雄大にうねる釧路川に沿って
―中戸川吉二「兄弟とピストル泥棒」の旅―
by 銀の星(original : 2006/07/15 加筆改稿 : 2006/07/23)
【目次】
はじめに
1.中戸川吉二と「兄弟」
2.吉二の父と釧路
3.青年期、そして小説家として
4.文に表れた〈北海道〉
5.見知らぬ男
6.“好きになる”心
7.“ピストル”──“泥棒”
《関連ページ》 共鳴する空間 ─中戸川吉二と里見クの北海道/東京―
※中戸川吉二「兄弟とピストル泥棒」の引用は、新進作家叢書18 『イボタの蟲』(新潮社 大正8年・1919)によるものです。
※本稿に使用もしくは引用されている画像の無断複写・転載を禁じます。
今回は、道東の文学について、というテーマでお話しいたします。 だからこそ今回は、まったく視点を変えてみたいと思いました。紛れもなく釧路出身だけど、これまで、あまり注目されてこなかった作家をご紹介したい。それだけではなく、彼の目を通したら、〈釧路〉という空間が、これまでとは違って見えてくるかも知れない。もしかすると、明治・大正という時代だって、皆さんが今まで漠然と考えていたものとは全く違って見えて来るかも知れない。そんな可能性を秘めた作家として、今日は、皆さんに、中戸川吉二という小説家をご紹介したいと思います。 |
さて、中戸川吉二。一体、どんな作家だろう──ということで、まずは、実際に、彼の作品世界に触れてみましょう。作品のタイトルは、「兄弟とピストル泥棒」(大正6年(1917)作)です。 明治四十二年八月の下旬である。
朝はまだ早かつた。濃い霧がもや/\と釧路の街を包んでゐる。冷たい雫がぴた/\と兄弟の頬を撫でた。二人は、誰かに自分たちの気持を誇りたいやうな、新鮮な気分に勇気づいて歩いて行つた。 兄は、病気のために休学してゐて、そのまゝ廃めて了つたある専門学校の制服を、三年ぶりで着込んだためか書生らしい気持になつてゐる。学校を廃めてから始めた写真が、その頃だいぶ技術が上達してゐた。で、小形の写真器が商売人(くろうと)のやうに、しつくりと、彼のヒョロ長い體に似合つた。それに洋服のズボンのかくしにはもつとも大事な品が入れてあつた。六連発のピストルが一挺。――前の晩、父に強請(ねだ)つてやつと携帯をゆるされたものなのである。 いかがでしょうか?まず、〈明治四十二年〉という年代と、その頃の〈釧路〉地方、そして〈二十三歳と十四歳〉の兄弟が〈ピストル〉を持って旅にゆく、という設定のある種の飛躍に、まず驚かれるのではないでしょうか? もっとも、明治のこの頃までは、ピストルは比較的手に入れやすく、一般向けに広告なども普通に出ていたようです。このお話の1年後の明治43年に銃砲火薬取締法が出来るまでは、いわゆる“飛び道具”も刀剣法で取り締まられていたので、規制も緩やかだったのでしょう。郵便配達夫などは、ピストルを持つ事を義務づけられていたようです。護身用の短刀みたいなものだった、と考えればいいのかも知れません。 では、この兄弟は、なんのためにピストルを持つのか。この後の部分の会話に「きつとなんだぜ。一度位は熊に出会ふぜ」という言葉が出てきますから、ピストルの方は熊よけのために持つのだろう、という事がわかります。
この二人は誰で、いったいどんな家庭の子だろう?また、本当にそういう家庭が、その時代の釧路にあったのだろうか?色々な“はてな”が浮かび上がってくると思います。 実は、ここに出てくる〈弟〉が、中戸川吉二その人です。そして、この「兄弟とピストル泥棒」という作品は、実際に、吉二が数え十四歳の年に、兄と屈斜路湖に行った時の体験を基にして書かれた作品です。この作品を書いた時、彼は、満21歳でした。この作品が、小説家の里見クに認められ、それが処女作となって、小説家としてのデビューを果たしたのです。なお、言うまでもないかも知れませんが、里見クは、有島武郎の実の弟です。 |
