武者小路 実篤  Episode-1

明治十八年〜昭和五十一年(1885〜1976)

愛称:武者(むしゃ)(無車とも表記)

 

父・武者小路実世(さねよ)、母・秋子(なるこ)の末子。兄姉が7人いたが、6歳上の姉・伊嘉子(いかこ)と3歳上の兄・公共(きんとも)以外は、みな1歳未満で夭折している。また、父の実世は実篤の満2歳の年に病没。年若い未亡人となって奮闘していた母にかわり愛情を注いでくれた姉の伊嘉子も、結婚直後に肺病で死去(実篤14歳)。兄の公共が暖かく見守ってくれていたものの、身内に不幸の多かった実篤は、孤独な少年期をおくっていた。

 

 

(写真は、明治三十九年四月、志賀直哉との徒歩旅行の記念撮影。実篤20歳。)
 調布市武者小路実篤記念館蔵 ※無断複写・転載禁止


〔A Lonely Walker ─ ひとりぼっちの歩行者〕

歩く白樺派の中でも、おそらく筆頭格に挙げられるのが、武者小路実篤。彼の小説の中にも、友だちと行き来する・どこかへ行く間に話しながら歩く、といったシチュエーションがよく登場します。
 とりわけ、そうしたシチュエーションが物語の中で最も生き生きと結実したのが、戦後の〈山谷五兵衛もの〉シリーズでしょう。〈馬鹿一(ばかいち)〉や〈真理先生〉といった、異色の友人たちの間をあちらこちらと回っては、ユーモアを交えて見聞を伝え歩く〈山谷五兵衛〉。ストーリーによっては、重要な“狂言回し”の役割も果たす人物です。そのキャラクター像は、若き日以来の武者小路の精神活動が形象化された姿とも言えそうです。

しかし、そうした活発な“しゃべり歩き”の行動様式も、実は彼が、青年期以降に身につけたもの。それ以前の回想の中には、まったく見ることができません。

 例えば、学習院初等科時代。
 身につける物は帽子から靴の果てまで兄のお古づくめだった実篤は、同級生の少年の一人に憧れるようになってから(当時、学習院は初等科から高等科まで一貫して男子校でした)、さすがに自分の貧しげな外観が気になりだします。年齢的にも、ちょうど自我が芽ばえ始める頃だった上に、身なりの良い洒落(しゃれ)者の多かった学習院でのこと。辛さはひとしおだったでしょうが、こればかりは家の事情で、どうする事もできません。母に叱責された実篤は、論語の「君子は悪衣悪食を恥ぢず」という言葉を心の支えにする一方で、ヒロイックな人物や行動に強く憧れるようになります。

 彼はその時分、どんなに力の強い男も、自分を殺すことは出来ないのだと思った。だからさう恐れる必要はないと思った。しかし亜細亜(アジア)の王さんになる彼は、その為にいろ/\考へたり、鍛へたりしなければならなかった。元より子供だから、一方呑気ではあったが、身體を鍛へることゝ、胆力を養成することゝ兵法を心得ることゝ、智慧を研き、謀りごとを研究する気持ちだけは、毎日もってゐた。
 そして粗食や、苦痛や、餓や、風雨に自分の身體をきたへやうと思った。彼はよく休日にはあてもなく歩きまはって昼飯も食はず水ものまずに、夕方近くまで歩きまはって、腹がへってへとへとになって帰って来た。之ではまだだめだと思った。雨風のひどい時には裸足でとび出して棒をふりまはして、母に心配さしたことも多かった。

(「或る男」四十一)

 〈亜細亜の王さん〉の夢は、従来の研究では、いかにも武者小路的な誇大な夢想とも、放っておけば危険な方面に向かいかねなかった権力志向の萌芽ともいわれてきました。
 でも、反面、その夢想癖は、当時の実篤が生きていた現実が、あまりにも惨めで希望がなかった事の裏返し。いわば〈代償行為〉だったことを見落としてはならないでしょう。

 まだ10歳をわずかに出たばかりの少年は、“英雄の子供時代=今の自分”という空想だけを道連れに、ひとりぼっちで歩き回った。学校で受ける蔑視の痛みを、空想の世界で“英雄を鍛える艱難辛苦”に置き換えながら、必死に克服しようとして……。上の文からは、そんな光景が浮んで来るように思えます。

