賢治と夜空 ─西洋星座図と曼陀羅とのあいだ─

(3) おそろしい夜空

 

(3)おそろしい夜空

 ところで、ここで、ある問いをたててみましょう。
 どうして、人間は、夜空をわざわざ星座や宿などに分けて、図像的な“見立て”をしようとおもうのでしょうか。また、どうして、月の満ち欠けや太陽の位置などに、意味を見つけようとするのでしょう?

 それが古代からの営みだ、とか、あるいは、それが出来るからこそ人間なのだ、という答え方も出来るでしょう。
 ただ、宮沢賢治という人の場合に限って言えば、そういう見立てをしないで、ナマな感覚で夜空と面と向かうということは、彼にとってあまりに〈恐ろしい〉ことだったからだと思われます。

 例えば、彼の少年時代の短歌には、あの、「銀河鉄道の夜」に見られるような、輝かしく美しい星々のイメージはほとんど出て来ません。月でも、星でも、どこか気味が悪いのです。若い時ほど、その傾向が強く出ています。

 大正三年、十八歳の時の、月を詠んだ短歌などは、このようになっています。

 われひとりねむられずねむられず
 まよなかの窓にかゝるは
 赫(あか)焦げの月

 ゆがみひがみ
 窓にかかれる赭(あか)こげの月
 われひとりねむらず
 げにものがなし。

 われ疾みて
 かく見るならず
 弦月よ
 げに恐ろしきながけしきかな。

 星もなく
 赤き弦月たゞひとり
 窓を落ち行くはたゞごとにあらず

 ちばしれる
 ゆみはりの月
 わが窓に
 まよなかきたりて口をゆがむる

 これは鼻の手術や発疹チフスなどで、ずっと入院していた時の歌です。ですから確かに、気持ちが健康な時に詠まれた歌とは言えません。でも、あの赤っぽい月──誰でも一度くらいはドキッとしたことのあるだろう、あの月──の迫るような不気味さをこれほど的確に捉えた歌は、なかなか類例がありません。
 また、これに先立つ明治四十五年、彼がまだ十六歳の頃には、夕陽さえも、「西ぞらの黄金(きん)の一つめうらめしくわれをながめてつとしづむなり」と表現しています。

 私は以前、「西ぞらの黄金の一つめ」の歌について、このように考えた事があります。
 生家が花巻の財産家だった賢治は、おそらく、ものごころつくずっと以前から、周囲からの反感やねたみ心を肌に感じて育ったのだろう。ただ、そうした陰険な悪意は、表向きの尊敬や‘へつらい’と表裏一体となっているため、子供時代の賢治には、はたして実体がどこにあるのか、あるいは自分の感じすぎなのか、わかりにくかったと思います。そのため、そうした捉えどころのない悪意に対する嫌悪や恐怖感が、ある時期、自分を取り巻く自然の側に転嫁されていたのではないでしょうか。

 一方、同じ頃、彼は、対人関係で誰がいやだったとか、どんな言動に腹がたったか、などという直接的な表現をほとんど残していません。そうした嫌な感情を、太陽や月が不気味に恐ろしく迫って来る、という感覚として表現することは、おそらく、彼が周囲の人間を誰彼なく憎まなくても済むための安全弁だったのでしょう。ただその表現が、まるで、まだ自然を理性的に理解したりコントロールする術を知らない、原始時代の人々の感覚にまでも底通しているように見えるところが、彼の表現力のすぐれた点だと思います。

 賢治の中に、こうした感覚は、しばらくの間続いたようです。大正五年、二十歳の年に、高等農林で三峰山の地質調査に出掛けたときも、彼は、「星あまり/むらがれるゆゑ/みつみねの/そらはあやしくおもほゆるかも」という歌を作っています。(資料文章編4p)まだ自分の世界観が確立できない者にとって、自分をすっぽり包む暗黒の空と無数に光る星々は、どうそれと向き合ってよいかわからず、〈あやしくおもほゆる〉対象でしかないのでしょう。同じ年には、次のような歌もあります。

 ある星は
 そらの微塵のたゞなかに
 ものを思はずひためぐり行く

 ある星は
 われのみひとり大空を
 うたがひ行くとなみだぐみたり

 〈われのみひとり/大空をうたがひ行く〉星の方に、賢治が自分の姿を重ねているのは明らかです。無数に散らばる星の中でぽつんとたよりなく浮かぶ、ほかのみんなのように無心に空をめぐる事も出来ない、どこへ行くのかもわからない存在、それが〈われ〉なのだ。──それが、当時の彼の自意識だったのでしょう。

 賢治の伝記によると、十八歳頃は『漢和対照妙法蓮華経』に出会って異常なほど感動した年、そして二十歳前後は、高等農林の寮で毎朝朗々と法華経を読経し続けていた時期です。よるべない自分がこの世に存在する事の意味を探ること、そして宇宙全体が、どんな原理で成り立っているのかを知ろうとすること。そのどちらにとっても、〈仏教〉の思想は必要不可欠なものだったのです。

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