そして、吉二たちの家庭にこれほど余裕があるのにも、ちゃんとした理由があります。実は、中戸川吉二の父は平太郎といって、釧路の草分けの代表的な一人なのです。それも、単純に、早い時期に入植した人というだけではありません。
かつて、現在の釧路市がある釧路川の河口付近は、先住民族の人たちさえ“住む”ことは出来なかった、果てしない湿地帯でした。住めるのは、少し高台になったところか、海岸の砂丘の近くだけ。特に釧路川の河畔などはひどい沼地で、馬のような四つ足の動物が脚を踏み込んだら、もう二度と上がって来られない、ほとんど底なし沼のような状態だったということです。 そんな土地に中戸川平太郎は渡って来て、まだ24〜5歳前後の若さで、開拓使から、現在“西幣舞”と呼ばれている湿地帯と、それに海岸付近の砂丘地帯、約十万坪の貸し付けを受けて開拓に踏み切ったのです。もちろん一人ではなく、13名ほどの小作人の協力を得ての開墾です。弟の浅吉という人も、後から事業に参加します。
今、釧路市の中心といえば、北大通から末広町・栄町・旭町など、大きく言えば西幣舞と言われている地域ですが、中戸川平太郎は、その中心部一帯をすべて開墾していったのです。 当時、他にも入植者がいなかったわけではありませんが、彼らは皆、丘陵地や、もう少し奥地の高度の高い場所を選びました。無論、そちらの方が家も建てやすく、開墾もしやすかったからです。 「中戸川さんは、ステーションは山手のほうにはできない、とみたんです。鉄道は札幌から石狩平野を経て、石狩と十勝の国境をこえ十勝平野にでる。釧路近くで海岸線となり、釧路から厚岸、根室にいたる。とすれば釧路では、釧路川をこえて山の手にはいるような、ばかな迂回はしない。きっと、川の北になる平地に、ステーションをもうける。すると、山の手の繁華街は一変して、平地のステーション近くにうつる。そのへんの土地十万坪を手に入れておけば、ステーションができ、商家がたちならぶことによって、大地主として収益をあげることができる。(後略)」 もっとも、いくらなんでも当初から、ただ茫々とした湿地しか見えない時に、中戸川平太郎がそこまで考えたかどうかは、眉唾のような気もしますが、結果的には、平太郎が整地・開墾したエリアの中に駅が出来、市の中心部となった事は事実です。そのおかげで、釧路は、道東では随一というほど、最も開けた大きな街になったのです。もし、あの低湿地が早めに整備されていなかったら、釧路は、要するに、平凡な漁港の町だったかも知れません。それ以前は、厚岸や根室の方がよほど開けていて、漁師など、住んでいる人も多かったということですから。そう考えると、中戸川平太郎は、あの街の基礎デザイナーだったという事が出来ますね。 * * * * * * * * つい、面白くて、中戸川平太郎の事を多く喋ってしまいましたが、これが、中戸川家が指折りの大地主になる基となったのですから、触れないわけにはいきません。やがて、平太郎はこの地で、白系ロシアの血をひいた女性を妻とし、そして吉二ら兄弟姉妹が生まれました。ただ、もともと神奈川の人なだけに、やはり冬の寒いのは苦手だったらしく、秋冬は東京で過ごすようになりました。そして妻子を、東京の方に住まわせたのです。だから、吉二きょうだいには、感覚が東京っ子的なところがあるのです。 なお、父・平太郎が、実業家としての才能に恵まれていたように、その子どもたちも、だいたいは早熟な秀才で、才能豊かだったようです。 ちなみに、「兄弟とピストル泥棒」の〈兄〉は、長男・秀一のことですが、彼はその後札幌農学校で学び、有島武郎の授業も受けたりしたのだそうです。そして、のちに一時農商務省にも勤務したほか、写真技術の先端をきわめ、日本で最初の水中写真家となったり、“水滴が落ちる瞬間”といった高度な科学写真の技術を開発したりしたそうです。ですから彼らは、決して、単なる、お道楽好きなお金持ちのおぼっちゃんたち、というわけではありませんでした。 【参考画像】
