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白樺派の休日〈演劇編〉

written by 銀の星(オリジナル '04/03/12 改訂書き下ろし '04/04/12)

はじめに
1.白樺派の〈隠し芸大会〉

2.〈バンドマン一座〉と〈ゲーテ座〉
1) 東洋めぐりの〈バンドマン〉 2) 〈ゲーテ座〉と園池公致の「驢馬」
3) 居留地への橋を越えて
3.浅草芝居にも紛れ込み
4.〈東京〉の芝居について
5.変わる歌舞伎界
1) 〈お役者〉から〈俳優〉へ  2) 熱心な青年観客  3) 〈自由劇場〉誕生の声
6.〈文芸協会〉と白樺派
1) 里見・園池コンビの「低級批評」 2) 東儀鉄笛との不思議な縁
7.学習院での大芝居
1) スパイドラマ・〈ブクワン事件〉 2) 志賀直哉作のエンターテインメント
8.変化の波の出会うところで

 

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・はじめに

 さて、今回、迷い込んでみる小径は…。

 気がつくと、目の前を、若者が二人歩いています。あたりを見回すと、まるで西洋の街並みみたいですが、この二人は日本人。そのせいか、彼らと行き会ったり、追い越したりする西洋人たちは、みな、怪訝(けげん)そうにふり返っています。

 でも、二人は平気なもの。そのうち、賑やかな声が聞こえてくるレンガ作りの建物の前に来ると、嬉しそうに顔を見合わせて、ふいっとその中に入ってしまいました。続いて、上着のポケットに手を突っ込んだ西洋青年も、スカートを軽くつまみ上げたレディたちも、どんどんと入ってゆきます。ここでは一体、なにがはじまっているんでしょう…?
 不思議の国のアリスになった気分で、ドアを開けてのぞいてみると、そこは…?

* * * * * * * * * *

 …と、ここから先は、本編を読んでのお楽しみ。
 私は今、また、白樺派の人たちに思いがけず色々なところへ連れて行ってもらったような、愉快な気分にひたっているところです。ある時は開港地ヨコハマ、またある時は浅草の下町。かと思うと、歌舞伎座の楽屋、そして帝国劇場、etc…。
 さらにワクワクするのは、後の世で有名になる人の、若い頃の姿にも出会えること。今回は、明治・大正期にエポックを築いた俳優や演出家の名前が続々登場です。

 白樺派とは無縁でしょう、って?実は、〈お芝居〉の世界と『白樺』同人とは、あちこちにつながりがあるのです。色んな事がわかってくると、〈明治〉という時代そのものがガラリと変わって見えてくるかも知れません。
 なにせ、彼ら自身がお芝居を…っと、この話題は、一番あとまでとっておきましょう。どうぞ、このたびも、ささやかな時代散策をお楽しみ下さい。

(本編は、白樺文学館における講座「面白白樺倶楽部」の発表原稿を基に、改稿・再構成した論考です。)

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1.白樺派の〈隠し芸大会〉

 皆さんは、〈白樺派〉というと、どんなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。
 文学者、文筆家…画家…それとも文化人?あるいは、もっと古風に、〈文人〉といった感じかも知れません。
 確かに、志賀直哉と芸術家たちとの交流や、柳宗悦の民藝館活動等のエピソードには、文化人らしい雰囲気があります。また、武者小路実篤晩年の、あの書画三昧の生き方も、〈文人〉という言葉にふさわしい気がします。
 その上、彼らの母校は、戦前の〈学習院〉。華族階級と資産家の子弟が集まった、日本唯一の、特別な学校でした。そう考えるとなおさらに、彼らは、今では想像もつかない、上品で優雅な、ハイ・ソサエティの教養を身につけていたようにも思えてしまうかも知れません。

 ところが。
 確かに、彼らの若い頃の生活は、私たちには〈想像もつかない〉ところがあります。しかし、その〈想像もつかない〉という点が、多分、今、皆さんが考えていらっしゃるニュアンスとは全く違うのです。
 今回は、そうした彼らの〈意外性〉を、“普段の生活”の回想を通してご紹介してゆきます。

* * * * * * * * * *



 それでは、まず、〈白樺派の隠し芸〉から話を始めましょう。

 明治44年9月16日、白樺同人は、画家で友だちの九里四郎が、フランスにゆくのを送るため、送別会を開く事にしました。会場は柳宗悦の家。同人のほぼ全員、14名ほどが集まったといいます。

 そこで始まったのが、何と、隠し芸大会!九里のために、皆それぞれ得意の隠し芸を披露したのです。

○九里の送別会が柳の家で開かれた。同人が十四人ばかり集つた。身丈の順に竝(なら)んだら雨村(うそん、田中雨村)が一番で鴨居に鼻をブツケる位だつた、次は細川(細川護立)の筈だが居ないので志賀が竝んだ。最後は萱野(萱野二十一=郡虎彦)でその前が里見(里見 弓享)だつた。

