〈親子〉の距離 ─〈父〉と〈息子〉と有島武郎─ (2004/01/28)

5.「親子」 ─〈父〉と〈彼れ〉/〈武〉と〈武郎〉─ (続き)
(6)うちとけない人々  (7)農場を“手放したい”農場主
(8)隠された苦手意識  (9)父と〈父〉との距離

(6)うちとけない人々

 「親子」には、主人公の〈彼れ〉が、農場の小作人たちと接する場面が一箇所だけあります。〈父〉と矢部との交渉事に加わりかねて事務所の方に居場所を移すシーンですが、〈彼れ〉はそこでも、あまりにも皆が打ち解けないので、すっかり落ち込んでしまいます。

 彼れがそこに出て行くと、見る/\そこの一座の態度が変つて、いやな不自然さが漲つてしまつた。小作人達は慌てゝ立ち上るなり、草鞋のまゝの足を爐ばたから抜いて土間に下り立つと、恭しく彼に向つて腰を曲げた。
「若い旦那、今度はまあご苦労様で御座ります」
 その中で物慣れたらしい半白の丈の高いのが、一同に代つてのやうにかういつた。不快な冷水を浴びた彼れは改めて不快な微温湯(ぬるまゆ)を見舞はれたのだつた。それでも彼れは能ふ限り小作人達に対して心置きなく接してゐたいと願つた。それは単にその場合のやり切れない気持ちから自分がのがれ出たかったからだ。(中略)

 けれども余りといへば余りだつた。小作人達は、
「さあ、ずつとお寄りなさつて。今日は晴れてゐるためかめつきり冷えますから」
と早田が口添へするにもかゝはらず、彼らはあてこすりのやうに暗らい隅つこを離れなかつた。 彼れは軽い捨て鉢な気分でその人達に構はず居爐裡(いろり)の横座に坐りこんだ。

 〈彼れ〉は〈父〉の言いつけで、小作人たちから、農場経営に関する希望の聞き取り調査をしようとします。しかし、小作人たちは、お互い同士のささやきでは、不作続きで困る事をほのめかしておきながら、いざ申し立ての機会が来ると、誰もその事を口にしようとはしません。〈彼れ〉は途中で聞き取りをあきらめ、一人考え込んでしまいます。「何といふこともなく、父に対する反抗の気持ちが、押へても押へても湧上つて来て、如何することも出来なかつた」。〈彼れ〉は、父親の“支配者”的な横柄さが、小作人たちの態度の原因だと思っているようです。このような〈父〉の性格づけは、いかにも、ロシア文学などにおける小領主貴族のそれを彷彿とさせます。〈階級対立〉の構図も、ここには暗示されています。

 しかし、再び、〈有島農場〉を考えてみましょう。
 年代は、有島武郎が30歳手前だった、明治40年頃。すると、開墾作業はその前年にようやく終わったばかりです。開墾に着手した時点から数えてみても、8年ほどしか経っていないことになります。
 しかも、開拓請負人は何人か途中で交替しており、働き手たちの顔ぶれも年々少しずつ変わっている。とすると、現実問題として、この時期には、“小作人たち同士も、まだ、それほどうち解けていないのではないか?”という疑問が生じてきます。 少なくとも、運命共同体を実感できるほどの親密さには達していないでしょう。まして、本州の、室町時代や戦国時代以来の〈ムラ〉社会とは、感覚がまったく違っていたと思われます。

 有島武は、“代々百姓をしいたげてきた封建領主”だったわけではありません。また小作人たちも、“恨み重なる農場主”と思っていたわけではないでしょう。ただ、時おりしか姿を見せない農場主に、親密な感情を持つ理由もありません。
 その上、今度やってきたのは、見なれない若者──。多分、“どうやらこれが〈若旦那〉という人らしい”と思っただけの事で、特に親しみも見せず、打ち明け話もしなかったのは、当然といえば当然でしょう。

