〈親子〉の距離 ─〈父〉と〈息子〉と有島武郎─ (2004/01/28)
2.〈回想〉と〈回想〉のはざま
(1)厳しい父と〈傷ついた子供〉
(2)〈家〉にいない兄
(3)〈ガキ大将の/臆病な〉少年
(1)厳しい父と〈傷ついた子供〉 「親子」は、有島武郎にとって、結末まで書き上げられた最後の小説となりました。舞台は、明治40年前後頃の北海道。マッカリヌプリ(羊蹄山)山麓の農場で展開される2日間のドラマは、かつて〈有島農場〉であった実際の清算事務をモデルにしているとされています。ですから、勢い、そこに登場する〈父〉という老人は有島の父・武(たけし)、そして、その息子である〈彼れ〉がが作者・武郎自身なのだと考えられて来ました。 「おい早田」 病的なまでに細心で、猜疑心の強い老人。〈父〉のこうしたアクの強い性格は、これ以外にも、作品の随所で強調されています。 ここで、有島武のプロフィールに少し触れておきましょう。 有島武は、薩摩の貧しい下級士族の家に生まれました。しかも少年期には父親がお家騒動に巻き込まれ、遠島に処せられたので、武は母1人子1人の家庭で、あらゆる辛酸をなめながら育ちました。幕末、16〜7歳で単身江戸に上った後は、独り苦学した末、明治8年に、ようやく実力を認められて官途に就くことに成功しました。その意味では、典型的な明治の〈立身出世〉型の人物だったのですが、その当時は若く、また正直過ぎて、ずいぶん他人には苦汁を呑まされる事も多かったとのこと。その結果、「人に欺かれない為めに、人に対して寛容でない、偏狭な所があつた」(同上)と、武郎は語っています。 そうした実人生の教訓からか、それとも〈薩摩隼人〉の伝統に則(のっと)ったのか、武の、長男・武郎に対する教育は、極端に厳しい〈スパルタ式〉だったそうです。武郎は冬でも早く起こされ、早朝から剣道や乗馬の稽古。まだ幼い頃から、父の前では、膝をくずす事さえ許されなかったそうです。 また、武には、いわゆる癇性(かんしょう)な所がありました。ある日、武が来客と応対していた時の事ですが、5歳の武郎は、ちょっとした茶目っ気から、父親たちを笑わせようと、縁側の障子の向こう側で、踊りを踊ってみせました。武は、いつ止(や)めるのかとイライラしていたのでしょうが、武郎はずっと踊り続けていました。それでとうとう、武は癇癪を起こし、武郎をつかまえると、思い切り庭の叢竹の根元にたたきつけたといいます。 でも、こうした教育法は、武郎にはよほど適わなかったのでしょう。武郎の日記の言葉によると、小さい頃はいつも父親にビクビクして、父に「此(この)児為すなし(この子はどうしようもないな)」とまで言われていたそうです(明治30年6月20日の日記)。 このようなコンプレックスが、彼の少年期にも影を落としたのでしょうか。有島の創作童話は、主に彼自身の思い出に基づいて書かれたものですが、その主人公像は、自分の卑怯さや心弱さを密かに悩む、内向的な少年という設定がほとんどです。 幼児期の厳しすぎる教育、暖かい愛情の欠如、過剰な自己規制、etc.... 。このような言葉で整理してゆくと、有島武郎の人生は、意外にもきわめて現代的な〈傷ついた子供〉(例えば“アダルト・チャイルド”など)の典型であるかのとさえ思われて来ます。 |
ところが、それとは別に、他の人の視線を通して見た“有島武郎の(いる)記憶”というものも、当然存在します。そしてそれらは、武郎自身の語る回想とは、なぜか、かなり印象が異なっているのです。 例えば、武郎の二人目の弟・佐藤隆三(※父方の祖母の姓を継ぐ)の思い出はこうです。武郎が満15〜6歳頃のことです。 明治二十六年、父が持前の癇癪玉を破裂させて、大蔵省国債局長の椅子を擲(なげう)ち、憤然として鎌倉材木座の茅屋に隠棲して仕舞つた。(中略) 春休みや夏休みになると、東京の武郎がやつて来た。長兄が来ると、父はいつでも機嫌がよく、武郎を相手に談笑した。武郎は父と話をしない時は、学校の復習をしたり、絵を描いたりして居た。(中略)絵に飽きるといふことは殆どなかつたやうに見えたが、私達は絵が二三枚書きあがると、きまつて話をしてくれとせがんできかなかつた。