ただ、そんなきょうだいたちの中でも、吉二は、少し生い立ちも毛色も違っていました。彼は、数えの10歳から13歳までの3年間を、叔父さんの浅吉の養子として釧路で過ごしたのです。 ところが、その後まもなく、養父の浅吉が、数え43歳で胃ガンで亡くなってしまいました。明治41年の事です。 しかし、ちょうど〈子ども〉から〈少年〉へと成長する多感な時期に釧路で過ごした事は、他のきょうだいとはまったく違う感受性を、彼の中に育む結果になりました。その要因の一つは、彼が、牧場の馬や牧夫たちととても仲良くなったこと。そして、もっと大事なことは、彼が、大自然のまっただ中に自分の身をおき、広大な空間を全身で感ずる経験を持った事です。 学校の休みの日などは私はめつこ(※愛馬の名)に乗つて遠くへ走つた。わざと街道をはづし、草深い原野や海岸の砂浜を好んで走つた。来る日も来る日も馬の背中で日をすごした。日暮になつて、遠くへ来すぎたことに気づいて、あはてて馬を叔父のうちへ向ける時けるときなど、伸びた雑草が馬の腹にすれてざわざわと淋しい音を立てた。少年の日の感傷を私はしみじみ馬の背中で味つたのだ。 海岸の砂浜ははてしなくつづいてゐた。一日馬で走つてみてもまだ先は同じやうな砂浜であつた。(中略)トンケシ、ベツトマイ、オタノシケなどといふ、アイヌ名の淋しい漁師町がボツボツと二里ほどもつづき、そこでいつたん漁師の家もなくなるが、似たやうな砂浜ははてしなく先へつづいてゐた。二里をき、三里をいて、又、シヨロ、シラヌカ、オンベツといふ漁村もある。アツナイといふ村まで十二三里もあつたらうか。そこで釧路の国がつきる。それからは十勝の国だが、さすがに私も十勝から先へは行かなかつた。だが、十勝の海岸も似たやうな砂浜であらう。十勝を越え、日高の国にはいつても又似たやうな砂浜であらう。日高を越えると、もう函館へ近い。釧路から函館まで里程百何十里、砂浜を走りつづけて函館へ行きついたとて津軽海峡を馬で渡ることは出来なかつた。子供でもそれは知つてゐる。知つてゐながら東京の方向だと思ふ方へと馬を走らせてゐた……。 小樽近辺の海岸とは、また感覚が全然違いますね。とてつもない広大さです。そこを吉二少年は、いつも一人、まるでモンゴルの少年のように、馬で駆けつづけていたのですね。この浜辺を釧路から十勝、十勝から日高へとずっと駆けてゆけば、その遥か向こうが東京なのだ、と思いながら……。 |
さて、東京に戻ってからの吉二は、一時、釧路の事も北海道の事も忘れてしまったかのように過ごします。なぜなら、残念な事に、成長した彼は〈不良〉になってしまうからです。ちなみに〈不良〉とは、まさにこの大正前半期に誕生した言葉です。 個人的な原因も、もちろん、幾つか考えられます。一度は手放した息子なので可愛がられすぎたのだとか、なまじ、家にお金があったので、好き勝手が出来すぎたのだとか…。 でも、一つ、社会的な側面を言えば、この頃から、都会に〈カフェー〉とか〈レストラン〉とかいった、お洒落な、ちょっと一休みという感じで小金を持った若いお客がたむろしやすい場所が、どんどん増えた、という事が重要なポイントでした。
