〈親子〉の距離 ─〈父〉と〈息子〉と〈有島武郎〉─ (2004/01/28)
4.教師時代の奮闘
(1)「小さき者へ」 (2)八面六臂の教師生活
(3)子煩悩の父親 (4)我が身を削る献身
(5)仮構された〈内面〉 (6)〈激情〉の否定
(7)行光の視線
(1)「小さき者へ」 有島武郎にとって、2度目の札幌時代。それは、彼が初めて自分の家庭を持ち、教師として活躍した時代でした。また、その6年目(大正3年)には、妻の肺病という重大な危機に直面するという、波乱に富んだ時期でもありました。 のちに、有島は、その時期の回想記「小さき者へ」を、未来の息子たちに語りかけるという形式で書き上げています。 お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、──その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分からない事だが──父の書き残したものを繰拡(くりひろ)げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの目の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映(うつ)るか、それは想像も出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤(わら)い憐(あわ)れんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。 しかし、札幌時代の有島の奮闘ぶりは、息子たちどころか、どんな者でもとうてい「嗤い憐れむ」事など出来ないくらい、素晴らしいものでした。 |
〈教師・有島武郎〉にとって、この時期、最も意義が深かったのは、〈札幌遠友夜学校(えんゆうやがっこう)〉の仕事でしょう。 〈遠友夜学校〉とは、もともとは、明治26年に新渡戸稲造によって創設された夜間学校でした。 最初は名前通り、夜だけ、週2〜3回程度の開講でしたが、次第に時間数も増え、明治30年頃には尋常小学校と同等の学校として認められるようになっていました。明治33年頃には、だいたい毎夜2時間開講、プラス日曜日に修身講話、という組み方になっていたようです。 有島武郎が夜学校に本格的に関わるようになったのは、明治41年頃の事です。立場は〈校務監督〉。いわば、夜学校の校長でした。 生徒たちの大半は、昼間は働いていましたが、安定した職業に就いている者は少数でした。資料によると、明治43年当時の夜学校生徒の職種は、職工12名、裁縫8名、奉公4名、給仕28名、行商3名。家事手伝34名、子守22名については、職に就いているとはいえないでしょう。無職又は不明という生徒も、23名いるという状態でした。生活も不安定で、家庭の都合で辞めさせられる例も多かったといいます。 それでも、有島は、授業を持ったばかりではなく、年によっては学級担任も引き受け、勉強以外の、生活面での相談にも親身に応じていました。彼の初期小説「お末の死」は、この当時の経験から題材をとった作品です。
また、夜学校が忙がしいからといって、東北帝国大学の方も、決して手を抜くわけではありませんでした。 昼間は(※東北帝国大学の)学生監・予科教授として英語と倫理を教え、日曜ごとに独立教会の日曜学校(四十四年まで)校長として子供たちに接し、夜になると週に二、三度──担任受持ちの時には毎夜──夜学校に出向き、その他、黒百合会の会長であり、週に一回は社会主義研究会を自宅で開き、その余暇に「或る女のグリンプス」を執筆するといった多忙な毎日であった。 まさに、八面六臂の大活躍です。まだ学生だった木田金次郎が訪ねて来たのもこの頃です。絵を沢山持っていきなり訪ねてきた見知らぬ青年に対し、有島が懇切に応対した話は、ここにあらためて紹介するまでもありません。 |
また、子供を可愛がる事も無類でした。明治44年9月の『白樺』編集後記は、次のようなエピソードを伝えています。 武郎は坊やを非常に可愛がる。壬生馬が「子を持つて知る親の恩ですか」といふと、「馬鹿いつちやいけないよ。あんな人間の賤しい心地を顕はした言葉は少ないね。本統は子を持つて初めて知る子の恩さ」といつたさうだ。先日上京してた時奥さんと坊やと三人で写した写真がある其 Akimbo をして少し横目をした武郎の顔が実に此考へをよく現はしてゐる。終りに坊やの健康を祈る(とかうかいて置けば大丈夫だ)NS(※志賀直哉) また、この時期の里見 弓享の短篇に「手紙」(大正元年12月)という作品がありますが、その中にも、札幌の兄・武郎(作中の名前は哲雄)が、優しく根気よく、長男の行光(ゆきみつ)(作中では清一)に接している有様が描かれています。 隣室には、今まで何か一人ごとを云ひながら大人しく遊んで居た清一が急に鼻聲を出して、ヤカマしく云ひ始めた。
