〈親子〉の距離 ─〈父〉と〈息子〉と有島武郎─ (2004/01/28)

6.おわりに ─残された者たち─
(1)弟のまなざし
(2)「自分と祖父との間にはさまっている人間」

6.おわりに ─残された者たち─

(1)弟のまなざし

 〈息子〉であり〈父〉であった有島武郎の足跡は、ここで途絶えます。しかし、最後に、立ち去った彼のあとに残された者たちについて、少しつけ加えておきたいと思います。

長兄の武郎が、皆の前から姿を消した時の事を、里見 弓享は『安城家の兄弟』※注17という作品の中で、このように描いています。

 (前略)たつぷりとした絹袖(けんちう)の洋袴(ズボン)の膝を折り、座布団ごと、昌造のつい鼻の先まで膝行(ゐざ)り出た隼夫が、煩擾(はんぜう)の心を、笑ひともつかず引き歪めた脣に紛らしながら、
 「たいへんなことが出来ちやつたんだがね……」
 「なんだい」
 「兄さんがね、よその細君をつれて、どつかイ行つちまつたらしいんだよ」
 「ふーん」

 意外といえば意外だつたけれど、妻を失う前後から、遽に挙つた文名に、正義人道に基く適度の左傾思想に、愛の高唱に、また私生活としては、老母に対する孝養、三人の母なき子等に対する愛憐、亡妻に対する堅固な貞節、などの評判に、夥多(おびたゞ)しい女性の崇拝者が集い寄つてゐた文吉のことだから、起つて見れば、必ずしも訝(あやし)むに足りない事件だつた。普段昌造が、無遠慮に考へてゐるところを以てすれば、寧ろそれの来ることのおそきに過ぎたくらゐで、つゞまるところは自制の上に築かれてゐるやうな、その方面の兄の生活に対しては、あぶなつかしくも、また、もの足らなくも思はれてゐた。一日も早く、あの「おあづけ」の状態から脱け出して、青白い青年や、きな臭い女の愛読者どもを、鎧袖(がいしう)一触、蹶ちらかして、さば/\とした男一匹に立ちかへらなければ、と、昌造は、常日比(つねひごろ)、心密かに憂ひ、念じてゐた。

 うちの兄貴を横取りして行つた、というやきもちの気持も、多少潜んでゐなかったとは言へないけれど、文吉の周囲に集まつて来る有象無象(うぞうむぞう)を、──ちつとも有難がる必要のないお顧客様(とくいさま)を、兄のために憎みつゞけた。うつかり何曜かの面会日に行き合せて、玄関いつぱいに竝んだ男女の下駄を見ただけで胸をむかつかせ、そのまゝ引き返して来たこともあつたほどだ。何者によつて支持されるところなくとも、兄貴は立派な兄貴なんだ!さう思つてゐる昌造の誇は、この何年来といふもの、傷けられどほしに傷けられて来た。一体兄貴がよくない、気が弱すぎるんだ、──考へは、たうとうその底へまでも落ちつかうとしてゐた。
(改行は引用者)
※文吉─武郎、昌造─里見弓享、隼夫─有島家の四男・行夫に対応

〈何者によつて支持されるところなくとも、兄貴は立派な兄貴なんだ!〉この一言は、幼い頃から優しい兄を尊敬し、『白樺』の仲間に対しても誇らしく思っていた、実弟の心底からの叫びだったでしょう。

 しかし、この言葉は、生前の武郎には届きませんでした。また、仮にそうした弟の気持ちを知ることが出来たとしても、武郎自身は、もう、そのような言葉を信じられない心境に来ていたようです。
 『安城家の兄弟』の記述によると、知人の足助素一(あすけ・そいち)に別れを告げにいった時には、武郎は完全に自信を喪失し、〈僕は行き詰つてゐる。僕の行く手は真暗だ。子供たちだつて、どう教育していゝものかわからない。万一僕みたいなものにでもなられたひにや大事だ〉と言っていたといいます。そして足助が、「冗談いつちやアいけない!何が行き詰つてるもんか!」と励ましても、“自分は新興階級に無縁の衆生であり、わずかに出来る事といえば、早晩滅亡すべき第三階級(ブルジョア階級)のために、内部からその崩壊を助長さすくらいのものだ。そんな、崩壊のために働く者に、結局、死滅以外の何が残されるのだらう…”という考えに取り憑かれてしまっていました。観念の世界の中で、武郎は、自分の破滅的なヴィジョンに追い越されてしまったのです。