親はほとほと扱いに困り、性根をたたき直そうと、もう一度吉二を釧路の牧場に連れて行きます。でも、今度はいわば思春期ですし、そう静かに牧場におさまってはおりません。自分で自分がいやになった挙げ句に、釧路の海で自殺未遂を計ったり、そうかと思えば釧路の芸者に熱烈な恋をして、まだ満18歳か19歳くらいなのに、絶対結婚させてくれと言い出してみたり。そんなわけで、結局1年も経つか経たないかで、また東京に戻されてしまいました。寂しかった最初の釧路暮らしにも増して、この時の吉二の釧路滞在は、いい事がちっともなかったように見えます。 ただ、この時代の〈不良〉が今と違うのは、皆、結構、文学や芸術に関心が高かったことです。 しかし、彼らはまたその時代の子として、〈人生〉に深く切り込んだ作品や、真面目な表現の方に、一種の読みごたえや考え甲斐を感じていたようです。吉二が、永井荷風や志賀直哉・里見クといった人たちの小説に没頭し、また友だちからゴッホ・セザンヌ・ルノワールなどの話をきかされて興奮したのは、まさにこの不良時代の事でした。
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さて、ふたたび、「兄弟とピストル泥棒」の世界へと戻ってゆきましょう。 次第に〈不良〉であることの青臭さにも耐えられなくなり、聖書や、硬派な文学に惹かれるようになった吉二ですが、それでも、小説家になりたいと決心した時には、無意識にお手本としたのは大好きな里見クの作品でした。彼は、里見ばりの物語構成で、自己嫌悪や自意識過剰に悩む青年を描いたのです。いかにも、当時、東京の大学生などには沢山いそうなタイプです。 たとえば、私にとって印象が強いのは、次のようなシーンです。 兄弟はまもなく天寧(てんねる)といふ小さな市街に出た。そこは釧路川に沿つた、F製紙会社の分工場の存在のために生じた新開街であつた。四五丁ばかりではあるが、市街を通りぬけるまでの間街道一面にコークスが散らばつてゐて、彼らの草鞋の裏を通して湿つぽい荒々しい触感を伝へた。 【参考画像】
吉二が、釧路郊外の小さい市街の様子を、“足裏に感ずるコークスの感触”を通して描いたところです。道路にコークスが撒いてあるなんて、本州の道路の描写ではあったかどうか、まず思い当たりません。 また、こんな表現もあります。 やがて遠野といふ寂しい駅逓に着いた。(中略)
ふと、兄は立ちあがつて地面に下りて行つた。さうして、笑ひながらピストルをとり出して鶏を撃つまねをした。弟は、背中一杯にポカ/\する日光を浴びながら、腹這ひに寝そべつて兄の方をみてゐた。兄の、真ツ白い鳥打帽子と、ピストルとに鋭い光が反射してギラ/\と空中に銀色の炎が迸る──ぢつとみてゐると、目の中が痛んできて、物憂い気持になつた。 これも、たいへんに美しく、幻想的な光景です。北海道、というより、道東の、晴れて珍しく暑い日の透明感が非常に感覚的に迫ってきます。 |
さて、今度は表現の方から、改めて作品の〈構成〉へと目を転じてみましょう。この小説のタイトル「兄弟とピストル泥棒」の中には、実は、読者へのちょっとした〈仕掛け〉が隠されているのです。 先ほども見ましたように、話の出だしは、〈兄弟〉と〈ピストル〉です。タイトルは一見、兄弟と“ピストル強盗”の話のようにも見えますが、開始早々に、兄弟は、〈熊〉に襲われそうになった時の護身用にピストルを携行していることがわかります。
なるほど、では、これは熊が出てくる、活劇風の話になっていくのだろうか?しかし、一方で、〈泥棒〉が残っている。すると、〈兄弟〉と〈ピストル〉と〈熊〉と〈泥棒〉、これはどんなつながりになってゆくのだろうか…? この男、一見すると、粗末な身なりをした若い男という、ただそれだけのことですが、実は、見た目ほど簡単な存在ではない。彼が、いわば〈兄弟〉〈ピストル〉〈熊〉〈泥棒〉を結びつけてゆくキーマンなのですが、これは一体どういう男なのか。お話の中で、男についての情報が与えられれば与えられるほど、彼は、よくわからない存在になってゆくのです。 たとえば、身なりです。彼は「八月といふのに双子(ふたこ)か何かの縞の袷(※裏地つきの着物)を着てゐる。くちや/\になつた細い帯をだらしなく腰に巻きつけてゐる。すりへつたぴしゃんこな下駄を穿いてゐる」。