(7)農場を“手放したい”農場主

 ところが、この時の小作人たちの冷淡な態度が、ある意味では武郎の“トラウマ”になったらしい。そう思われるふしがあります。

 先にも触れましたが、〈有島農場〉は、成墾時にはすでに武郎名義になっていました。また、仮に父親の在世中は遠慮があったとしても、大正5年暮れに武が亡くなってからは、彼は、誰にもはばかる事なく、農場の仕事に着手できたはずでした。
 札幌から時々農場に通うもよし、いっそ学校の仕事をやめて農場経営に打ち込むもよし。またあるいは、父の死の時点で農場を手放したとしても、武郎が武郎のものを処分するのですから、法的には何の問題も生じません。

 しかし、なぜか武郎は、父の死後も、小作契約の見直しをはかるでもなければ、農場生活の改善に乗り出すでもありませんでした。

 農場に行かなかったわけではありません。東京から、ほぼ1年に1度くらいは、農場視察に赴いていました。ところが、あの日記に筆まめな武郎が、農場視察の際には、〈無味乾燥な生活記録〉(渡邊凱一『晩年の有島武郎 359p)しか記してていなかったといいます。しかも、「有島が自から手を下したのは、せいぜい事務所の前の花園くらいであった」(山田昭夫『有島武郎・姿勢と軌跡』287p)という有様です。

 また、〈農場解放〉にしても、具体案の作成は、森本厚吉・小林巳智次らといった知人数名と、「更に関係者として末弘厳太郎、河上肇、当時の狩太村村長」(山田昭夫・同上)にまかせてしまい、当事者である小作人たちに意見を聞くなどの措置はまったく行いませんでした。
 〈農民の徹底的自治にゆだねたい〉と言いながら、いわゆる〈有識者〉には意見を聞いて、小作人たちには何もはからないというのでは、まさに本末転倒でしょう。しかもこれは、単に小作料がどうこうといった些末な問題ではなく、住人たちの生活基盤や法的位置づけが大幅に変わってしまうという、重大なシステム改変なのです。

 森本厚吉も、あまり性急な〈解放〉は疑問に思ったのでしょう。“もし小作人の生活改善を望むというのなら、その前に、まず君が地主として、理想的経営に着手してはどうか。その上で、不労所得である地代を、文化開発費として社会に還元すればよい”と提言してきました。昔、一緒に札幌農学校で学んだ旧友としては、当然の意見だったでしょう。
 しかし、武郎はあくまで持論をまげず、そのため、森本は、途中でこの件から手をひいてしまいました。森本にも、武郎のいう“自治”の意味がわからなくなってしまったのでしょう。有島が固執していた案とは、“小作人には農場を〈解放〉するが、彼らがそれを自由に出来るのではない。識者たちが作った最も理想的な〈共生〉規則にのっとって、私有という事を一切せずに共同生活を営んでほしい。軌道にのるまでは大変かもしれないが、私自身はこの後一切経営に関わらない”という、見方を変えれば〈枠をはめた上での丸投げ〉のような案だったからです。※注16

 これらの事実については、以前から、有島研究者の山田氏・渡邊氏らも、有島と一緒に〈解放〉に関わった小林巳智次さえも、“あれほど人道主義を謳いあげていた有島がなぜ…”と、疑問をなげかけていました。それでも、一応は有島の〈内面〉を慮(おもんぱか)って、“芸術に命をかけていたから”とか、“中途半端な解放ではいけないと思ったから”等と、辻褄を合わせようと努力してくれていました。

 しかし、そのような意味づけを抜きにして資料を見るならば、そこから導き出される一番自然な結論は、〈有島武郎は、有島農場の小作人に接することを、ひどく苦手にしていた〉という一言に尽きると思われます。

(8)隠された苦手意識

 「一房の葡萄」の冒頭部を思い出して下さい。 あの時の〈僕〉は、最初、自分の気が咎めているからこそ、ジムが「あの日本人が僕の絵具を取るにちがひないから」と言っているように「思へる」だけのはずでした。ところが、その直後、地の文は、「ジムが僕を疑つてゐるやうに見えれば見えるほど、僕はその絵具がほしくてならなくなる」と、ジムの疑いの素振りがまるで客観的事実であるかのような表現へと流れていってしまいます。ごく微妙ではありますが、この認識のバイアス(偏向)こそ、有島武郎のものの見え方の、一面の本質だったと思われるのです。