「駄目だヨ、この坊主は。一度云ひ出したら聴(き)くんぢやないから。昌さん(※里見)。君先に這入つてくれないか。」 そこへ哲雄が泣き叫ぶ子供を抱いて、庭から廻つて、風呂場の側(そば)を通つた。
このように、武郎の一家は、傍目からは幸せそのものでした。まだ、文筆家としては、あまり知名度はありませんでしたが、職場や知人たちの間では、すでに、社会的にも人格的にも高い評価を得ていました。その上、遠友夜学校などを通じて、社会改良的な活動にも積極的に関わっています。そんな彼は、弟やその友人たちの尊敬の的だったのです。 |
しかし、そのような、幸福の絶頂と思われる時でさえ、人に見せない〈心の中〉にはまったく別な想念が渦巻いていたと、武郎は「小さき者へ」の中で告白しています。 私はその頃心の中に色々な問題をあり余る程(ほど)持っていた。そして始終齷齪(あくせく)しながら何一つ自分を「満足」に近づけるような仕事をしていなかった。何事も独りで噛(か)みしめてみる私の性質として、表面(うわべ)には十人並みな生活を生活していながら、私の心はややもすると突き上げて来る不安にいらいらさせられた。ある時は結婚を悔いた。ある時は、お前たちの誕生を悪(にく)んだ。(中略) 私は自分の心の乱れからお前たちの母上を屡々(しばしば)泣かせたり淋しがらせたりした。またお前たちを没義道(もぎどう)に取りあつかった。お前達が少し執念(しゅうね)く泣いたりいがんだりする声を聞くと、私は何か残虐な事をしないではいられなかった。原稿紙にでも向っていた時に、お前たちの母上が、小さな家事上の相談を持って来たり、お前たちが泣き騒いだりしたりすると、私は思わず机をたたいて立上がったりした。そして後ではたまらない淋しさに襲われるのを知りぬいていながら、激しい言葉を遣(つか)ったり、厳しい折檻(せっかん)をお前たちに加えたりした。
先の回想や記録とは、あまりにもかけ離れて見える、プライベートの一面です。しかし実は、このような心の状態になる事自体は、そう意外なことでもありません。 先に〈八面六臂の大活躍〉と言いましたが、しかしその精力家ぶりには、かなりの無理が感じられます。とにかく少しでもスケジュールに隙間があれば、仕事か、自分の文筆活動にあてているといった観があり、生活にゆとりというものが少しも感じられません。 ここで、再び、武郎の仕事の背負い込み方を見ると、一つの傾向があるのがわかります。大学生の〈ため〉・夜学校の生徒の〈ため〉というように、ほとんど必ず、自分よりも若い世代のためには献身的に奮闘しています。逆に、上司の意を汲むとか、同僚とのつき合い重視の行動は、まず見あたりません。 家庭でもそれは同様で、いつも極力息子たちのためを思い、子供の気持ちを尊重するようにしていたように見受けられます。「お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ」(「小さき者へ」)という科白は、この時期の有島の心情を最もよく表したものでしょう。 それにしても、なぜ有島は、自分自身のための時間をぎりぎりに削ってまで、後進の世代に対して無私の助力を行っていたのでしょうか。しかも、ここまでしていて、なぜ、その事を自ら誇るという、肯定的な気持ちになれなかったのでしょうか。 |
実は、有島武郎には、生前は口にせず、文学の形で表現もしなかった、自分だけの〈心の秘密〉があったらしいのです。 有島の日記の、明治32年3月1日の箇所は、なぜか、3ページ分が欠落しています。しかし、残っている部分には、次のような文章が記されています。 今朝見れば我が枕(まくら)の上にも涕(なみだ)の跡はあり。あはれ昨日までは人の上とのみ思ひしものを。(以下三頁落丁)苦しさに夢はハタと覚めぬ。(中略)嗚呼、何たる悪夢ぞ。我が父上も母君も最も安らかに今日の日を楽しみ給ふて睦(むつ)ましくあり給ふに何とてかゝる夢に遇ひけん。我が心狂ひしか。抑(そもそ)も我の父母を慕ふの心足らぬか。枕頭(ちんとう)を探れば涕痕(ていこん)寒く衾(ふすま)を重ねて涙更に潜然たりき。 有島研究者の上杉省和氏は、この〈夢〉を〈父母殺害の夢ではないか〉と推察していますが、おそらく、当たらずといえども遠からずでしょう。この時は、武郎がちょうど、友人の森本厚吉から強い影響を受けてキリスト教入信を決意した頃。そして、その決意を家に伝えた武郎は、手紙の上でのこととはいえ、両親と正面から対立するという、初めての経験をしていた時だったからです。 もう満21歳の青年が、親からも遠く離れ、これまで知らなかった様々な思想に触れる。肉親より大事だと思える友とも出会う。