十日ばかり前に北海道へ渡つて来た。何か黒い感じのする運命の潮に乗つて流れでもするやうに、函館から小樽、小樽から札幌、札幌から旭川へとだん/\北の方へ来た。釧路まで来て了つた。もう一と息で釧路の奥の標茶といふところまで辿りつけば、そこに、子供時分に自分を可愛がつてくれた母方の叔父がゐる(後略) 云々と。この頃は、汽車の路線が広がってきていて、移動にかかる時間もかなり短くなっていたようですね。 でも、いくら放浪してきたとはいえ、男の荷物は、あまりに少なすぎます。手ぬぐいにつつんだ石けん箱・歯磨き・楊子(歯ブラシ)ぐらいしかありません。お金のほとんどは、釧路の遊郭で使ってしまって、だから歩いてゆくしかないと言っていますが、なんだかどこまで本当なのか、ちょっと怪しい。 怪しいと言えば、まだあります。男は、兄をつかまえて、いかに、自分はもうたいした〈無頼漢〉で、十四・五歳の頃から〈浅草の裏の方〉、つまり吉原遊郭に行っていたんだとか、それでつい、昨日も、もう持ち合わせが少ないとわかっていながら釧路の遊郭に行ってしまったのだとか。そして、遊郭へ行く理由というのが、またふるっています。 人間は一度道楽の味が身にしむと始末がおへなくなるものだと、彼は自分を辯護した。彼が釧路へ終列車で着いたのは一昨日の夕方だつた。停車場から真ツ直ぐに歩いて来ると長い長い橋にさしかゝつた。罪は橋にある。いや、その時橋の上から眺めると真ツ赤に焼けてみえた空にも、葉裏のやうに藍色にゆるやかに流れてゐた橋下の水にも、沖から戻る漁船の帆に映じた薄桃色の夕映にも、最後にぱつと水を切つて河口の方へ鳴いて飛立つた鴎の群にも罪がある……。
というのは、兄の方は若くても結構酒好きらしく、男に「無論君は酒をやるでせうね」と尋ねます。男も“一升くらいなら”などと答えてしまいます。 ところが、そこで兄が、「どうです。一緒にやらうじやありませんか」とウイスキーの瓶を取り出すと、男はとたんに、「いまはまア止しときませう」の一点張りになり、どうしても呑もうとしません。兄がしつこく誘っても断り続け、とうとう、兄はむかっ腹をたててしまう。すると、弟の目に映った男は、なんだかオロオロしてきたように見えてきたのです。 このようなところもやはり変です。もちろん、遊び人が、全て酒に強いわけではないでしょう。しかし、今、仮に自称十九歳を信ずるとして、十四、五歳の時から、もう四〜五年も吉原のような、当時の日本でも指折りの歓楽街で遊び尽くしていたなら、もっとスマートにお酒をことわる事ができないというのもおかしい話です。“宿についたら、お酒をおつきあいしましょう”といったん逃げるものの、宿でも結局煮え切らずにぐずぐずして、兄はすっかり気を悪くして二人分の酒を平らげると先に寝てしまいます。男は、弟の目には、こんな風に見えます。 その男は涙ぐんでゐた。涙ぐんで兄を視戍(まも)つてゐたやうに、弟の目に映つたのである。 皆さんなら、こういう男の事を、どんな風に思われるでしょうか? 何だか胡散臭いし、嘘をつくし、おまけに、結構気が弱い。冴えなくて、情けなくて、いいところなどちっともない男のようです。 弟は、最初、男には全然好意を持っていませんでした。むしろ、兄さんを横取りされたような憎らしさから、男には意地悪な観察の目を向けていたのです。男が兄から酒を無理強いされていた時も、“飲めないなら飲めないと言えばいいのに”と思っていましたし、宿でも、酒をきっぱり断ることができない男の事が「歯がゆくて堪らなかつた」。 それが、非常にあざやかに描写されているのが、次の部分です。弟は、外の風呂に一人で入りに行くのが気味が悪かったのでので、男を誘って一緒に行きます。 湯は宿の裏手の戸外にあつた。そこは狭い庭で、湯槽の置いてある処から三四間先が直ぐ湖水になつてゐる。