○白樺一流の遊が始まつて、萱野のボーカルソロ、仁木(仁木辰夫=三浦直介)の鼻毛抜きの芸当、九里の義太夫、吉例に依つて雨村の歌沢秋の夜なぞが演じられた。これ等は何処に出しても恥かしからぬ芸である、興行師は志賀(志賀直哉)で「サア今度は雨村」と一人々々をおだてゝ居る。(中略)

○バンドマンで見た喜劇役者の、仕草を九里がして後ろで里見が白(せりふ)を云ふ西洋の生きた人形芝居のやうな芸。児島(児島喜久雄)のハムレツトの亡霊「仇うつことを忘るなよググ………」なぞ当時を思ひ出す程真に迫つて居た。それから柳(柳宗悦)のクラリオネット、萱野の謡曲、木下(木下利玄)の芝翫(しがん)の声色なぞがあつた。有島(有島壬生馬)に仏蘭西の鼻歌と云ふ注文があつたがとう/\出なかつた。芸がない者は興行師から目を付けられる恐れがなく安心し切つて見物して居た。
(皮肉な隠居)(=園池公致)

(「編輯室にて」 『白樺』Vol.2 No.10 明治44年10月)

 まず、どんな出し物があったのか、あらためてざっと見てゆきましょう。
 萱野二十一こと郡虎彦は、白樺同人の中の最年少で体格も一番ミニ。でも彼は、彼は、プロにこそなりませんでしたが、オペラのボーカリストとしては非常に優秀でした。〈ボーカルソロ〉というのはその事です。
 それから、柳宗悦の出し物は、クラリネットの演奏。こうしたものは、確かに、当時としては、ハイソサエティ的な趣味と言えるでしょう。

 でも、その他には、一見しただけではわからないものがたくさんあります。〈バンドマンで見た喜劇役者の〉云々とか、〈木下の芝翫(しかん)の声色〉とか…。
 また他にも、──“鼻毛抜きの芸”というのも話せば面白いのですが、いずれ後の機会に譲るとして──〈九里四郎の義太夫〉・〈田中雨村の歌沢(※小唄・端唄の一種)〉・〈萱野の謡曲〉など、あまりモダンともハイカラとも呼べないような芸がたくさん出て来ます。これらがいちどきに披露されたなんて…?何か、今流行りのメディアミックスとでもいったらいいのでしょうか。

 しかも、志賀直哉の役どころがまた面白い。

○当日一番ずるいのは志賀だつた、平素から人をおだてゝ何かやらせる一種の魔力を持つてゐる、此の日も「己は興行師だ」などゝと云つては一つ済む毎に今度は誰れ今度は誰れと一々おだてをくれてはやらせてゐる、どんな渋つたのも此のおだてには大方乗る所が面白い、先天的に興行師に出来上つてゐる、その代りとんと芸がない。芸がないから又安心して興行師としての職分を全ふして行かれるのである。
(言念)(日下 言念(くさか・しん)=正親町実慶)

 これを見ると、志賀直哉は随分ノッていますね。彼の様子については、園池公致も、先の引用で同様に書いています。「サア今度は雨村」とか何とか声かけをしながら、率先してみんなをおだてて、芸をやらせている…なんて、小説から感じられる志賀直哉像とは、ずいぶん違うと思われませんか?

○かくし芸が始まると内心胸をどきつかせる種類の人と安心してぐつと納まつてゐる無芸の人と二ツある、萱野や雨村などは前者の方で武者(武者小路実篤)や志賀は後者に属するものである、然し武者は愈々(いよいよ)となれば五本の指をモジヤ/\させて骨の音を聞かせる位の芸はやる。
 まあこんな工合(ぐあい)で九里の送別会も面白く、午後の二時半頃から夜の十一時半頃迄賑やかに続いた。
(言念)

 こちらも日下の記事です。しかしこれを見ると、武者小路は指の骨鳴らしだけ…。さてこれが芸と言えるのかどうか… A(-_-;)

 それにしても、まだ他にもおしゃべりなどがあったとは言え、送別会がこんなハイテンションで、昼の2時半から夜の11時半まで、丸9時間も続いたのだからすごい! しかも、途中で場所も移していないのです。
 そして、この賑やかさこそ、まさしく、〈白樺派〉たちの二十代の一面でした。志賀直哉に「廿代一面」という小説がありますが、あれよりもっと賑やかです。しかも、表の活動としては、それぞれ「網走まで」や「剃刀」を執筆したとか、『お目出度き人』を出版したとか、白樺社としては〈ロダン展〉を行っていたとかいう、まさにその同時期の事なのです。

 もちろん私も、最初は、彼らのいわゆる〈表側〉の活動に興味をもったのです。でも、調べてゆくうちに、だんだん、友だちと一緒にいる時の白樺派の方に強く魅かれるようになりました。それはただ、楽しそうだから、というだけではありません。こうした何気ない遊びの思い出からでも、“それって何?”と思って調べてゆくと、そこから、今まで知らなかった明治・大正時代の展望が開けてくるからです。


★Next Topic is .....〈バンドマンで見た喜劇役者の〉云々という言葉の謎解きです。横浜・山手の居留地へ!

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