まさしく、それは、精神的自立の第一歩の時期だったはずです。心の奥底に、親の存在を否定したい、という気持ちがきざし初めるのも当然です。 しかし、武郎自身の受けとめ方は、まったく違っていました。おそらく彼は、その夢を、象徴としてではなく、そのままストレートに自分の隠された願望として捉えたのです。しかも、こんな恐ろしい願望は、誰にも打ち明けられないと考えた。それで彼は、いったん書いた日記を破り捨てた事からもわかるように、一種のパニック状態に陥ったに違いありません。 自分の外見的なふるまいと、自分の〈内心〉とを対立的に捉える。また、〈心〉は他人に隠された(隠すべき)ものだと考える。そうした有島の発想傾向も、この頃から、次第に顕著になっていったのでしょう。 有島武郎が、本当のところ、どこまで父親に反感を感じていたのかはわかりません。しかし、実は彼が〈自分の内奥の願望は父殺しであるのかも知れない〉と思った時から、彼の〈内心〉に、父親に対する、隠された〈憎しみ〉と〈罪悪感〉とが生じたのです。“もしかすると、そんな〈内心〉など、自分で仮構した幻想なのかも知れない”とは、彼は考えもつかなかったようです。 |
彼の、一種、神経症的な若い世代への献身は、彼の中の、父(または前世代)への罪悪感の存在を、逆の方向から裏づけているように思われます。自分の中のネガティブな部分を払拭し、自己存在を肯定したい。その願望から、彼は、知らず知らずのうちに、無私な行為に駆り立てられていたようにも見えます。 しかし、生身の父親ならば、例えば、凍える夜中に、寝つきの悪い子供がグズグズ駄々をこねれば、思わずカッと腹をたててしまう事もあるでしょう。でも、そんな、ある意味では当たり前の心情の裡にさえ、彼は、残酷非情な〈殺人者〉になり得る自分を見出し、戦慄を覚えます。 「光(みつ)!(※行光・3歳頃)まだ泣いてるか──黙って寝なさい」 (※外套掛けの)戸が開いた。子供はその音を聞くと狂気の如く彼の頸(くび)にすがり付いた。然し無益だ。彼は蔓のようにからみ付くその手足を没義道(もぎどう)にも他愛なく引き放して、いきなり外套と帽子と履物と掃除道具とでごっちゃになった真暗な中に子供を放り込んだ。その時の気組(きぐみ)なら彼は殺人罪でも犯し得たであろう。感情の激昂から彼の胸は大波のように高低して、喉は笛のように鳴るかと思う程燥(かわ)き果て、耳を聾返(つんぼが)えらすばかりな内部の噪音に阻(はゞ)まれて、子供の声などは一語も聞こえはしなかった。(中略) 妻は寒い中に端座して身もふるわさずに子供の声に聞き入っているらしかった。 このような感情の暴発こそ、まさしく、父・有島武と共有する激情的気質のなせるわざだと思われます。しかし、作者の武郎は、その事には一言も触れません。 では、〈彼〉は、妻子に平気で暴力を振るえる、いわゆる虐待夫だったのでしょうか。 感情の振幅が激しく、時に激情にかられるのも“自分”なら、その激情を抑え込み、後悔する事が出来るという能力もまた“自分”のものに他なりません。しかし、自分の否定的な側面に自意識を集中させ、自罰的に省(かえり)みればみるほど、自分の中で悪しき感情が増幅して来るという悪循環に、有島武郎は気づいていたでしょうか。 |
妻の死後、武郎の、子供に対する怒りの感情表現は、相当な努力をもって矯められたようです。長男の行光に、物心ついて以来、叱られた記憶がほとんどなかったという事実も、そうした推測の裏づけになります。 短かった父親との生活の中で、有島行光(※俳優・森雅之)の脳裏に残っているのは、例えばこのような光景です。 その時、驚くべき激しさで、書斎の窓が開いた。そして其処に植込みを通して、目を見開いた父の顔が覗いてゐる。私は咄嗟には何の事か解らず、余り激しい父の勢に気を呑まれてポカンとしてゐたが、父は私の顔を見ると表情を変えた。それは、子供がはにかんだやうな表情だつた。次の瞬間、私には凡てが解つた。父は私が井戸へ墜ちたと思つたのである。 息子から見ても、〈子供がはにかんだ〉ような表情。武郎自身には見えず、知る事もなかっただろうその表情も、また、紛れもなく武郎の本質でした。その意味で、〈内心〉だけが人間の〈真実〉なわけではありません。 |
【注釈】
注5 『小さき者へ・生れ出づる悩み』(新潮文庫 1987年・第62刷)8p
注6 山田昭夫『有島武郎・姿勢と軌跡』(右文書院 1973年)186〜187p
注7 『明治文学全集76 初期白樺派文学集』209〜210p
注9 上杉省和『有島武郎 ─人とその小説世界─』(既出)35〜36p
注10 『北海道文学全集第三巻 ヒューマニズムの照明』(立風書房 1980年)24〜25p
注11 合著『父之書斎』(三省堂 1943年4月)より
『近代文学資料 有島武郎 中巻』(桜楓社 1975年)320p