〈親子〉の距離 ─〈父〉と〈息子〉と有島武郎─ (2004/01/28)
5.「親子」 ─〈父〉と〈彼れ〉/〈武〉と〈武郎〉─
(1)「親子」のあらすじ (2)視点人物の不在
(3)〈有島農場〉の起こり (4)〈小作人〉=〈農民〉?
(5)農場という〈場〉
(1)「親子」のあらすじ ここで再び、「親子」という作品に戻り、〈父と彼れ〉と〈武と武郎〉との関係について考えてゆきたいと思います。 第1章でご紹介したように、ストーリーの大筋は、農場の持ち主である〈父〉の、神経質で傲慢なふるまいに沿って展開してゆきます。
「風呂桶をしかへたな」 風呂桶を新しいものに変えたのも、山ではとれない色々な食材をそろえたのも、たまに訪れる地主に対する精一杯のもてなしのはずです。しかし、〈父〉は、そういう心づくしを労(ねぎら)う事は一切しません。ただひたすら、“自分の事業の中で無駄遣いはさせまい”“金銭は一銭たりとも誤魔化されまい”と気を張りつめているように見えます。当然ながら、両者の間に挟まって、息子である〈彼れ〉はひどい気詰まりを感じます。 その翌日、開拓請負人の矢部と、いよいよ開拓の精算と農場譲渡の交渉をするにあたって、〈父〉の本領はさらに発揮されます。 息子の〈彼れ〉は義憤にかられ、父と口論します。“私にはどうしても現在のようにうそばかりで固めた生活ではやり切れません。矢部に対するあなたの態度も、丸でぺてんです”と。しかし〈父〉は、まだ一人立ちしていない息子の言い分を受けつけません。“それ程父に向かって理屈がいいたければ、立派に一人前の仕事と生活をしてから言うがいい”とはねつけます。「親子」の、父子の葛藤場面のクライマックスです。 |
さて一方、現実の有島武も、狩太(かりぶと)(※現・ニセコ町)の〈マッカリヌプリ〉(※後方羊蹄山)の麓に〈有島農場〉開墾を試み、明治40年代に、請負人から譲渡をうけています。 しかし、この小説に、モデルとなった事実との微妙な違いがある事については、以前より、高山亮二氏が気づいていました。以下は、『有島武郎全集 第五巻』(筑摩書房版)巻末の、「親子」解題からの引用です。 前記、高山亮二氏の論考の根拠となっているのは左記のような新資料である。 明治三十三年十月九日取結タル狩太村有島農場開墾契約ニヨリ、事業結了ニ付キ収支精算受渡ニ付キ、契約人甲ハ有島武郎、乙ハ久慈千治代人委任状ヲ示ス菊池慶一郎、狩太村有島農場事務所ニ於テ協定書を作製スル事、左記ノ如シ、其ノ取引ハ東京ニ於テ遂行スベキ事ヲ約スル者也 この書類によって有島農場事務所において清算事務が行われたのは明治四十年八月ではなく、明治四十二年九月一日であり、また請負人代理との清算事務も金銭の収支であって、「親子」に見るような土地売買の取り引きではないことが明らかである。同氏の洞察された「親子」の構造は「……この小説は前記の何れの〈事実〉を素材にしても簡単な私小説ではなく、明治四〇年夏の父との農場訪問と、同四二年秋の農場事務所での収支精算と、以後、東京での父武と久慈との土地売買の取引きという、三つの素材を、四二年秋の精算の時點に三者が農場事務所で落ち合ったというフィクションのもとに作られた作品である」という単純ならざる性格のものであった。
〈解題〉には、続けて、「この虚構のゆえに予想外の困難に逢着したのではあるまいかと推察される」と記されています。事実、武郎は、この作品に着手していた大正12年4月3日から12日までの間、数名への手紙に、“書けなくて苦しんでいる”旨を書き送っていたそうです。 しかし、上記の資料をもとに考えると、ここには、単に有島が書きあぐねていたという以上の問題が立ちあらわれて来るように思われるのです。 そもそも、「親子」全編の緊迫感は、〈父〉が、息子を含めた他の人間たちに対して、いつでも過剰に猜疑心と警戒心に満ちた応対をする事で、周囲との軋轢が高まってゆくところから来ています。地主として土地を見回る、矢部・早田と決算の収支を合わせる、そして土地の売買契約を結ぶ。そうやって他の者たちと接しながら、〈父〉は一度も誰にも心開くことなく、実の息子にさえ、人前で不手際をすれば侮辱するような言葉を投げつける。このような流れがあるからこそ、クライマックスの親子対立のシーンまで、サスペンスが盛り上がってゆくのです。 ところが実際には、農場視察も、収支精算も、別な時の話です。 しかも、最終的な土地売買については、東京で交渉が行われています。