 武郎は、父の武とはまた別な意味で、猜疑心の強い人でした。〈猜疑心〉という言葉が強すぎるならば、〈外界への不安〉と言ったほうがいいかもしれません。他人が聞けば驚くような些細な事が彼の疑心暗鬼を呼び覚まし、しかも、その気分がずっと後をひく。しかし強いてそうした気持ちを押さえ込もうとすると、今度は過剰に自己反省的・自罰的になり、絶望の極にまでいってしまいそうになる…。
 しかし、反面、彼の中には理想を求める熱情があり、それが、ネガティブな自意識と常に戦い続けてきたのでしょう。『或る女』などは、ある意味で、有島の〈猜疑心〉との格闘が、フィクションとして、最も迫力ある形で結実した作品と言えます。

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 小作人といっても人の集まりですから、皮肉な人もいれば、卑屈な人もいます。まして、“自分たちも流れ者なら、地主も同じよそ者だ”と思えば、“上手くいっている奴”の方を妬む意識が起こって当然です。
 でも、武郎は、彼らのよそよそしい態度の原因を、すべて自分と父のせいだと捉え、負い目として背負いこんでしまいました。さらに、外国で社会問題について自学自習してきた彼は、この現象こそ、社会制度と階級の問題だと考えたのでしょう。だからこそ、その問題の克服のために、彼は、最も観念的に高度な方法で解決をしようと試みたのです。そして、弱き者・貧しき者、そして若き世代へと、思想的なエールを贈る事に専念し続けました。それが、一面では、厳しかった父へのコンプレックスを克服する意識にもつながっていたからです。

 しかし、彼の発言が〈人道的〉に〈高調〉となればなるほど、彼の、現実の小作人への苦手意識は、“隠されねばならないもの”になっていったのだと思われます。それも、他人に対してというより、まず自分自身に対して。

 他人の好意や愛情に冷淡な人。妬みや敵意を抱きやすい人。どんな集団にも、必ず、そういう人が何人かは存在します。そういう人たちまでを等(ひと)しなみに愛する事は難しい話でしょう。でも、その事と、例えば“自分が所有し、自分が責任を持っている農場の労働者全員の生活を何とかしてやりたい”と願う事とは、まったく次元の違う話です。
 苦手意識があっても、それはそれとして隠さずに、“自分は農場主として必要な事を行わせてもらう”と最初から割り切っていれば、かえって、農場の人々との関わりも、これほどまでに遠ざかる事はなかったのかもしれません。

 しかし、有島の創作や思想活動の根底には、もともと、〈隠された内面〉における父親への反発を克服するためという動機が含まれていました。ですから、その自分も小作人たちを苦手としている事を認めるのは、自分にもあの父と同じ部分があるのを認める事につながってしまうと、無意識のうちに感じていたのでしょう。
 加えて、武郎が拠り所とした社会主義的言説が、意外な早さで多くの知識人や文化メディアに広がっていったことも、彼の言動を拘束する一因になってしまったのだと思われます。

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 どんな高邁な理由がついていても、当事者不在の〈解放〉が、歓喜をもって受け入れられるはずはありません。〈小作人への告別〉(大正11年7月18日)という演説を有島武郎が行った時、農場の人々は、不思議そうな面持ちで聞き入っていたといいます。規則作りに関わったわけではないのですから、これまで前例のないシステムの農場が発足すると聞かされても、すぐには理解しかねたのは当然です。

 ところが、こうした、至極もっともなリアクションさえ、武郎には打撃でした。彼は、「農民達は気違ひじみた場主の言葉を解しかねてぼんやりしてゐるていたらくだ」(書簡、大正11・7・26)と、原久米太郎に書き送っています。
 また、その直後、小作人のうち数名が、“よくわからないが、これからここは小作料がかからないのだから、喜んで入植する人がいるだろう”と、耕作権を売却して農場を離れたのですが、それもまた有島には衝撃だったようです。彼は、“農民が、早くも資本主義の魔手にかかった”受けとめました。その人にとって、人生を変える一つのいいきっかけだったのだ、という風には考えられなかったようです。