そしてそれは同時に、彼が最も愛し、かつては彼らのために恥ずかしくないように生きようとさえ誓っていた、3人の実の息子たちを置き去りにしてしまう事でもありました。

(2)「自分と祖父との間にはさまっている人間」

 息子たちは、父親の死を、どのように受けとめていたのでしょうか。
 次も、『安城家の兄弟』からの引用です。これが、里見の視線から捉えた、3人の遺児に父親の死を告げた時の情景です。

 自動車が門内にはいつた時から、子供たちに、もう十分の予感が来てゐたことは、よそ目にもそれと知れたが、「たゞいま!」とひと言、ちよいと畳に手を突いただけで、恰度そのとき、総領の道夫を先に、三人どや/\と、逃げるように立つて行かうとしてゐた。
 「ちよいと!」
 壬之助が呼びとめて、「ちよいとお待ち!」
 「え?」
 「ちよいと、みんな、こゝにおいで……」
 「なに?」 (中略)

 十分覚悟をきめてゐた壬之助も、いざとなると、自分一人ではやりきれない、と言ひたげだつた。
 「みんな、よく聞いておくれよ!」
 洋袴(ズボン)の膝をきちんと、堅くなつて坐つた三人を前に、今や安城家の事をなにくれとなく、病後まだ日の浅い痩せ尖つた肩に担つてゆくほかなくなつた壬之助が、最初のこの大役に蒼白みながらも、雄々しく口を切った。

 「お前たちの阿父様(おとうさま)は、もうこの世にいらつしやらないんだ、おかくれになつて了(しま)つたんだ。今のお前たちの年齢(とし)では、そのことについて、詳しく知る必要はないが、こゝに、お前たちの阿父様が、お前たちに宛てて書き遺していらしつたものがあるから……」
 言ひながら、懐から取り出した遺書に、骨の露(あらは)な指先が、もつれるやうにぎごちなかつた。

 「母上。道夫。信吉。健三。
 今日母上と健三にはお会ひしたが、他の二人には会ひかねました。私には却つてそれがよかつたのかも知れません。三児よ、父は出来るだけの力で戦つて来たよ。
 かうした行為が異常な行為であるのは心得てゐます。皆さんの怒りと悲しみとを感じないではありません。けれども仕方がありません。如何に戦つても私はこの運命からのがれることが出来なくなつたのですから。私は心からの喜びを以てその運命に近づいて行くのですから。すべてを許して下さい。
 皆さんの悲しみが皆さんを傷けないやう。皆さんが弟妹達の親切な手によつて早くその傷から立直るやう。たゞそればかりを祈ります。
 かゝる決心が来る前まで私は皆さんをどれほど愛したか。
 六月八日、汽車中にて、文吉」

 かう読み終る間には、綾子、茂登子はもとより、昌造も隼夫も泣き、ところ/\゛では壬之助の声さへ杜切れたに拘らず、子供達は泣かなかつた。眼の中の潤みさへ見せなかつた。子供に独特な、おそろしいほどの真面目さで、ぢツと一点を見据ゑたまゝ耳を傾けてゐた。一時に昌造の涙は乾いて、身の締るやうな凄さが感じられだした……。
※壬之助─有島生馬、綾子─有島家長女・愛、茂登子─生馬の妻・信子
 道夫─武郎の長男・行光、信吉─次男・敏行、健三─三男・行三

 かつて〈小さきものよ。人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける〉と、力強い言葉を書き記した父。“父として在る”ことについて、有島武郎ほど気格の高い文章を書いた人はいませんでした。

 しかし、今、現実に、父親から手を離されてしまった子供たちは、その事を、どう受けとめれば良いのでしょう?
 思わず涙ぐんだ叔父の感傷さえ吹き飛ばす程に、この出来事を真正面から受けとめた武郎の遺児たち。 その一人が、その事を、どのように感じながら生きていたかの一端を、次のような記録の中に、伺い知る事ができます。

