心のスナップショット
─石川啄木と同世代の青年たち─

by  銀の星(Original:2003/05/10  改稿:2003/06/24)

※本論における石川啄木の文章・詩歌の引用は、主に下の二つに依拠しています。
 明治文学全集52『石川啄木集』(筑摩書房 1970年)…〈明治文学全集52〉と略記
 日本詩人全集8『石川啄木』(新潮社 1966年)…〈日本詩人全集8〉と略記
 それ以外は、当時の雑誌掲載本文からの引用です。

【1.はじめに】
 釧路にて─〈啄木〉の思い出

1.はじめに】
 釧路にて─〈啄木〉の思い出

 これまで私は、石川啄木については、研究らしい研究をしたことがありませんでした。そんな私が、今年91回目の啄木忌を機に、啄木について何かを書くというのも、不思議な気がいたします。
 それでも、啄木は、私の研究テーマである〈白樺派〉と同時代人ということで、一度はよく知っておかねばならないと、ずっと心にかかっていました。

 それに、これは私事ですが、私も、かつて啄木と、というより啄木の任地とささやかな接点を持った事が1度だけあります。それは、15年ほど前に、高校の教師として、釧路に2年間赴任した時のことです。私にとっての啄木のイメージは、あの頃の思い出が原点となっています。

 本論では、そうした話も交えながら、全体としては、〈外側から見た啄木〉について、少し素描してゆきたいと思います。同時代の若者から見た啄木像とはどのようなものだったのか、また、その時代の中で、啄木とはどのような存在だったのか。またその際、視点のありかを定めるために、同時代の青少年読者層の一つの典型として、プレ・白樺派(『白樺』創刊以前の同人)の人々について触れながら、話を進めてゆこうと思っております。

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 さて、それではまず、釧路時代の思い出について……。
 実は、私が初めて故郷を離れて、よその土地で就職する決心を後押ししてくれたのは、〈啄木〉だったのです。

 私は、小さい頃からずっと、北海道の空知地方(札幌より少し北)で育ってきました。ところが、高校教師として採用が決まった時、道庁に呼ばれたので行きましたところ、思いがけず、任地は〈釧路〉だと言い渡されたのです。
 その時は、ほんの少しの間ですが、茫然として、それから不安になりました。それまで、道東方面については、何一つイメージを持っていなかったからです。

 そんな最中(さなか)にふと思い浮かんだのが、〈釧路は啄木が行ったところ〉だということです。

 啄木といえば、小学生ぐらいから、図書室で「一握の砂」や「雲は天才である」をめくってみたりして、名前にだけは割合に親しんでいました。それに、子供の頃には、何度か小樽に遊びにいきましたし、また札幌に女子大生として通っていた時には、札幌の住居跡や大通りの歌碑の場所なども、少しずつ心にとめるようになりました。
 それから、大学の友だちと、夏休みに函館にいった事もあります。みな国文科でしたし、友人たちはそれなりの文学少女でしたから、もちろんみんなで、啄木ゆかりの立待岬にも行きました。函館山の夜景観光の時には、バスのルートの途中に青柳町があり、ガイドさんが上手に啄木の歌を織り込みながら、当時のエピソードを紹介してくれました。

 ……こんな風に、知らず知らずとはいえ、これまで啄木に縁のある場所にはほとんど行っている。とすれば、今度は、釧路にいってみるのもいいかも知れない……。
 今から考えると、実に安易な発想です。でも、そう考えただけで、知らない土地にゆくという不安が薄れ、楽しみな気分にさえなったのですから、これはまったく、啄木のおかげだったと言えましょう。

 そして事実、釧路にようやく少し慣れた頃、最初の“一人歩き”で真っ先にチャレンジしたのも、〈啄木の歌碑の所まで行ってみる〉という事だったのです。

 私の勤め先は、釧路市内ではなく、釧路湿原の南端近くにありました。

 私が住んだ頃には、学校周辺の住宅地の造成は相当進んでいましたが、家は建ち切っておらず、空き地も結構目につきました。
 なにせ、その5〜6年前には、まだ丹頂鶴が高校の近くに巣をかけていて、その様子をビデオに撮って記録した生物部が、全国大会で文部大臣賞だか総理大臣賞を受賞したという、それくらい奥まったところだったのです。市内へのバスなど、通学時間をのぞいては、1時間に1本しかありません。自動車を持っていなければ、普段は、近場のマーケットですべての用を足すほかはありませんでした。
 そんなわけで、新米教師の私にとっては、一人でバスにのって不案内な町にゆくこと自体、ちょっとした冒険だったのです。

 それだけに、駅前でバスを降り、地図を見ながら一人でテクテク坂を上って、米町公園の歌碑を探し当てた時には、何ともいえない爽快な感動がありました。開けた視界の下には釧路港が広がり、空は広々と明るくて、“さいはてのさびしき町”という感じは、少しもしませんでした。
(写真左・米町公園の啄木歌碑「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」  写真下・米町公園から望んだ釧路港  ともに筆者撮影)

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 この、啄木との感覚のギャップ。それは、当時がいわゆるバブル期で、釧路が一番にぎやかな時代だったから、という事もあったと思います。
 でも、これは自分で住んでみた経験からわかるのですが、啄木は、釧路には、季節的に最も悪い時期にしか滞在しなかったわけです。「釧路は寒い処であった。然り、唯寒い処であった」と彼は書いていますが、それはもう、1月下旬のこれから一番凍(しば)れるという時に来て、まだ草の芽も出ない頃の4月初旬には出てしまったのですから、良い印象を持ちようもなかったことでしょう。