もの狂はしく走つてゐる雲の間に冷たい月が照つて、湖水の水を銀ねず色に輝やかした。月を真上に受けたあたりだけが鱗のやうにキラ/\光る小さな浪を立てた。爽やかな微風の吹き渡つてゐるのが岸に生え繁つた、葦の戦(そ)よぎで知れる。葦の間には真つ黒い生物が眠つてゐるかのやうにたつた一艘、丸木船が繋いであつた。 弟はその男と一緒に湯に這入つたが、彼は弟に背中を向けて黙つてゐた。裸體になつたところを見ると、彼はヒドく小さな體であつた。子供のやうな、――自分の仲間のやうな印象を弟に与へた。 いかがでしょうか。もう一度、これは、中戸川吉二が21歳の時の文章なのだということを思い出してみて下さい。 男はここで、一言もしゃべりません。言葉の上で正直になったわけではないのです。でも、丸裸になって、しかも、背中を弟の方にさらしている。〈背中〉というのは、昔からよく言われているように、取り繕ったり隠したりできない、その人の“ひととなり”が一番表れる所です。
「ねえ、君。君もあがらないか、もう」。こう声を掛けながら先に風呂から上がった弟の耳には、返事の代わりに、「啜り泣きしてゐる男の声が幽かに耳に這入つた」といいます。多分、男が泣いていたのは、それが、思いもかけない、他人からの共感に満ちた言葉だったからだと思います。 * * * * * * * * 物語の設定としては、中戸川吉二にあたるのは〈弟〉であり、〈男〉は、昔、本当に、旅の途中で出逢った男のことだったようです。吉二は少年の時の自分の気持ちに立ち戻りながら、この話を追体験し、記憶の中の男を見ているわけです。
つまり、このお話のベースとなっている “作者のまなざし”というのは、少し複雑な、二面的な構造を持っているのです。一面では、〈作者〉吉二は、〈弟〉として昔に返り、少年のような純情な眼差しで〈男〉や〈兄〉たちを見ています。その一方で、〈作者〉はそっと〈男〉の方にも寄り添っていて、若さゆえの過ちや、無軌道さや、つかなくてもいい嘘をつく人のいじらしい心根など、人間くさい愚かしさの方にも寄り添っている。だから、“人間描写”に、存在感のあるリアリティが出ているのだと言えましょう。言い方を変えれば、吉二は、このお話を書きながら、改めて男を理解し直し、少年の時点の自分ににわからなかった事がわかるようになったのだ、と言えます。 |
それにしても、現代、このお話がかえって新鮮に思えるのは、〈弟〉が、見知らぬ男が自分と似たような、共感可能な存在であるということがわかると、突然“堪らなく好きになっちゃった”と感ずるところです。 実は、大正期の文学には、多分にこうした傾向が強く、里見クや有島武郎の文学などは、その典型例とさえ言えます。 また、有島武郎の『生れ出づる悩み』にも、有島が、ニセコにたずねて来た大男を、はじめ、何だか魚臭い、こういう男に無駄な時間をつぶされたくないな、と思っていたら、それが何と、昔絵を描いて持ってきた少年だったのだとわかり、そのとたん、がらっと見方が好意的に変わってしまった、というシーンがあります。 ちょっとしたきっかけで、相手がただ好きになるだけでなく、生涯をかけたつきあいが始まったり、重要な仕事の付き合いが永続的に続いたりする。こうなると、“好き”という気持ちも大事なパワーだと言えると思います。
もともと、吉二が師事した里見クは、雑誌『白樺』の出身。しかし、『白樺』の人たちは、全般的にタイプとして、あまり文壇づきあいを積極的にする方ではありませんでした。