 ──申し分のない理想的な条件をお膳立てすれば、受け取った方は感謝するはずであり、否定的な反応は本来起こり得ないはずだ。──当時の有島の情緒的反応からは、こうした発想が透けて見えます。
 しかし、そんな〈理想条件〉を押しつける事自体、もしかすると小作人たちにとっては、あの気むずかしい有島武がしたよりも、もっと負担な事だったかも知れないのです。
 この時期の有島武郎に限って言えば、彼の言動は、まるで現代の、〈ものわかりのいい父親〉そっくりです。“すべてお前のためなのだから”という名目で子供の反抗心をあらかじめ封じてしまおうとする、あの論理と瓜二つだという事に、改めて驚かずにいられません。

(9)父と〈父〉との距離

 有島武郎が、農場を解放したその後に、この「親子」という作品を書こうとしたのは、いったい何故だったのでしょうか。
 あるいは、彼は、〈農場〉に直面した最初の時点に立ち戻ってみる事で、自分の行為の社会的意義を再確認しようとしたのかも知れません。

 ところが、問題は、相続してから解放まで、もう何年もの間農場に関わっていたにもかかわらず、彼の小作人観も、父親観も、最初の頃とほとんど変わらなかった事です。
 例えば実際、作中のサブキャラクター(監督の早田や小作人たち)の描き方にしても、“あの時の自分の見え方としてはこうだったけれど、その後、考え直してみると彼の事情はこうだったのだろう”といった、作者の経験と理解のあとを感じさせるような部分はほとんど見られません。

 しかも、〈父〉を階級悪の象徴のように位置づけてしまい、その彼に理想派である息子が反発している事を正当化しなければならなくなったため、勢い〈父〉のキャラクターを、あくどい、嫌な人間として描写せざるを得なくなってゆきます。
 ところが、そうなると、現実の、単純化できない様々な面を持った父親とは、どんどんかけ離れてしまいます。

 新旧の思想を対決させ、新しい思想の正当性をあくまで主張しようとすればするほど、自分の父の無邪気で善良な部分は、ストーリーの中で抹消されてしまう事になる。自分たち父子の事を見直そうとして、かえって、どんな真実とも接点がなくなってゆくように見える。──有島が、この作品を書きあぐねていたのは、こうした事が彼の中にひっかかっていたからだと思われます。
 結局、話の結末部では、急に〈父〉という人に「しんみり」とさせ、“すべてはたくさんの子供たちの将来のため…”と述懐させて、二人の対立を親子の情に回収してしまうのですが、流れからいって、無理な感じは否めません。

 「親子」のラストは、〈彼れ〉が、「お前も考へどほりやるならやつて見るがいゝ」という〈父〉の言葉を受けて、「よしやり抜くぞ」という決意を固めるところで終わります。それはまた、この作品を書き終えた時点での武郎自身の決意でなければならないはずでした。
 しかし、“自分が不当に所有しているもの”を一つずつ放棄しながら、自己犠牲的なスタンスで進んで来た武郎にとって、手放せるだけのものをすでに手放してしまったこの時期に、ではなにを〈やり抜く〉かという新しいテーマは、もう見えてこなかったのでしょう。
 自分のして来た事が、正しかったのか、どうか。〈父〉だけではなく、父親の世代がしてきた以上の事を、なし得たのかどうか。有島が、これらの疑問に対して自分で答えを出す事は、もう、ありませんでした。彼にも、まったくわからなくなってしまったのかも知れません。

 そして、それからちょうど2ヶ月の後。立ち止まってしまった有島の背後から、〈絶望〉が、ついに彼に追いついたのです。

【注釈】

注16 有島武郎は、農場解放直後の「私有農場から共産農園へ」(『解放』大正12・3)の中でも、解放については各方面からの反対もあった事に触れた上で、次のように述べています。

「然し、私は私のやつたことが画餅に帰するほど、現代の資本主義組織が何の程度まで頑固なものであるか、何の程度まで悪い結果を生むものであるか、そればかりではなく、折角私が無償で土地を寄附しても、それですら尚農民は幸福になれないのだといふことが、人々にはつきり分つていゝのぢやないかと思ふのです。私は、その試練になるだけでゝも満足です」
(太字は引用者)

 これではまるで、はじめから、“農民はそれでも幸福にはなれない”事を予見しているかのような発言です。本人は〈それでも満足〉と言えるのかも知れませんが、もしこれが真意なら、農場の人々にとっては堪ったものではないでしょう。