弟たちには、学習院の寮から武郎が帰って来た時の方が、居ない時よりもはるかに家庭が楽しく、また、父親も機嫌よくしているように見えたようです。というより、弟たちからすれば、最も気むずかしい時期の父親と始終一緒にいなければならなかったのはむしろ自分たちの方であって、兄の武郎だけが〈外〉から訪れて、自分たちを重い気分から救ってくれると感じていたのではないでしょうか。 また実際、有島家の七人きょうだいの中でも、武郎ほど自家と縁が薄かった子供は他にいません。 まず、5歳頃からは、英語を身につけるためにアメリカ人牧師の家やミッションスクールへと通い、日中はそこで過ごすようになります。9歳からは学習院の寄宿舎生活。週末と学期休みしか帰宅しない生活となりました。16歳の時に寄宿舎は地震で倒壊してしまいますが、家には帰らず、教師の一人・白鳥庫吉の私塾に起居するようになりました。17歳前後には健康を害しますが、それをきっかけに転地を決意し、18歳の年に札幌農学校に入学。それからはずっと北海道で過ごし、25歳でアメリカ留学。29歳で帰国するとすぐに、東北帝国大学農科大学(札幌農学校の後身)で大学の講師……。 こんな風にたどってゆくと、結局、一日中を家庭で過ごしていた期間は、30歳までの間に、せいぜい5年と、病気の時のプラスアルファのみ。“ものごころがつくまでの時期”を差分として考えると、それよりもっと短いのではないでしょうか。 もちろん、長男としての別扱いは、青年期になってもずっと変わらず受けていたでしょう。しかし、両親からの圧迫をまともに受けていただろう時期は、意外に短いものだったと言わざるを得ません。 それに、父・武は、息子の進路については寛容だったので、家を離れる事はまったく反対しませんでした。北海道へ行きたいと言った時も、海外留学の時も、かえって、喜んで励ましさえしてくれたようです。 それに武郎にはもう一人、同居していた母方の祖母の存在がありました。厳しかった両親にかわって、幼い頃からずっと、武郎に愛情を注いでくれた人です。 こんな風にして休暇を終つて、東京へ帰つてゆく兄を見送る為めに、一家総動員で、停車場へ送つて行つた。武郎が帰つて仕舞ふと、再び元の陰惨な空気の中に、其次ぎの兄の休みが来るのを、一日も早くと祈る心で待つた。 幼い頃の厳しすぎる教育の記憶は、確かに、武郎にとって、辛く苦しいものだったでしょう。しかしそれは、現代の青少年が、孤立した少子化核家族で親からの精神虐待を一方的に受けるといった経験とは、まったく性質を異にしていました。まして、〈親と子〉という閉ざされた人間関係の中で親との精神分離がうまくいかず、自立が疎外された、というケースでもありません。 家は窮屈かも知れないが、縛りつけられていたわけではない。たまの帰省の時も、きょうだいが待ちかねたように“お兄さん、お兄さん”と慕ってきてくれる。親はおおむね機嫌がよく、祖母にも優しくされる。 |
また、幼な友だちには、こんな回想さえあります。 有島君は常に餓鬼(がき)大将でいたづらもすれば乱暴も働くと云ふ訳で実に快活に暮(くら)して居たものです。(中略)仲間の間に『錬磨会』と云ふのを組織し、有島君自ら会長となつて牛耳をとつて威張つて居たものです。併(しか)し極めて情に脆(もろ)い性質で友達に対しては実に親切でした。 これは、武郎が6歳から9歳頃までの、横浜に住んでいた頃の話です。あまり歳も離れることなく、どんどん下にきょうだいが増えていた武郎が、小さい子たちの先にたって遊ぶ事の苦手なはずはなかったでしょう。友人の回想からは、元気で、感情も豊かな、ワンパク少年の姿が浮かんできます。 ところが、そんな時代の事さえも、いったん、有島自身のストーリーの中で〈変換〉されると、俄然、色合いが変わってしまう。「僕はかはいゝ顔はしてゐたかも知れないが、體も心も弱い子でした。その上臆病者で、云ひたいことも言はずにすますやうな質でした。だからあんまり人からは、かはいがられなかつたし、友達もない方でした」(『一房の葡萄』)という事になってしまうのです。 有島武郎の自意識と、第三者から見た〈事実〉との間には、通常の作家のそれよりもはるかに深い溝があります。それは、単に、“人それぞれ視点が違うから”では片づけられない、一方を認めれば他方は成立しないのではないかとさえ思われるほどの懸隔です。そして、歴代の有島研究者も皆、その前に、いったんは立ちすくまざるを得ませんでした。 有島武郎に引きつけられすぎずに、その作品を、多様な方面から捉え返すには、どうしたらよいだろうか? 〈父親と息子〉という立場は、固定的なものではありません。“息子として”の有島像もあれば、“父として”の有島像も同時に存在します。新しい世代が生まれるたびに、合わせ鏡の像のように無限に反転してゆく〈関係〉を通して、有島武郎を見直してみたならば、あるいは、まったく別のパースペクティブが開けてくるかも知れません。 そんな漠然とした目算をたよりに、私は、幾つかの作品をたどり直してみることにしたのでした。 |
【注釈】
注1 佐藤隆三「わが兄弟たち─武郎、生馬、弓享─」(『文芸春秋』1937・9)
近代文学資料『有島武郎 中』山田昭夫・内田満共編(桜楓社 1975年)311〜312p
注2 佐山英男「少年時代の有嶋君」(『文化生活』大正12年9月)
上杉省和『有島武郎 ─人とその小説世界─』(明治書院 1985年)14pより