と、こういうと、とても自然な事のようですが、実は、『新思潮』という雑誌は、東京帝国大学をプラットホームとした同人誌だったのです。メンバーも、芥川龍之介とか久米正雄、菊池寛など、後に一時代を画することになる錚々(そうそう)たる顔ぶればかりでした。一方、中戸川吉二は、なまじ〈不良〉ぶって遊んだりしたおかげで、結局、旧制中学もちゃんと了えないままに中退しています(一時、明治大学に籍を置いていたことはありますが、ほとんど登校しなかったとのことです)。普通だったら引け目を感じずにはいられない所でしょうが、彼はそういう所にはまるで頓着がなかったようです。だから、当時から秀才の誉れ高かった芥川とも、うちとけてゆくことができたのでしょう。 考えてみれば、芥川らの作品にも、“嫌いから好きへ”というエモーションの動きを描写すること自体が、物語を成立させている、というものが多い。芥川の代表作の一つ「蜜柑」がそうでしょう。列車に乗り込んで来た、ただの迷惑な田舎娘だと思っていた少女が、見送りに来てくれた弟たちに窓から蜜柑をなげてやり、それを見ただけで、語り手の男は一挙にすがすがしい気分になるというお話です。 殊に、中戸川と芥川とは、単なる文士同士としてのお付き合いだったわけではなく、本当に気心の知れた、親しい友人だったようです。その交流を伝えるものに、芥川龍之介が昭和2年に亡くなった時の、吉二の追悼文があります。 殆ど飯のすんだ頃、菊池久米芥川の三君がどか/\とはいつてきた。(中略) 私たちの知っている、あの、あごに手をあてた、いかにも文学者風に気取った感じの芥川とは、全然表情が違います。中戸川吉二の書く文壇・文士の思い出話というのは、里見クの事はもとより、菊池寛や、谷崎潤一郎に至るまで、本当に生き生きとしていて楽しい。小説家だから、というより、まさに人間好きだから小説家になったという感があります。ですから、「兄弟とピストル泥棒」に話を戻せば、この処女作から、吉二のそうした“人間好き”の目は、遺憾なく発揮されているように思われるのです。 それに、この吉二が 、里見に“友達をつれてきていいですか?”と言って、『新思潮』同人との間を取り持った事が機縁となって、里見─久米─菊池の結びつきが核となった大正文壇の独特の交友ネットワークが出来たわけですし、その、“友達の友達”的なつながりで、大正時代を代表する文芸雑誌『人間』や『文芸春秋』なども誕生したわけです。作風も出身もバラエティ豊かな執筆陣が、自由に作品を発表するという、まさに大正デモクラシー、リベラリズムそのままの体現といったユニークな雑誌が誕生した。そうした意味で、中戸川は、大正の小説界の、大事なキーマンであったと言えるでしょう。 |
さて、「兄弟とピストル泥棒」の旅にお話を戻しましょう。 この兄弟がピストルを持ったのは、先にも触れたように、熊の害から身を守るためです。実際、明治の頃は、北海道はまだまだヒグマ棲息率が高密度の時代で、頭数は現在の約2倍以上、5500頭ぐらいがいたといいます。 しかし、やや拍子抜けのオチですが、熊と見えたものは熊ではなく、ただの赤黒い樹の根でした。「彼らの熊難事件は臆病な喜劇で終った」とあるように、一見、お話の中で、〈ピストル〉とは名ばかり、出番はここで終わったように見えます。
その後、一週間、兄弟は虫さされに苦しんだりしながら、屈斜路までの旅を終えて、帰路、もう一度標茶に戻って来ます。そして、旅に飽きて一刻も早く帰宅したくなった兄弟は、川船で下ることにします。ところが、ここで、その旅最大の思いがけない事態に遭遇することになります。なぜなら、彼らは、偶然に、もうすでに“ピストル泥棒”と化して釧路に護送されるあの男と、一緒の船に乗り合わせる事になってしまったからです。 その当時、釧路地方で最もスムーズな交通機関は、釧路川を行き来する船だったようです。大正5年になると、ここでもポンポン蒸気船が走るようになったということですが、明治末年頃だと、まだまだ船頭さんの手漕ぎの船。下りは一日で標茶から釧路まで行けたものの、上りは大変で、標茶まで4日間もかかったということです。作中にもありますが、下りでも結構長い時間乗っているものですから、船の上で炊事をしたとのこと。