有島 生馬 Episode-1
明治十五年〜昭和四十九年(1882〜1974)
本名・有島壬生馬(みぶま)
父・有島武、母・幸。五男二女のうちの次男。長男が有島武郎、四男が里見ク(本名・山内英夫)。
初等科六年から学習院に通い、志賀直哉と親友同士となったが、満17歳の時に肋膜を患い、休学。父の故郷・鹿児島県川内で静養中、日本のカトリック僧と出逢った事がきっかけでイタリアの芸術に魅かれるようになる。
翌明治34年(1901)7月、東京外国語学校伊太利語科に入学し直し、22歳の年には洋画家・藤島武二のもとに入門。明治38年(1905)から43年までの5年間、イタリアに留学して絵画の勉強にいそしみ、ヨーロッパ諸国を歩いて様々な西洋芸術について学ぶ。
帰国後のセザンヌ紹介と、南薫造と共に出展・開催した白樺社第一回目の滞欧記念絵画展覧会とによって、日本近代絵画史上にその名を刻みこんだメルクマール的存在。
(写真は、明治四十五年正月、白樺新年会の時。満29歳。)
調布市武者小路実篤記念館蔵 ※無断複写・転載禁止
〔榛名のふもとに眠る夢 ─生馬と夢二のフレンドシップ─〕 湖のそばの、こぢんまりした三角の山。まるで神さまが富士山を模して造った、可愛い箱庭みたいな…。 画家の竹久夢二(明治17・1884年生まれ)は、昭和5年(1930)、榛名湖のほとりに小さなアトリエを建てました(写真2枚目)。 そして彼は、その夢をもっと確かなものにするべく、外国で展覧会を開くなどして資金を集めようと、翌年に渡米したのです。 でも、夢のかけらは残しておくもの。夢二がたびたび訪れていた伊香保周辺には、彼の作品を集める熱心なコレクターや研究者、そして伊香保温泉の人々などが、夢二の死後も彼をなつかしみ、慕い続けました。やがて昭和56年(1981)、6年以上の構想期間を経て、竹久夢二伊香保記念館がオープン(写真3枚目)。数多くの夢二作品が、常時展示されるようになりました。また、平成6年(1994)には、榛名湖のほとりの夢二のアトリエも、当時の記憶や写真をもとに再現され、誰もが訪れて見ることが出来るようになりました。 今、夢二記念館は本館のとなりに新館が併設され、さらに別棟として〈音のテーマ館〉(オルゴール館)や〈義山楼(ぎやまんろう)〉(ガラス工芸)の2館が開かれています。夢二作品だけではなく、夢二の産業美術研究所構想にちなんで、大正から昭和初期のレトロモダンな美術工芸品を出来るだけ集める、という方針のようです。ホールには大正時代のピアノが置いてあったり、館内の照明もランプシェードが大正期のものだったり…。私は、夢二の生家のある岡山の方には行ったことはありませんが、この伊香保の、夢二にかける意気込みの熱っぽさは、岡山に決して勝るとも劣らないのではないでしょうか? * * * * * * * * さて、そうした夢二の〈産業美術〉の夢に魅かれて、その死後も彼の夢のかけらを大事にしていた男が、ここにも一人。そう、それが『白樺』出身の画家・作家にして有島三兄弟の一人、有島生馬(いくま、本名・壬生馬(みぶま))でした(明治15・1882年生まれ)。 もともと、夢二と『白樺』とは、浅からぬ縁がありました。まず、『白樺』を発行した出版社〈洛陽堂〉ですが、夢二もこの洛陽堂から、『白樺』創刊前年の明治42年(1909)12月に、最初の著書『夢二画集 春の巻』を刊行しています。(一説によると、洛陽堂が本を出版したのもこれがほとんど初めで、当時の店主が、夢二の絵のふんわり華やかな雰囲気にちなんで、自分の社名を「洛陽堂」としたのだとか…。)(※注) 一方、夢二にとっても、同発行所で出している『白樺』は気になる雑誌だったことでしょう。毎回さまざまな西洋美術を紹介してくれるだけでなく、その同人や仲間には、有島壬生馬や南薫造といった洋行帰りの新進画家がいるらしい…などと思い、同世代の芸術青年としては興味津々だったに違いありません。そして、白樺主催の展覧会があればかけつけていたらしいことは、明治44年(1911)10月の泰西版画展覧会の時など、「第一の入場者は竹久夢二君で、十一日の午前七時四十分だつた。開場時間より二十分早く来て下さつたわけだつた」(『白樺』明治44年11月 署名・記者)と書かれていることからもうかがえます。 また、夢二は、『白樺』に紹介されていたハインリッヒ・フォーゲラーという画家からも大きな影響を受けました(最初の紹介は明治44年12月)。