〈親子〉の距離 ─〈父〉と〈息子〉と有島武郎─

Written by 銀の星 (2004/01/28 書き下ろし)


1.はじめに 
(1)“遊ばない”有島武郎  (2)〈有島武郎〉の枠組み



※本論における有島武郎の文章は、特に注釈のない限り、『有島武郎全集』(筑摩書房 1979-1988年)からの引用です。

1.はじめに

 それでは、今回、迷い込んでみる小径は──。  
 〈白樺派〉の中では最も年上の、有島武郎の作品世界です。

 子供の頃は横浜の居留地で。学生時代は学習院のほか、札幌農学校やアメリカの大学で学びました。そして、帰国してからも、しばらくの間は、北海道に居を構えていました。
 創作にもその経験は生かされていて、作品の舞台は東京近辺だけでなく、アメリカや北海道、外国客船の上など、バラエティに富んでいます。『白樺』の他の同人たちに比べても、際だってユニークな背景を持つ作家と言えるかも知れません。


(1)“遊ばない”有島武郎

 しかし私が気になるのは、有島武郎は、ほとんど唯一、“遊ばない白樺派”だという事です。

 実際、有島武郎に関しては、自己回想も他人の追憶も含めて、遊んでいるシーンが極端に少ないのです。せいぜい、農学校時代に学友と大いに語り合った、という思い出話がある程度。“思い切り破目をはずして、こんな事をしてしまった”という話題がありません。留学生だった頃にもないようです。

 それだけではありません、およそ、『白樺』初期に同人だった人で、仲間としゃべり歩きをした事がないというのは、有島武郎をおいては他にいないでしょう。彼はそれだけ、『白樺』の日常からは遠い存在でした。〈編輯室より〉のコーナーにおいても「有島」とあれば、それは有島壬生馬(みぶま)(=生馬)を指していると考えて十中八九間違いありません。 武郎の事は、〈北海道の武郎〉のように、注釈付きなのです。

 年長組の志賀から見ても5歳上という、年齢差の事もあったでしょう。『白樺』創刊前後の頃は主に北海道にいた、という地理的な問題もあったでしょう。
 でも、単純に年齢だけで言えば、有島武郎の次に年長の正親町公和(おおぎまち・きんかず)と最年少の郡虎彦(こおり・とらひこ)の間も、年齢差は9歳もあります。でも、互いに〈オーギ〉〈郡〉、〈君〉〈僕〉で済んでしまう。他の同人同士もおなじです。いわゆる〈先輩・後輩〉という意識がほとんど無いのが、白樺派の世界です。
 また、有島家にだけ限ってみても、ここはまた当時としては、ずば抜けてリベラルな家庭だったよう。男の子も女の子も、上も下もへだてなく、〈壬生(みぶ)ちゃん〉〈英ちゃん(英夫=里見 弓享の本名)〉〈愛ちゃん〉と、“ちゃん付け”で呼び合うので、友だちにも珍しがられたそうです。

 それなのに、なぜか有島武郎に対しては、皆、誰に強いられたわけでもなく、“〈武郎さん〉と呼ばなくては”という特別な意識を持ったらしいのです。同人たちも、弟妹もです。北海道に泊まりに行こうと、何日間かおしゃべりしようと、やはり、〈武郎さん〉は〈武郎さん〉。大人と子供だから、というのではなく、互いに大人同士という年齢になっても、その関係意識は変わらなかったようです。

 呼び捨てにも、“ちゃん”付けにも出来ない、その人独自のパーソナリティの中にある何か。それは一体なんだろう?…そんな事が、以前から、私には気になっていたのでした。



(2)〈有島武郎〉の枠組み

 それともう一つ。昨年、釧路の大学での授業のため、テーマを有島武郎に絞ったのですが、その有島武郎が、学生にまったく人気がなかったのです。受講生もいつもの半数以下。「有島武郎というと、どんな印象を持っていますか?」と聞くと、全員から、即座に「暗い!」という答えが返って来る有様でした。
 他の白樺派や宮沢賢治を主題にした時とは反応が全然違ったので、北海道の学生なら(もちろん、東北地方などからも入って来る人は多いのですが)有島作品に多少は親しんでいるだろうと予想していた私は、すっかり面食らったのでした。

 でも、学生さんの話を聞くと、無理もありませんでした。私の集中講義が入る前に、そこの先生のどなたかが授業の一部で有島武郎を取り扱ったのですが、それは、ある意味できわめて従来的に、作品のテーマや思想と、“有島自身が書き記している彼の苦悩”とをストレートに結びつける方法だったらしいのです。(ちなみに、作品は「生れ出づる悩み」だったようです。)

 確かに、研究の進め方も、国語教材としての〈読み〉の指導にしても、従来はそうした方法が主流でした。

 しかし、作品等に表されている有島の自意識を通して見た場合と、他の視点から見た場合とでは、その時の状況の捉え方などに差が出る場合がしばしばあります。単に、人それぞれでものの見方が違うという以上に、両方をつきあわせると〈客観性〉という事に関してデリケートな問題が生じてしまうような、不思議な齟齬です。
 こうした点は、過去の研究でも、すでに指摘はされていました。ただ、今までは、最後は“有島の思想的先見性”や“鋭い感受性”の方が中心化され、矛盾点もそちらの方に回収されてしまっていたので、あまり結論が破綻する事はありませんでした。

 でも、そうした方法では、読み手は、いったん有島の世界観にひきずられたが最後、抜け出す事も客観化する事も出来ません。しかも、最後には、彼の自死という〈結末〉が待っています。
 現在は、本当はもうすでに、〈有島の思想とは一体なんだったのか〉〈彼の思想に先見性があると思われたのは、一体、どのような理由でだったのか〉等、様々な事をもう一度問い直さなければならない時代に来ているのだと思われます。しかし未だに、“苦悩の末の悲劇的な死”から遡って作品を意味づける事が、まるで〈読み〉の常道のように指導されているのが、変わらぬ現状のようです。それでは、若い人たちが食傷しても仕方がありません。

 有島武郎に引きつけられすぎずに、その作品を捉え返して見るためには、どんな視点に立ってみたらよいだろう?
 授業の前から、そうした事は漠然と頭にあったのですが、有島がまるで、学生たちからダークサイドの住人のように敬遠されているのを知って、自分の気持ちは決まりました。
 本当は、苦悩でがんじがらめになる前に、そこから抜け出したかったのは、有島自身だったかも知れないのに…。文学史的肖像画に嵌め込まれている〈有島武郎〉を、何とかそこから引き出せないだろうか。

 ただ、考えただけの事を全て授業に盛り込めれば良いのですが、やはり、限られた時間の中で端折ったところもあります。逆に、テキストを学生と読み込んでいく過程では色々楽しい箇所もあったけれども、流れから見れば余談、という場合もあります。それでも、自分にとって、今、可能な有島武郎の読みは精一杯でここまでなのだ、ということを確認したくて、文章をまとめてみることにしました。その意味では、これは、授業記録というよりも、授業をきっかけに編んだ、いわば番外編といった方がよいでしょう。