ごはんを炊き、川筋で採りたてのきのこをすぐに煮ておかずにしたようで、不便とは思いますが、なんだか野趣あふれて美味しそうです。昭和2年に釧網本線が開通するまでは、こうした船旅の情緒が釧路にも残っていたようです。 しかし、気まずいことに、船にはあの〈男〉が乗っています。しかも、ただでさえ訪れる人も住む人も少ない地方で、大事件など普通は起こりませんので、単なるピストル泥棒未遂事件といっても大騒動の部類。乗り合わせた人で、それを知らない人は誰もいません。その上、警察や乗客はまだ黙っていてくれても、船頭さんたちは、大声でズバズバと噂話をします。この作品のクライマックスは、或る意味では、この、船頭さんたちの遠慮のない〈泥棒〉批評なのです。 一人の船頭が、船が川岸を伝つて走つてゐる間にふと陸へ飛び上つた。飛び上りながら、
幾ら何でも、ここまで言われると立つ瀬がありません。それに、狭い船の上では逃げも隠れも出来ず、かといって別の船に乗り換えることも出来ない。かえって被害者である兄弟の方が、「止してくれゝば好いに」と思って、俵の陰でハラハラしている始末です。兄弟の方は、何も男の事を、感情的に傷つけたいとは思っていないからです。 〈男〉の記述は、この船の中のところで終わります。彼は、釧路へ着くまで、川の水を見つめながらまったく面をあげず、もちろん、キノコも御飯も食べようとしませんでした。作者は、それ以上、男の描写に筆を費やすことも、男の心中に立ち入ることもしていません。しかし、船頭たちにどんなに酷評されながらも、じっと黙り込み、俯いて水を眺め続けているその姿には、風呂の中で弟に背を向けながら、ひっそりと黙っていた男の小さい後ろ姿が重なるように思われます。 無論、彼は、ピストル強盗なんて大それた事をやる気はなかっただろう。ただ、嘘つきで、気が弱いからいつも本当の事が言えない。そういう若者にとって、たとえ本当は使われなかったとしても、熊から自分たちを守ってくれたピストルは、何か非常に頼りになる、持っていれば自分も強くなれるような、そんな気持にさせるものだったのではないでしょうか。ただ、結局それは、何も彼を守ってくれず、そんなことをした自分は、単に、情けない“泥棒”として、みんなの笑い者になってしまっただけなのですが……。 * * * * * * * * ここまで来て、この作品の中で〈ピストル〉は、決してその本来の意味を果たさない、不思議なキーワードだったことが解るでしょう。
実質的には意味を持たない、本来の力も発揮しないようでありながら、みんなの憧れや、欲望の対象となり、人間に余計な事をさせたり、余計な事を考えさせたりする。ある意味では、人の運命まで狂わせてしまう。この、小さな、〈ピストル〉というアイテムは、そんな面白い役割を、この物語の中で果たしているわけです。 こういう事について、書いた当時の中戸川吉二が、どれだけ自覚的だったかはわかりませんが、だとしても、単に心理描写が巧みというだけではない、大変によく造り込んだ、緻密な作品を書く力があった人だったのだと、改めて感じます。 それに、そういう事につい振り回されたり、得意になってみたり、幻想を持ったりするそれぞれのキャラクターに対して、吉二の描写の筆はとてもやさしい。巡査や、無遠慮な船頭達にさえ、皮肉な目や意地悪な目は向けていません。それで全体の雰囲気が、上質なヒューマン・コメディになっているのでしょう。 吉二は、他の作品では、むしろこの〈男〉的なキャラクターを中心に据えて、自堕落だったり、青春期の悩みから滅茶苦茶な行動をとる青年の姿を多く描いています。それはまた、若き日の自分自身の姿でもありました。でも、自殺未遂の事を書いても、女性に振られた事を書いても、とことん救いのないような悲惨な物語は書いたことがありません。
(了) |