すると、ちょうど札幌で新婚生活をはじめたばかりで、明治43年3〜4月の『白樺』創刊頃に一時上京しただけの武郎には、実際に父と請負人との間でどんなやりとりがあったか、知ることは出来なかったのではないでしょうか? それにもう一つ、心に留めておかなければならない事があります。それは、上の書類の引用部を見れば明白なように、農場が有島家に権利譲渡された時、もうすでに、名義は〈有島武郎〉のものになっていたという事実です。武のものを、その死後に武郎が相続したのではなかったのです。 では、そもそも、〈有島農場〉というのは、どのような性質の農場だったのでしょうか。 |
羊蹄山麓の狩太村は、実は、明治31年以前は、原始林だけが果てしなく広がっている土地でした。 直接のきっかけは、明治31年3月に「北海道国有地未開地処分法」が施行され、民間人でも希望すれば北海道庁から土地貸附認可を受けられるようになったからです。 確かに北海道は未開地だが、本州に比べれば、広い土地が確保できるはずだ。しかも「北海道国有地未開地処分法」に従えば、開墾が成功した暁(あかつき)には、そこをすべて私有地にする事ができる…。 しかし、遠く離れた土地での、人の手を頼んでの開墾は、はじめから不調の連続でした。 当時の父の奮闘をそばで見ていた次男の生馬(壬生馬)は、後に、農場について、このように語っています。 第三者の立場から私がみれば、武郎が後年農場を農民に解放贈与したより、父の長年にわたる開墾の実際の経営がどれほど骨が折れたかわからない。世間は農場の解放宣言にのみ大きな意義を与えてくださるが、解放された農場の成立について全く考えない。未開墾地が一国の農地になる重要さ、有島農場が狩太共生農園と単に名称を変えたことの重要さ、質と方向はもちろん異なるにせよ軽々しく評価しうるものではないであろう。 |
また、〈農場〉の実体についても、通常、一般的に考えられている〈農村〉とは違うという事を、押さえておかなくてはなりません。 まずは、当時の農場の様子をイメージするために、有島武郎と、入植者の亀田貞勝氏の回想を、合わせてご覧下さい。 私は農学校を卒業する前年の夏にはじめてこの農場を訪れました。倶知安まで汽車で参つてそれから荷馬を用ゐ随分と難儀していつたのでした。熊笹はこの天井位の高さにのびて見通しがきかないのみか樹木は天をくらくする位に繁つてゐました。そこに小さい掘立小屋をたてて開墾の事務所がありました。始めに入つた農民が八戸でありまして川に沿ふた所に草で葺いた小屋をたてて開墾に従つたのでした。 家といってもササぶきの堀立小屋、出入口にムシロを下げただけで吹雪の日などは寝床の上に雪が降り積もることがしばしばでした。食生活にしても同様の貧しさ、鮮魚などは一年中食べることもなく、主食といえば麦、ソバ、ヒエ、トウモロコシだけ。山菜、キノコなどもずいぶん食べたようです。こんな生活状態ですから年貢を満足に納める小作人はほとんどなく、したがって農場内の出入りが多く不安定な状態で、年々三割くらいの小作人が移り住んでいきました。 成墾作業が一応完了したのが明治41年ですから、もう、それ以前ですと、入植者たちの村落さえ、ほとんど出来ていない状態だったのでしょう。 ところで、注目すべきなのは、ここで亀田氏が、“年々三割くらいの小作人が移り住んでいった”と述べていることです。 通常、こういう証言からは、“きびしい生活条件と高い小作料”を考え、〈有島農場〉がいかに住みづらい場所だったかを読みとる、というのが常道でしょう。しかし、当時の小作料約定證書を見る限りでは、〈有島農場〉は、違反に対する制裁規定は詳細にわたっていたものの、小作料自体は、他の農場と比較しても“際だって過酷”とは言えなかったようです。(※注15) 実は、ここで、もう一つ考慮しておかねばならない事があります。それは、“移り住んだ人たちが、その先でも定住しているとは限らない”という事です。 ところが、毎年3割ほどがだいたい決まって出ていき、それでも成り立っていたのだとすれば、やはり毎年、それを埋め合わせるだけの数の人たちが入って来ていると考えなければなりません。言い変えれば、〈小作人〉とは言いながら、しかし定着はせず、条件のよさそうな農場を渡って歩く人々が、当時はその位の割合で存在したのだという事になるのではないでしょうか。 