やがて思春期に入ると、さすがに、〈王さん〉になる夢も影を潜めます。でも、それは、空想には現実の孤独を埋める力はないという事実に直面せざるを得なくなってきたため。対幻想が〈対異性〉に向かう時期ともなると、一人で在ることの孤独感も、さらに深刻になります。

 しかし彼は本当の友達と云ふものはもってゐなかった。(中略)仲のいゝ気楽な友達はあったが、それは学校での友達であった。親身にいろ/\のことを話せる友達ではなかった。少くも彼にはお貞さんのことを話せる友はなかった。また親友らしいものもなかった。彼は学校がすむと真一文字に家へ帰った。(中略)
 夏休みが来て彼は例によって金田の叔父の処に避暑に行った。
 彼は朝早く海岸を歩くことが好きだった。裸足で波のよせては帰る処を歩くのが好きであった。夏の朝の清い空気のなかで、彼は波に足をあらはせながら散歩するのが好きであった。力は内に漲(みなぎ)って来て何でも出来ると云ふ気がする。彼は歌を唄ふことが出来ないで大きな声で怒鳴ったりする。天上天下唯我独尊と云ふやうな気がする。自分が生きてゐなければ蒼生(そうせい※人民・あおひとぐさ)を如何せん、なぞと云ふやうな感じがする。自然は自分の為に存在してゐるやうな気がする。だが彼は孤独であった。
 彼のわきに立つべき人が、彼のわきにたってゐなかった。

(「或る男」七十五) (※学習院中等科時代、推定・明治三十五年前後、17歳頃)

 〈歌を唄ふことが出来ないで〉、大きな声で怒鳴っている〈彼〉。これは、おそらく事実そのままであったと同時に、きわめて象徴的な姿だと言えるでしょう。内から沸きあがるエネルギーは感じるものの、まだ、それを自力でコントロールする事もできず、誰かと調和(ハーモナイズ)させてゆく術も知らない。自分と自然とが渾然一体となったかのような歩行体験は、一種、宗教的な〈法悦〉にも近い感覚だったでしょうが、しかし体験を分かち合う人がいなければ、それはあくまで個的な幻想に過ぎません。

実篤が、個性と個性が出会って共鳴する喜びを率直に表現するようになるのは、やはり、のちの『望野(回覧雑誌・『白樺』の前身)』メンバー(正親町公和・志賀直哉・木下利玄)と親友同士になってからのことです。

 世の中の多くの人は他人、或は他物と合奏することの如何に楽しきかを知らないらしい。しかし多くの人の楽しむ処を見ると大概は個性と個性が合奏する時におこる楽みである。(中略)
 しかし合奏の相手によって快楽の形がかはってくる。相手によって華かにもなる、淡くもなる、勇ましくもなる、静かにもなる、清くもなる、強くもなる、深くもなる、いろ/\になる。(中略)
 自分は人の世に於て声高く自己の歌を唄ふ個性が、他の個性に合奏する相手を見出し得ざる時云ふべからざる淋しさと悲哀を感ずることを知ってゐる。(中略)さうしてかかる個性の人の世をすてゝ自然を友にすることを同情する。(中略)
 要するに人は孤立して存在し得るには余りに自然の児である、社会的動物である。人間は意識的に或は無意識的に自己の個性と合奏し得る相手を求めてゐる。

(「四つの絵に顕はされたる快楽」 『白樺』Vol.1-No.4 明治四十三年 ※執筆は明治四十一年)

 その、彼の一生の思想をも方向づけた〈個性の合奏〉の喜びは、ある日、用事で一緒に歩いていた志賀直哉から、“有島壬生馬が外国に行ってしまって、自分には心をうちあけられる友だちがいない。君に、そういう友だちになってほしい”と打ち明けられた時に始まったのでした。明治三十八年頃の出来事です。

 きっとそれは、武者小路が Lonly Walker の運命から解き放たれて、生涯を共に歩くことの出来る道連れを得る事ができた、最初の瞬間だったのかも知れません。

(by 銀の星 2003/08/21)

参考文献:武者小路実篤『或る男』 新潮社 大正十二年(1923)