 有島武郎が没してから44年後。有島研究者、山田昭夫氏・木原直彦氏・上杉省和氏の3名は、有島武郎文学展の準備のため、俳優・森雅之となった長男・行光を訪問し、武郎の思い出をたずねる事にしました。しかし彼らは、そこで、森雅之の思いがけない反応に直面します。

 三人は玄関横のやや手狭な応接室で森さんの父・武郎を語るお話をうかがったのであるが、私は森さんの語調のきびしさに肩のこるような緊張感をおぼえた。(中略)実は森さんの父・武郎批判はいくつかの森さんの回想文に見られぬような苛烈さで、そのために私は身内を固くして聞き入っていたのである。

 〈ぼくはね、親父のことはあまり思い出したくないんだ。しかし、いくらそういってみてもしょうがないな。だいたい親父には男性的魅力っていうものがない。ぼくは志賀さんの暖か味っていうものを強く感ずるな、志賀さんの男性味の暖かさをね。だから志賀さんの作品や里見の作品は読むんだが、親父の作品はほとんど読まないんだ。〉

 次の所用がひかえていたせいかも知れない。森さんはセカセカした口調で、苦いものを吐き出すようにして父を語るのだ。しかもシブイ声で。

 〈親父の死は全く異常だよ。子供へのショックの大きいのを考えないのはどうかしてるよ。自分は死んでも、子供たちのことは祖母や弟たちが面倒をみてくれるだろうと考えたのは、これは男らしくない依存心だ。実際には生馬夫人──叔母が引き取って育ててくれたんだが、ぼくは叔母を尊敬しているよ。あの時分、軽井沢へ行ってもどこに行っても事件のことを聞かれて閉口したんだ。学校でもそうだったんだ。ずいぶん不愉快な思いをしたな。〉

 (中略)森さんの口調があまりにきびしいので、私は息苦しくなってきた。

 〈札幌時代のことは覚えておらんなァ。五ツの時だ、あたりまえだろう。親父は甘ちゃんだよ、こっちがいたずらした時なんか、ほんとうはきびしく叱って殴ってくれたらよかったんだ。そりやァ、やさしかったともいえるけれども、本心から怒って、きびしく、親父らしくしてほしかったなァ。自分と祖父との間にはさまっている人間として無視できんが、好きじゃないなァ。
  ……親父の死によって、ぼくの人生は一変したんだ。親父が生きていたらぼくは俳優にならんかったろう。なんといっても、学殖あり、教養ありで、立派すぎて息がつまるよ。しかし、その親父が死んでぼくの人生が変わったんだ。〉

(山田昭夫「父を語る森雅之氏」 ※注18

 名前を変えても不自然でない職業に就くまでの間、行光が、世間の卑俗な好奇の目にさらされながら、弟たちと一緒に、どんな日々を過ごしたのか──。
 無論、行光が、父親を恨んでいたと考えるのは早計でしょう。サッカーボールが井戸に落ちた時の記憶も、「小さき者へ」の文章も、彼にとってはかけがえのない思い出です。数少ない追憶を心の支えとし、父は、本当は自分を愛してくれていたのだと、信じようとしていたことでしょう。
 しかし、現実には、残された子供たちに親身な愛情を注ぎ、育て上げたのは、有島生馬とその妻・信子でした。そして、行光が、理想と思える〈男〉のぬくもりを感じたのは、志賀直哉や、叔父の里見の作品からでした。どちらも、武郎自身は、息子に与えてやれなかったものです。

 なお、有島行光は、上の言葉を語った6年後、昭和48年(1973)に没しています。彼が遺した〈本心から怒って、きびしく、親父らしくしてほしかったなァ。…自分と祖父との間にはさまっている人間として無視できんが、好きじゃないなァ〉という言葉に、武郎があれほどこだわった〈本心〉とはいったい何だったのか、改めて考えずにはいられません。

(了)

【注釈】

注17 本文は『安城家の兄弟』全3冊(岩波文庫 1995年復刊)より引用

注18 山田昭夫「父を語る森雅之氏」
    (原題・「森雅之のなかの父・武郎と北海道」 『わが北海道』1973年11月より)
    『有島武郎の世界』(北海道新聞社 1978年)278〜280p