フォーゲラーの描く繊細な女性像もさることながら、自然を愛し、芸術と人々の生活が融合する穏やかな理想郷を目指す彼の姿勢に、深く感銘を受けたようです。事実、フォーゲラーは、ドイツのヴォルプスヴェーデで、自分の信念にもとづいた芸術家コロニーを実行に移していた人(1894〜1930年まで)。また、短い期間ですが、『白樺』同人とも手紙で交流をしていました(明治44年・1911〜大正2年・1913 主に手紙を書いていたのは柳宗悦)。 夢二がいつ生馬と友だち同士になったのかは、具体的に書かれた資料が少ないので、今のところはわかりません。しかし、生馬と夢二の絆がいかに深いものだったかは、生馬が、芸術界に理解者が少なかった夢二を、フランスの詩人・ミュッセになぞらえて〈孤独と寂寥の詩人〉と呼び、賛辞を贈ったこと(生馬「悲しき影の夢二」大正七年)や、関東大震災以来人気が落ちて沈み勝ちだった夢二を、いつもそばで支えていたことなどからもよくわかります。夢二を元気づけるため、たびたび伊香保や草津の温泉に連れ出していたのも生馬でした。また彼は、夢二が亡くなった時、墓地に彼の碑を建てて、〈竹久夢二を埋む〉の文字を揮毫しています。その翌年には、榛名湖畔に夢二の歌碑を建てる計画の代表者にもなっています。夢二亡きあとも、生馬はずっと彼のよき友だちでした。 しかし、そういう生馬の行動を、不可解に思う周囲の人もいたようです。特に志賀直哉は、“本来芸術家であるべき生馬が、生活の方を大事にして、竹久夢二の絵などに惚れ込んで芸の道を捨ててしまった”と否定的に考え、それが60歳過ぎての生馬との絶交の一因となりました。「(生馬は)芸術を信じないで芸術家といふ額縁にをさまつてゐる事が困るのだ。君は金持ちといふ額縁にをさまつてゐれば一番似合ふ人だ。(中略)夢二好きで、その蒐集をしてゐるとでも云へば却つて好感が持てる位である」(志賀「蝕まれた友情」昭和22・1947年)。 でも、時の流れが答えを出してくれることはあるもの。もう、今や、志賀と生馬の絶交のいきさつを憶えている人はほとんどいないでしょうが、それとは関係なく、夢二の絵は時代を越えて思い出され、愛され、その洗練されたモダンさが見直されています。夢二のきものや半襟のデザインの斬新さは、現代のカジュアルきものブームの源流ともなっています。何より、もう100年も経って、美意識も価値観もすっかり変わってしまったはずなのに、いまだに、夢二デザインのハンカチや小物を「すてき〜」「可愛い!」と手にとる女性たちが後をたたない、ということは、考えてみればものすごいこと。誰にも出来るということではありません。 大正・昭和期に画壇で活躍した人たちは多けれど、みんなだんだん影が薄くなって、今でも人々の心に生きている画家はほんの一握り。おそらく、志賀直哉が“これぞ日本の芸術家”と考えていた人たちにしても、例外ではないでしょう。そこへゆくと、竹久夢二の作品は、芸術家として、そして優れたデザイナーとして、人々に豊かなイマジネーションを与える可能性をまだまだ秘めているのですから……。やはりこのことに関しては、生馬の勝ち!といえましょう。 |
〈注〉
この説の出典がわかりましたので、以下に記しておきます。
宇野浩二 『文学の三十年』(中央公論社 1942(昭和17)年刊)より
今の大抵の人は夢二の絵本が洛陽の紙価を高めた頃の事を殆ど知らないであろう。が、『夢二画集』──「春の巻」「夏の巻」「秋の巻」「冬の巻」──を出した洛陽堂という本屋の主人の河本亀之助と、私(宇野)は、大正七八年頃に、逢ったことがある。その頃の或る日、私が、河本に「どうして洛陽堂という名を附けたのですか、いい名ですね」と云うと、頭の綺麗に禿げた笑顔(えがお)のいい河本は、「ちょうど夢二の『春の巻』を出しまして、九段の上を通っていますと、頭から桜の花が散りかかって来ましたので、『春の巻』が売れた嬉しさから洛陽の春という言葉を聯想しましたので、洛陽堂と附けたのです」と云った。
夢二画集を出して当たった洛陽堂が、「白樺」を出し、また「白樺叢書」として、武者小路実篤の、『お目出たき人』、『世間知らず』、志賀直哉の『留女(るめ)』、その他を発行しているのは面白いではないか。(後略)
※『宇野浩二』(シリーズ・人間図書館:「作家の自伝」30 田澤基久編 日本図書センター 1995年)より引用