日下 言念(くさか・しん) Episode-1
明治二十年〜昭和十三年(1887〜1938)
本名:正親町実慶(おおぎまち・さねよし) 雅号:青蜩(せいちょう)
父・正親町実正(さねまさ)、母・兎美子(とみこ)の次男。正親町公和は兄、園池公致は1つ年上の従兄。 (写真は、明治四十五年正月、白樺新年会の時。満24歳。) |
日下 言念こと正親町実慶のエピソードの一つめは、彼と写真についてです。 彼が写真好きとなった背景には、主に、二つの要因があると思われます。 一つは、アメリカでのロールフィルム方式写真機の発明に伴って、世界的に、写真材料と器具の大衆市場が急成長した事。日本においても輸入の数が増えましたし、同時期に、廉価版のチェリー手提暗箱(小西本店)も開発されました。要するに実慶も、時代の子として、また余裕ある家庭の子として、自然に写真に心魅かれたのだと考えられます。 しかし、もう一つの伏線として、〈華族と写真〉の特別な関わりを見逃すわけにはゆきません。 実は、日本において、〈華族〉と〈写真〉との間には、浅からぬご縁があるのです。 “あなたは華族に生まれたおかげで、自ら働かなくとも衣食は足りるし、社会的名誉も約束されている。されば、何か個人として酬われぬものに力を入れることこそ、皇国への奉公になりましょう。それも、実用の学は、自然報酬を伴いますから、それよりむしろ、あなたの心のままに、美術の学を研究おしなさい。これこそ、今日の日本にもっとも欠けた学問で、しかも、将来、根本的に必要な学問なのですから──” 西周は、日本で最初に西洋哲学を翻訳し、〈美術〉思想を世に紹介した人物でした。そして茲明は、その西の教えを深く心に刻み、5年間のドイツ留学中、文字通り、西洋の美術研究に没頭したのです。 〈華族〉とは、社会の中で何をしなければならないか、何を学べばよいのか。そのような階級者としての自覚と〈美術〉思想、そして〈写真〉とは、明治初期においては、非常に近接した関係にあったのです。さらに、正親町家という家柄は、公家華族の中でも、とりわけ先鋭的な自覚を持ち得た一族でした(「白樺派on
the street」(6)参照)。 しかし、一世代前と違って、実慶の青年期ともなれば、先に述べたように、カメラのハード面そのものが、親しみやすくハンディになりつつあった時代。人事自然の〈真を写す〉よりも、友だちとの思い出を写しとどめる方が、面白く感じられて当然です。 青蜩(せいちょう=正親町実慶)からの写真、園池からのハガキ家から二葉のハガキ、写真は激大のエキサイトメントを起した。争ふ様にして見合った。これは面白い、この山内(※里見)のつら!などと云った。 (七月二十七日) まアよく写(と)れてますねと(※宿の女中が)云って青蜩から送ってくれた写真の中の菅田と己(※里見)がマンドリンを持ってるのを見る。行坊(ゆきぼう ※有島行郎。里見の弟)がそれハ西洋の琵琶だよと云ふ。うそ、マンドリンですよ、(中略) ──この人はこゝに来た事のある人だが知ってるかいと云って志賀君の髯面(ひげづら)を指す。──はアどこかで見た様な方ね。お名前をうかゞへば直(ぢき)に知れるけど──志賀さんさ。──あゝ、えゝとこの方はね──青木さんが居る時分来やしなかったかい──いいえ、えゝと、さう/\武者さんと御一処でしたよ──武者小路さんかい。そりゃこっちのこの人だぜ──あらさうね、随分可笑しかったのよ、オイ武者こりゃどうとかかうとかだったね、なんて武者って随分おかしなお名前だと思ってたの。(中略) ──この貴下(あなた)は大変よく写って居ますよ──本物より余程いゝだらうと中村が横槍を入れる──さうね見合いの時はこの写真になさいよ──それぢゃアさうしよう──素人写真で此の位なら本物はどんなに立派だらうと思ふでせうよ。どなたが御写(おと)りになったの──こいつだ。こゝから面を出してる、と云って青蜩の皃(かお)を指す──この方はと……──そりゃ知るまい、こゝに一度も来た事がないもの──なんておっしゃるの──正親町──武者さんの処へいらっしった様でしたよ──さうかね、それぢゃアそりゃこいつの兄さんだ(後略) (七月二十九日) 旅先の旅館で、女中さんまで一緒になって、写真をあれこれ手に取りながら、話に興じている様子が窺えます。その場にいない人をネタに思い出ばなしに花を咲かせたり、写真映りを見て勝手な冗談を言ったりしているさまは、まるきり今と変わりません。また、他人(ひと)の写真でも、見せてもらっていろいろ話を聞くうちに親しさ感が増すという点も、現代と同じみたいです。正親町実慶の撮ったスナップ写真は、仲間たちにとって、大事なコミュニケーションツールとなっていたのですね。
後年、『白樺』メンバーの中からは、他にも〈写真好き〉の名を残した人が、幾人か出ています。 正親町実慶自身は、大正はじめに『白樺』メンバーから遠ざかり、実業界で激しい浮沈を経たあと、日本の戦時色が濃くなる前にひっそりと亡くなっています。 (by 銀の星 2003/08/13) 注1:回覧雑誌『麥』の同人だった里見と中村貫之が、明治四十二年七月二十三日から三十一日まで、神奈川県藤沢の〈東屋〉という旅館に逗留した際に書き留めた合作の旅日記。この作品は、同年八月発行の『麥』第20号に発表。 参考文献:柳田泉「伯爵亀井茲明の美術研究及び美術論」 |