 「釧路は、冬のあと秋が来て、秋が来て、また秋が来て、冬が来るんだよ」と、地元出身の同僚の先生が冗談まじりに言っていましたが、あながちウソではありません。でも、そんな四季(二季?)の中でも、一番過ごしやすいのは、ホントウの秋から冬の初めまでです。

 春が来るのは、実に遅い。なにせ赴任した最初の年、ゴールデンウィーク近くなっても校庭の木が芽吹かないので、だんだん不安になり、ここの木は全部枯れているんじゃないかと心配したくらいです。さすがに5月も半ば過ぎると、ようやく少しずつ緑の芽が見えてきて、一安心しましたが…。
 また、夏は夏で低温続き。気温が20度を超すことはめったになく、空はいつもドンヨリとして、霧と湿気に悩まされます。それに生徒から、「先生、入道雲って見たことある〜?私今までに一度しか見たことないよ」と言われた時には、かなりビックリしました。いかに北海道とはいえ、他の地域は、夏はそれなりに暑くなるもの。生まれて17、8年ものあいだ、入道雲を見ないで育つなどという土地は、釧路をおいては、まず無いでしょう。
 ところが、8月の半ば過ぎに秋が訪れると、これが一転します。空はカラッと晴れ、気候は暑からず寒からず、爽やかな天気が続きます。そうなると、街の表情はまるで別世界のよう。サンマの水揚げ、鮭の遡上と、海の幸に恵まれるのもこの頃です。
 こうした気候のサイクルそのものは、近年も、明治時代も、そう大きく違うものではないでしょう。

 ですから、もし啄木が、ほんの少し辛抱して釧路に秋頃までいれば、町に対する印象も、ずいぶん変わったはずなのです。
 また、同じイヤになるにしても、春の肌寒さや夏の霧がどうにも耐えられなかったというのが理由なら、もちろん、同情するにやぶさかではありません。
 ところが、寒いのは前もって百も承知のはずの道東に、それも、漁港に活気があるハズのない厳寒期に来たのに、ほんの2ヶ月ちょっとで“寒いし、土地の雰囲気にも閉口”という感じで飛び出すのですから……。
 そもそも、彼は、北海道では、春・夏にかけて住んだ函館を除けば、札幌にしろ小樽にしろ、あまりいい季節に居たわけではありません。しかも、いい季節の訪れや、自分がその土地になじんで来るのを待つ前に、すぐ勤め先がいやになってやめてしまう。〈短気は損気〉の典型という気がします。

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 ところが、啄木の方はちっともいい印象を持たなかったにもかかわらず、その釧路で〈啄木〉といえば、これまた本当に、土地の人々の意識と暮らしの中に、すっかりと溶け込んでいたのです。

 例えば、〈しゃも寅〉は、啄木が贔屓(ひいき)にした芸者・小奴(こやっこ)が出ていた事で知られる料亭。そして、その井戸もまた、地元では名水で評判でした。そうした事は、同僚の先生が、昼休みのおしゃべりの時に、“そこによく水を汲みにゆくよ”と教えてくれたのです。
 それに、私の住んでいた所の近くにも、その水を使っている事を自慢にして、「しゃも寅コーヒー」の看板をかかげている喫茶店がありました。そのお店の店内のハリガミにワンポイントであしらわれていたのは、やはり、啄木のシルエットです。

 それから、面白かったのが、職員室で雑談していて、話題が啄木に及んだ時のこと。地元出身の先生が、「啄木って、えらい借金してまわった男だったんだよ。あっちこっちで借金踏み倒して、すごく評判悪かったんだって。近所の人が言っていた」と教えてくれたのですが、その言いかたが、まるで、ついこの間まで、近くに住んでいた人の噂をするようでした。また、私は、啄木がそういう点で“悪名高い”人だったことを、その時初めて知ったわけです。

 さらに思い出深いのは、赴任2年目の時のことです。その年は、女の先生たちだけで毎月お金を積み立て、“いつかみんなで素敵なお店にお昼に行こう”という話になっていたのですが、それで、ある秋の日に連れて行ってもらったのが、かの「しゃも寅」のお座敷でした。これももちろん、啄木ゆかりの料亭ということで、その場所が選ばれたのです。格式のある老舗の料亭らしく、ランチも上品なつくりの松花堂弁当で、とてもおいしくいただいたことを憶えています。
(※これは私の記憶違いです。行ったのは料亭「八浪(やつなみ)」でした。ただ、こちらの方も、釧路の〈武富私道(たけとみしどう)〉というかつての料亭通りの中では、一、二を争うほど繁盛した店だったそうです。啄木がこの店近辺によく訪れていたことも、彼の日記からわかります。八浪の二階大広間から見る釧路港は絶景だったそうですが、残念なことに平成8年に廃業され、建物も解体されてしまいました。──2005年12月訂正)

 このように、私の釧路での楽しい思い出のシーンには、少なからず、啄木の存在が関わっていた気がします。

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 ここ3〜4年、また縁あって、年に1度ほど釧路に行くのですが、あの頃の賑わいはすっかり影をひそめました。駅前の北大通(きたおおどおり)にも、シャッターを閉めた店が目立ちます。
 何でも、今は、以前私が住んでいた近くに大型スーパーが幾つも進出し、人口も増え、活気はすっかりそちらの方に移ってしまったとのこと。去年聞いたところでは、あの料亭〈しゃも寅〉ももう店じまいし、井戸もふさいでしまったということでした。最近の方が、文字通り、「さびしき町にあゆみ入りにき」という感じになってしまったのは、本当に残念なことです。

(※写真画像の無断複写・転載禁止)