壇仏具・寺院用品)HP http://www.interq.or.jp/earth/gokuraku/ より
〈曼陀羅の間〉
図2 図1に同じ
【注】〔宮沢賢治の詩と月齢〕(口語自由詩)について
対象は、〈詩ノート〉等も含めて賢治の口語自由詩すべてとした。
ただし、夜の情景を描いた詩すべてを取り上げたのではなく、文中の表現から、直接眼にした実景をもとに書いたと推察される詩に限った。
結果は下記の通り。
●表に取り上げた詩の数…17篇 (うち、同日の作詩3篇)
→日付の数=15例
月齢0〜5(三日月前後) 日付2例 作詩4篇
6〜11(上弦頃) 2例 2篇
12〜17(満月前後) 6例 6篇
18〜23(下弦頃) 2例 2篇
24〜28(新月近く) 3例 3篇