〈屯田兵〉のように、最初から、“自分たちの”コロニーを作る事を動機づけられている人たちならば、──また、旧会津藩の士族や、奈良の十津川村の人たちのように、あるまとまった集団が新天地を求めて入植したのであれば、──定住し、生活を向上させてゆく意欲は、相当強いものだったでしょう。 * * * * * * * * 私がまだ小さい頃、近所の大人から、こういう話を聞いた憶えがあります。 “炭坑の人は、浜の人(漁師)と言葉が似ているだろう。あれは、浜が景気良くなれば浜へ、炭坑が景気良くなれば炭坑へと、両方の間を動いているからなんだよ”と。子供心に、ああそうなのかと、スッと腑に落ちるところがありました。ちなみに、私が育ったのは、炭坑にほど近い、もともとは農村の町でした。 * * * * * * * * 漁をするのも、鉱山に入るのも同じ事。体一つ、腕一本で稼げる自信があるからと、流れて歩く人々がいました。こういうタイプの人たちに、〈漁師〉や〈坑夫〉という〈アイデンティティ〉を求めるなど、事情をしらない者の勝手な規定に過ぎないでしょう。もしかすると、“自分は何処へ行って何をしても食える”という事自体が、こういう人たちを支えるプライドなのかも知れないのですから。 そう考えると、明治の開拓農場という〈場〉も、おそらく、こうした層の人たちが稼ぐ上での選択肢の一つだったのではないでしょうか。 |
有島武郎は、〈有島農場〉の小作人たちの家が、いつまでたっても開墾当時と同じ、柱に板壁を立て回しただけの〈掘立小屋〉なのをひどく気にしていました。彼にとって、それは“資本主義の悪制度の結果”であり、だからこそ、農場は解放されなければなりませんでした(「私有農場から共産農園へ」 『解放』大正12・3)。 しかし、開墾から10年15年と経っても、まだ、自分たちの家まわりの最低限のインフラさえ整えようとせず、小屋には床も張らないというのであれば、それはむしろ、“何か状況が変わったら、すぐにここを引き払って出てゆこう”という小作人たちの生活意識を、如実に表していたのではないか思われるのです。 第一、有島自身、彼の見たままを述べる際には、「(小作人たちは)冬も働かないわけではないのですが、──それよりも、鉄道線路の雪掻きや、鯡(にしん)漁の賃金仕事に行けば、一日に二円も二円五十銭もの賃金がとれるのですから、百姓仕事をするよりも余程お銭が多くとれるのですが」(同上)と言っているのです。「(金が)とればとれるで矢張り贅沢になったり、無駄費ひが多くなつたり、それに寒いので酒を飲む、飲めば賭博をする」(同上)といった“その日暮らし”的感覚は、どう考えても、子孫のために田畑を増やそうとする、実直な農民のそれではないでしょう。 有島は、〈農場解放〉の約半年前、「宣言一つ」(『改造』大正11・1)の中で、「今後私の生活が如何様に変らうとも、私は結局在来の支配者階級の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗ひたてられても、黒人種たるを失はないと同様であるだらう」と述べていました。それと同様に、〈第四階級〉や〈農民〉〈労働者〉というカテゴリーも、固定的で動かし得ないもののように考えていたきらいがあります。
でも、“〈小作人〉は〈農民〉であり、〈農民〉は〈農民〉らしく生きられるのが最も幸せだ”という観念のフレームを少しはずして見たならば、北海道の〈私有農場〉は、色々な地方から、様々な人間が離合集散する、ユニークな〈場〉だったと捉え直す事もできたはずです。 里見 弓享の小説「銀二郎の片腕」も、舞台は、北海道のとある牧場です。銀二郎は、そこで働く〈牧夫〉の一人ですが、寡黙で過去は語らないものの、なぜか為替の組み方などに詳しく、時計の修理も手慣れていて、とてもただの牧夫とは思われません。そんな謎めいた人物が、この話の主人公です。でも、そんな設定もさして不自然とは感じられないほど、当時、〈北海道〉という土地には、色々な人が集まっていたのでしょう。 しかし、もはや、そう考え直してみる余裕もないほどまでに、当時の有島は、時代の言説の陥穽にはまり込んでしまっていたのでしょう。 |
【注釈】
注12 『有島武郎全集 第五巻』解題(筑摩書房 1980年)621p
注13 北海道新聞 1962年9月20日掲載
『近代文学資料 有島武郎 中巻』(既出)306p
注14 山田昭夫『有島武郎・姿勢と軌跡』(既出)282〜284p